美丈夫の嫁10 5





 叶さんが溜息のように深く息を吐いた。その音が妙にはっきり聞こえる。
「貴方も俺のことを惨めだと思っているでしょうね」
「いえ、私は本家とは無関係に近い、傍系の端っこに引っかかるかどうかくらいの親戚ですから。子どもの頃に父親を亡くし、母子家庭で育ったというのもありますが、そこそこに貧乏でしたよ」
 金に困窮したとは言わないが、一切金のことを気にせずのんびり暮らせる生活とは口が裂けても言えなかった。
 父親を亡くした後、母親は自暴自棄になり家計を顧みず酒などに溺れたこともあって貧乏の気配は俺の背中に張り付いていた。志摩にそんことは知られたくなくて、母親の妹である叔母に相談しながら、家計に口出しもしていた。
 就職するまでそんな暮らしをしていたせいか、蔭杜に来て本家の人間との違いをまざまざと見せ付けられていた。住む世界が違うというのはこういうことなのだと、日常の中で感じる。
 だからといってやっかむことはない、本家には本家の重みや苦悩があると美丈夫を通じて知っている以上、自分の生まれを不公平だとも思っていない。
「私も大学は家の金だけでは足りず、国から奨学金を借りて行きました。就職してからは奨学金の返済のために節約をして、最近ようやく完済しました」
 奨学金を早く返して、次は志摩の学費を貯めなければいけなかった。なので中学生の頃から続けている節約はそのまま継続していた。
 教育に金がかかるということは身に染みている。
「妹も大学は奨学金を借りて、足りない分は俺が出すつもりでした。ですが今は本家に無利子で借りています。利子があると無いとでは金額が大きく違ってきますし、本人は自分で返すと言ってますが、いざとなれば私が一括で返せるように、今貯金をしてます」
 志摩も学費の全額免除が貰えるほどの成績ではなかったので、奨学金を借りるしかなかった。足りない分は俺が払っていたのだが、蔭杜が学費を全部、負担をすると言ってくれたのだ。
 利子を付けずに貸与するという条件に俺が頭を下げた。
 志摩が卒業した後、借りた分を少しずつ返していくというのが約束だ。
 もし志摩が返せなくなっても、そして蔭杜が一気に返済を迫っても対応出来るように、俺は志摩が借りた分と同じ金額を貯めている真っ最中だ。
「妹さんの学費を借りるために、誉の奥さんになってんですか?」
 悲壮さを滲ませて叶さんが尋ねてきた内容に、俺は目を丸くしてしまった。
 叶さんは俺が美丈夫の嫁という立場にいることを知ったらしい。しかし金のために嫁になったのかと訊かれたのは、思わぬ展開だった。
(いや、この話の流れならば考えてしまうのも無理はないのか?)
 しかし金のために嫁ぐのが自分というのも、何やらむず痒い。俺にそれだけの価値はない。
「お金が理由ではありません。私は借金のカタに出来るような人間じゃない」
「ではどうしてですか?同性の方が好きになりやすいとか?」
「いえ、そういうわけでも……」
 これまでは女性と付き合ってきた。俺は同性愛者ではないと、思う。
 ならばどうして嫁になっていると追求されると苦しい。顔にほだされて頷いてしまったのが発端だというのは、似た顔立ちの叶さんには絶対に言いたくない。
「嫁になってくれと頼まれて、正直一時的なものだと思ってました。私は嫁という席の空白を埋めるためだけの存在なんです」
「空白を埋めるためだけなら、他にも適任者はいるでしょう」
「たまたま私が手頃だと思われたんでしょう。傍系で本家に文句は言えない。楯突く力も蔭杜の財産に手を出す度胸も無く、余計な口出しをする勇気すらない。黙って誉さんの嫁という席に座っているだけなの無能には、私がぴったりだっただけのことです」
 叶さんが納得しそうな説明をしながら、俺も最近まではそう信じていたなと思う。
