美丈夫の嫁10 7





 叶さんの体調は良くなったらしいが、少しの間蔭杜に留め置かれることになった。叶さんがこれまでどうやって生活してきたのか、環さんが身辺を調べているからだろう。
 下手に表に出すよりも目の届くところにいた方がまだ扱いやすいとでも思っているのか。
 客間に逗留している叶さんを、お手伝いさんたちは美丈夫にそっくりだと口々に噂されている。本家の人々は叶さんを警戒しているけれど、叶さんはお手伝いさんたちに優しいらしく、人柄も美丈夫に劣ってはいないそうだ。
 物腰の柔らかさから、美丈夫と間違えてしまったと反省している声も聞いた。
(確かにそっくりではあるが)
 蔵で美丈夫と叶さんが対峙しているところを見て、二人はよく似てはいるけれど絶対的に異なる部分があると感じた。
 どこがどうと、上手く表現は出来ない。顔の造形の細かな部分が違うなどは、同一人物ではないから必ずあるはずだが、そういう問題ではないような気がする。
 それ以外の何かで俺の目は叶さんと美丈夫を区別していた。
 美丈夫は家に帰ってくるのが遅くなっていった。理由は訊いていないけれど、おそらく叶さんについて母屋で環さんたちと話しているのではないかと思っている。帰宅すると憂鬱そうな表情をしていることが多い。
「何かありましたか?」
 帰宅して毎日俺にそう尋ねてくる。
 しかし問われたところであるわけがない。俺は二人暮らしをしているこの家から職場に通い、大抵そのまま直帰するだけの生活だ。寄り道をしたとしてもスーパーやドラッグストアなどの生活必需品を買いに行く程度の寄り道しかしない。
 正門も通らずに勝手口から自宅に入るので母屋に足を向けることもない。蔭杜に暮らす人々の中で、顔を合わせるのは美丈夫だけという日もざらだ。
 休日でなければ叶さんと遭遇する機会が無い。その休日も蔵に行かなければ、出会うことはないだろう。接点の無い人間同士だ。
 美丈夫は何を心配しているのか、と首を傾げたくなるけれど。訊かれる度に同じ返事を繰り返していた。
 大体蔭杜のことに関しては常に蚊帳の外にいる俺に、叶さんだって接触しようと思わないだろう。
 けれど彼は突然、職場に姿を表した。
 一瞬見間違いかと思った。売り場で新刊のハードカバー本を手に取っている背中は、俺がよく知る男にあまりに似ているからだ。美丈夫が遊びに来たのか、しかしこの時間は大学で講義を受けているはずだ。
 まさかと呟いた俺の声が聞こえたわけでもないだろうに、男はこちらを見た。予想していた顔立ちに、予想を裏切る人だと分かった。
「叶さん、どうしてここに」
 声をかけると叶さんは苦笑いを浮かべる。
「上総さんがこちらで働いていると聞いて、興味が沸きました。客間にずっと押し込められるのも息が詰まって、蔵の中もそう簡単に探させて貰えないし」
 どうやら赤い箱を探すのは難航しているらしい。敷地内を勝手にうろうろするなと本家から注意されているだけに、行動が制限されるのだろう。
 母屋で寝泊まりをしているが、当主が歓迎していないと肌で感じるような環境は叶さんにとって居心地が良いわけもない。外の空気が吸いたくなるのも致し方ない。
「ここはバイト募集はしてませんか?いっそ大学も辞めて、地道にバイトをして少しずつ借金を返そうかと、お世話になっていた人と交渉しようかとも思ってます」
「三百万なんて大金、うちでバイトをしてもいつ返せるかなんて分かりませんよ。それに一人暮らしをしながらでは生活費もかかる」
「そうですね」
 うちでバイトなんて軽い冗談だろうが、それでも大学を辞めてバイトで借金を返すと言われたことに、俺はつい厳しい意見を述べていた。
 しゅんと肩を落とした叶さんに、言い過ぎたと後悔しても遅い。
(追い詰めるようなつもりはなかったのじゃが……)
 彼の置かれている状況はまさに崖っぷちで、どんな仮定の話であってもダメージに繋がるか。それでも蔭杜は叶さんに何の助けもしないつもりだろうか。
「……お昼、外で一緒に食べませんか?」
