美丈夫の嫁10 6





 美丈夫と叶さんが衝突して、重たい空気を残した蔵でそのまま本を読み続ける気持ちにもなれず、美丈夫と共に家に戻った。
 関わるなと言われたのに、蔵で暢気に叶さんと喋っていたことは美丈夫にとっては不愉快だっただろうか。しかし向こうから来られたのに、拒否するのも悪い。
 何よりあの人が置かれた状況が、俺は気になっていた。
 話を聞けば聞くほど、放っておくのが可哀想だ。まして蔭杜の対応が冷淡で、つい不憫に思ってしまう。
「何を話していました?」
 つい同情してしまう俺の気持ちの揺れを止めようとするかのように、美丈夫はリビングに入るなりそう切り出してきた。
 特に隠すようなことでもないので、俺はアイスコーヒーを入れた後に叶さんとの会話を再現した。何しろ美丈夫が細かく質問を入れてくるので、もはやボイスレコーダーでも仕込んでいた方が楽だっただろうに、というくらいに詳細に語らなければいけなかった。
 とは言っても叶さんとの会話はほんの数分のことだ。大した中身はない。
 喋り終わると美丈夫は機嫌を損ねたようで、コーヒーを一口飲んでは明後日方向を睨み付けた。
「気に食わない。そんな顔をしておるな」
「その通りです。叶も大人しくしていればいいのに。叩き出してやろうか」
 大袈裟でもなく、そうすればいいと一言告げれば実行してしまいそうな勢いがあった。
 逆鱗に触れられた獣のように、とても苛立っているようだ。
「環さんは、叶さんに関して何と仰っている?」
「姉は身辺調査が終わるまでは手元に置いたほうがましかも知れないと言ってます」
「身辺調査……」
 ものすごく警戒をしている。
(どれだけ信用してないのか)
 きっと俺の顔には「そこまでするのか」という疑問が浮かんだのだろう。美丈夫は「あれは良くない人間ですよ」と諭すようにゆっくり口にした。
「根拠は?」
「子どもの頃からの経験です」
「だが昔のことじゃろう。まして叶さんは父親が蔭杜から絶縁されて、随分苦労をされたようじゃ」
「あの父親ですから。しかし本当に苦労をさせられるだけの子どもだったかどうかは分からない」
 どうしても叶さんのことを疑ってしまう心境は仕方がないのかも知れないが、父親が酷い人間だと分かっているのに子どもにまで責を負わせるような発言は、聞き逃せない。
 叶さんから話を聞いたばかりのせいか、美丈夫の言い方が少し神経に障ってくるようだった。
「金がない暮らしというのは人を追い詰める。貧しさは心身を蝕んで人格形成にも影響するじゃろうよ。あの人はおまえさんが知っている人ではないやも知れんぞ」
 本家と繋がっている間はどれほど意地が悪く、傲慢な子どもでも、外に出されて金のない暮らしをしている内にがらりと性格が変わることもあるだろう。
(まして父親が亡くなってからは他人の家で暮らしていると言っておった)
 他人の家で我が儘が言えるかどうかも、気になるところだ。もし言えないような家ばかり転々としていれば、肩身が狭く息苦しい暮らしだったはずだ。
 今だってせめて金があれば、と苦々しく思っている。
「俺は貧乏人じゃから。金がない苦労はなんとなく分かる」
 貧乏人というのは大袈裟だったかも知れない。けれど美丈夫からしてみれば、俺の暮らしだって貧乏だと感じられるレベルであるはずだ。
 事実隣で美丈夫は弱ったように眉尻を下げては、唇を閉ざしてしまった。
 美丈夫には言い返せないことを当てこすりのように投げつけた。困らせてしまってからそんなことに気付いて、胃の辺りに鉛がずっしりと沈んでいく。
「本来なら、栄さんがおまえさんの嫁になるはずだったそうじゃな」
「はい」
「その方がよろしかろうに。俺なぞよりよほど頼りになる。おまえさんにとって最高の相棒になったのではないか?ああ、もしかして栄さんは女性と結婚したいと、おまえさんにお断りをしたとか」
 美丈夫に嫁の候補がいたなんて知らなかった。
 誰もなり手がいないから、俺にお鉢が回ってきたのだと思っていた。それにしては美丈夫の二十歳という年齢は早いと思っていたが、さっさと決着をしたかったのかと勝手に予想していた。
 栄さんは志摩と付き合っている。女性といずれ結婚したいから、嫁という立場に収まるのは困ると辞退したとすれば、納得も出来る。
「栄から断られたわけではありません。俺が貴方を嫁にしたかった。貴方が欲しかったんです。どのような手を使ってでも。その理由は、分かって下さると思っています」
 美丈夫は俺の手を握っては、それまでの冷淡な眼差しに熱を込めた。
 先ほどまでの忌々しいとすら言い出しそうだった表情は一変している。
 熱に浮かされたような瞳にじっと見詰められては、絡まった視線から蕩けそうな甘さが流し込まれている。反射的に距離を取りたいと思ったのだが、手を取られているのでそれも出来ない。