 丁度昼休憩の時間になる。そう誘うと叶さんは顔を上げては表情を輝かせた。たかが食事に誘ったくらいで、ここまで喜ぶことはないだろうと思うほど、明るくなった表情にほっとする。
 罪滅ぼしにはなりそうだ。
 バイトの子たちにお昼は外で食べてくることを告げて、叶さんと一緒に近所の洋食店に入った。
 店はやや狭く、カウンタとテーブル席が三つ。夜にはバーにもなる店は落ち着いた雰囲気の店内で、無駄な装飾を省き、シンプルに整えられていた。だが観葉植物が幾つも飾られているので素っ気ないイメージはない。
 客層も比較的年配の方が多い。昼間でも騒がしくないので俺は気に入っていた。
 テーブル席は埋まっていたのでカウンタに通される。並んで座ると叶さんと美丈夫は身長も同じくらいだと分かる。
 どこまでも似通っているらしい。
「奢らせて下さい」
「いえ、そんなわけには」
「遠慮しないで下さい。これでも一応社会人として、給料を貰ってますから」
 金に困っている学生に金を支払わせるつもりはない。叶さんも懐事情を俺に知られているからかすぐに引き下がってくれた。
 俺が豚肉のミルフィーユカツのセットを頼むと、叶さんはデミグラスハンバーグのセットを選んだ。美丈夫なら何を選ぶだろうかと、ふと考えたけど答えは出てこない。
「久しぶりに誰かと食事をします」
 メニューを下げて貰うと叶さんはにこにこと、それは嬉しそうに言った。
「客間で、ずっとお一人ですか?」
「はい。隔離されているみたいです。俺は厄介者ですから、仕方がない。父がそれだけのことをしたんです」
「ですが、お父さんがしてきたことを、息子にまで背負わせるような真似はどうかと思います。ついこの前まで未成年で、保護されるべき立場だったはずです」
「本家が俺を警戒するのは何も父だけが原因じゃないでしょう。子どもの頃から俺と従兄弟たちの関係は悪かったですから。警戒されるのも無理はないような子どもだったと、自覚もしてます」
 冷たくされても不条理とは思っていないと、叶さんは冷静に喋っている。
 同情を煽るわけでも、自分の境遇を嘆くでもない。客観的に自分の立ち位置を測ることが出来るその姿勢は、美丈夫を彷彿とさせる。
(そういうところが従兄弟らしいと、そう言ったらあのお人は機嫌を損ねるじゃろうな)
 叶さんと似ていると言うと露骨に嫌がる人だ。
 注文した料理が届くと、叶さんは手を合わせて「頂きます」とちゃんと言ってから食べ始めた。背筋は伸びており、ナイフとフォークを扱い手つきも乱れがない。食べ方が綺麗で、マナーが良い。
(よく出来ている)
 横目でちらりと観察しながら、俺は何故かそう思った。
「いつまでもここにはいられません。大学を辞めるにしても、手続きをしなきゃいけない」
 食後のアイスティーが運ばれてくると、それまで当たり障りの無い会話をしていた叶さんは、ぽつりと零した。
 選びたくないその道を、それでも選ばなければいけない局面に来ている。その苦みを飲み込むようにアイスティーに口を付ける。グラスの中で氷がぶつかり合ってはカランと涼しげな音を立てる。
「辞めるのではなく、とりあえず休学されては?」
「休学しても戻れるかどうか分かりません。そもそも、俺には帰る場所もないんです」
「お父さんの友人の元に帰れば大変なことになるから……?」
 叶さんはそこから逃げてきた。
 執着される恐ろしさが叶さんにはべったりと張り付いている。
「……とても優しい人だったんです。父の友人というだけで、血の繋がりもない俺の面倒を見てくれた。学費だけでなく住むところを与えてくれて、就職するまでここにいていいから安心して欲しいって言ってくれたんです。でも、駄目になってしまった」
「駄目に……」
 一体それが何を意味しているのか。
 首を傾げる俺に、叶さんは苦笑するだけだった。
 代わりにカウンタの上に置かれている叶さんのスマートフォンが着信を知らせる。店に入る前にも鳴っていたけれど、叶さんは画面を見ただけで電話に出ることはなかった。