「……それは、聞いた」
 この人は俺が欲しいらしい。
 どうしてなのかはきっと永遠に分からないのだが、本気であることは承知している。疑いようがないほどに証明してくれたというべきかも知れない。
「ご理解頂けませんか?俺の気持ちはまだ足りないでしょうか」
「いや、十分じゃ。愚問であった、申し訳ない」
「俺は貴方に誰よりそばにいて欲しいんです」
 質問は撤回させて欲しいのだが、美丈夫は凡人ならば一発でノックアウトされるだろう口説き文句を囁きながら、ぐっと俺に向けて体重をかけてくる。
 俺はまさに平凡な人間なので、そうして真剣かつ甘やかな声で囁かれるとめまいのようなものを覚えてしまう。ただでさえくらくらする意識に追い打ちをかけるようにして美丈夫が唇を塞いでくる。
「ん……っ」
 後頭部を掌で包まれ、固定されて口付けを繰り返される。舌で俺の唇を開かせようとするのを感じては、つい美丈夫の耳たぶに触れて引っ張った。
「おまえさん、昨日、シたじゃろう」
 旅行先で身体を重ねてから、美丈夫はセックスを度々したがるようになった。
 毎日抱きたいと言われた時は目の前に宇宙が広がったものだ。この人は……何を言っているのか……という呆然とした気持ちが俺に幻覚を見せていた。
 俺にとってセックスなんて毎日する行為ではない、まして自分が抱かれる側になり、身体の負担を考えるととてもではないが毎日なんて出来るわけもなかった。
 体力気力精神力を考えて、セックスが出来るのは翌日が休みの場合のみ、と俺は美丈夫に突き付けた。身体の感覚が元に戻るまで、一日の猶予が欲しかった。
 美丈夫はものすごく渋った。一度抱くともっと欲しくなったと熱弁されて、俺は耳を塞いでは「無理無理!」とひたすら逃げた。
 美丈夫は無理強いをするような男ではないので、俺が無理だと言えば手を引いてくれる。なので結局約束事など決めずとも、自然とセックスは休みの前日のみになっていた。
「これから明日の朝まで時間はたっぷりあります。休憩も出来るし、夜はちゃんと大人しく寝ますから」
 心身を回復させる時間はこれから取れる。だから大丈夫だろうとばかりに、美丈夫は俺をソファに押し倒そうとする。
 だが流されまいと、俺は全身、特に腹に力を入れて体勢を保った。普段あまり運動などしていないのでかなり厳しい。
 腹筋はすぐにぷるぷると震え始める。なんとか堪えて欲しい。
「晩飯を作っていない」
「外食をしましょう。上総さんに紹介したい店があります。全て半個室で居心地良く、落ち着いた雰囲気で以前から上総さんと一緒に行きたいと思っていたんです。味も気取っていない家庭的なもので、上総さんの口にも合うと思います」
 俺は好きです、と微笑んだ美丈夫がその店をとても気に入っていることは分かる。
 しかし柔い笑みとは反対に、その瞳は欲情を剥き出しにしていた。
(昨日シたばっかりじゃろうが!ようそこまで盛れるな!?)
「そうか。その店には興味があるわい。しかし、シない!」
「上総さん」
「真っ昼間からするようなことではあるまい!大体、抱かれた後に、どのような面で外を歩けと」
 セックスというものは、抱く側と抱かれる側では随分感覚が異なるのだと美丈夫から教えられた。自分の身体が変えられて、精神の深くまで美丈夫を受け入れて、溶かされてしまう。
 自分の自我がとろとろになって、これまでしっかと自分の足で立っていたはずの自分がセックスの直後だけはなんとなく心許なくなる。
 しかもそれが、嫌ではない。
 普段ならばそんな気持ちになれば怖いと感じる、もしくは自己嫌悪に陥るはずなのに、妙にそんな心許なさすら気持ち良いのだ。
 それははっきり言って、俺にとっては脅威だった。
 理性と自立心が崩されていると思い知らされるからだ。
 一晩寝れば、そんな気持ちもリセットされて元に戻るようだが。あんな不安定な精神で外を歩き回るなんて冗談ではない。
「俺は、そういう面でもまだおまえさんに抱かれるのに慣れていない。いい年をして、情けない上に、はしたないじゃろうが……」
 こんなことをわざわざ自分を抱く男に言うのも気恥ずかしい。
 次第に声が小さくなっていく。だがそんな俺に美丈夫は笑みを深くした。
「そんな上総さんも、見たいんです」
 ぐっといっそう体重をかけられ、俺は呆気なくソファに押し倒された。のしかかってくる美丈夫を見上げて、俺は慌てて美丈夫の両頬を摘まんだ。
「じゃから!せんと言うておろうが!」
 雰囲気と甘い台詞でなんとかセックスの流れを掴もうとしている美丈夫を叱る。美丈夫はご飯をお預けされた大型犬のように情けなくも哀れみを誘ってくるけれど、俺は完全に顔を逸らして、決して折れないように自分を叱咤した。




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