 その時はすぐに切れたけれど、今はずっと鳴り続けている。
 通話するまでは引き下がらないという、相手の意志を感じさせる長さだ。
「うるさくてすみません」
「出ないんですか?」
「……居候をしていた、父の友人からなんです」
 ああ、と腑に落ちた。
 通話に出たとしても、あまり良いことは聞けないかも知れない。だから取らずにいるのだろう。
 けれどそのまま放置していてもきりが無い。それに大学の件も住むところについても、その父親の友人を無視して事を進められるものでもないだろう。
 対決しなければいけない、無視出来ない相手であるはずだ。
 しかし傷付くと察しながらも、電話に出ろなど言えるわけもない。  むしろ着信音が切れないかと願いながら押し黙っていると、叶さんは溜息をついた。
「失礼します」
 そう告げて、スマートフォンを手に取った。息を呑んだ俺の前で、スマートフォンから悲鳴のような声が響いてくる。
『叶!?やっと出てくれた!どこにいるの!?黙って出て行って!心配するでしょう!?どうして出て行くの!早く帰ってきて!早く!』
 叶さんの返事も待たず、一方的に喋り続ける女の声。金切り声としか言いようのないヒステリックな声に思わず眉をひそめてしまう。
 店内には音楽が緩やかに流れているが、その音に紛れず隣にいる俺の元にもはっきり届いてくるのだから相当な声の大きさだ。
 周囲にいた客はすでに先に席を立って、今は一番離れたテーブル席にしか客はいない。彼らにはさすがに聞こえないだろう。
 しかしカウンタの向こうでマスターと思われる人が調理中だ。何を作っているのかは分からないけれど、コンロの炎が電話の音を消してくれていると祈る。
『聞いてる!?私は貴方がいなきゃ駄目だって言ったじゃない!それなのにどうして置いていくの!連絡も付かないし、私がどんな気持ちでいたか!どうして無視するの!?黙ってないで何か言ってよ!』
 泣き出してしまったのか、それから声は聞こえなくなる。けれど俺の耳の奥には空気を引き千切るような声がこびりついている。
(執着というか、妄執じゃな)
 常軌を逸している。そう感じるには十分過ぎる声だ。
「……まだ、帰れない」
 叶さんは女性の声が止まった隙間に、そう告げた。
 強ばった横顔はスマートフォンから女性の手が伸びてきて、掴まれそうだと危惧しているかのようだ。
『どうして!?なんでよ!どこにいるの!?叶!叶!お願い!ここに来て!私のそばに!!』
「ごめん」
 懇願する女性の声に、耐えられないとばかりに叶さんは通話を切った。スマートフォンをカウンタに置いて、深く息を吐く。
 たった数分のことなのに、どっと疲れたのだろう。聞いているだけの俺ですら頭が痛くなった。
「……帰れませんね」
 こんな風に狂おしいほど自分を求めている相手の元に、快く帰れるわけがない。。正直身の危険からあるだろうと思えるほど、喋っている相手は正気を失っているようだった。
 叶さんは片手で頭を抱えた。
「前はこうじゃなかった。ですが身内を亡くされ、途端に俺を束縛するようになってしまって」
「なるほど……」
 亡くなった身内の代わりに叶さんを縛り付けようとしているのか。それとも誰かにそばに居て欲しいという気持ちが強すぎて、叶さんを常に手元に置いておきたくなったのか。
 喪失を埋めるため、金銭を代償として、叶さんをコントロールしたがっているのかも知れない。
 相手の気持ちは想像するしかないが、叶さんが帰れないことだけは確かだ。
「どこかに逃げてしまいたいと思います」
 儚い台詞だ。けれど今の叶さんにとっては紛れもない本心だろう。
「金があれば、自由が手に入る。俺の居場所も出来るんです」
「……そうかも知れません」
 いや、おそらくそうなのだ。
 しかし真っ向から認めるにはあまりにも世知辛い。
 同情しながら、何もせずにただ話を聞くしかない自分がもどかしかった。




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