 黙ってそこにいるだけの嫁が欲しかった。人形のようなものであれば良いのだと、俺は勝手に理解していたけれど。美丈夫は本気で俺が好きなのかも知れない。
 そうでなければ身体まで欲しがって、セックスを頻繁にねだりもしないだろう。こんなつまらない男の身体など、好意がなければ到底手など出さないはずだ。
「上総さんが手頃な人選ではないでしょう。誉の妻の座は、従兄弟である栄が埋めるはずだったんですから」
「えっ」
「栄なら本家のことも分かっています。先代妹の息子です。誉とも同い年で気が合うようだった。きっと二人なら互いを補って上手くやるだろうと、伯母たちは子どもの頃から期待していました」
(初耳だ)
 本来なら栄さんが美丈夫の嫁になる予定だったなんて。
 しかしそう考えれば、俺などより栄さんの方がずっと優秀で本家のこともよく分かり、上手く美丈夫を助けてくれるだろう。嫁というより相棒として、蔭杜を支えてくれたはずだ。
 俺が嫁になるよりずっと現実的ではないか。
「俺もそうなると思っていたんですが、帰ってくると貴方がそこにいた」
「……栄さんは、女性と結婚がしたかったのかも知れません」
「そんな理由で渋々貴方を嫁にしたとは思えません。今の誉は上総さんと一つの家で夫婦のように暮らしているそうですね。とても仲が良いと聞きました」
「仲は悪くはありませんが」
 夫婦のように、と言われると困る。否定しようとしても言葉に詰まるからだ。
 しかし誰がそんな風に語ったのか、お手伝いさんだろうか。
「上総さんは誉に惚れられ、請われて嫁いで来られたんですね」
 いつの間にか叶さんの瞳から憂いが消えていた。
 事実を知ろうとする真剣な眼差しに縫い止められて、俺は返答に窮した。
 違うとも、正しいとも、言いづらい。どちらに転んだ方がましなのか。
 天秤の真ん中に立って、判断に迷う。
 美丈夫から聞いていた叶さんの情報と、目の前にいる叶さんの真剣さ、そして俺がどう思われたいのか、蔭杜本家の立場も含めてぐらぐらと揺れてしまう。
「それを知って、どうなさるおつもりですか」
 苦し紛れの問いかけは数秒時間を稼ぐくらいの役目しかない。それでも言わずにいられなかった。
 叶さんの視線が俺の迷いを照らしてくるようだった。美丈夫に見詰められた感覚が蘇ってきては、ものすごくやりづらいと感じる。
 俺はこの種類の顔面に勝てないのかも知れない。
 袋小路に追い詰められた錯覚に襲われていると、足音が聞こえた。それは真っ直ぐこちらに進んできては、入り口に影を落とす。
「何故ここにいる」
 北極の風が入り込んで来たかのように、凍えそうなほど冷たい声だった。
 思わずびくっと心臓が縮こまるくらい威圧感を帯びた視線が俺たちを見ている。逆光が顔が見えずともそう察せられる。
 それほど美丈夫の声や気配からは憤りが漂っていた。
「誉さん……」
「父が遺した箱を探している」
「ここにあるはずがない。書庫であることは見れば分かるだろう」
 美丈夫は蔵の中に入っては叶さんの背後に立つ。研ぎ澄ました刃物のような目つきで、膝を突いている叶さんを見下ろしている。
「上総さんの邪魔をするな。それにふらふらと出歩くなと言われているはずだが?おまえはこの家を探索する権利はない」
「絶縁されているから?だが父の遺品を探すことくらいは許して欲しい。突然の別れだったんだ。少しでも父を偲ぶものが欲しい。父は、俺に何も残してはくれなかったんだ」
 海外で突然事件に巻き込まれて父親が亡くなったのだ。心の準備も覚悟もなく、突然喪った衝撃と喪失感は計り知れない。
 これからの生活に頭を悩ませているだろうが、父親を偲びたい気持ちだってあるだろう。それは俺にも悲痛なほど重く伝わってくるのだが、美丈夫は冷淡さを薄めなかった。
「遺しただろう。借金が山ほどあった」
 叶さんが言葉を飲み込んだのが分かる。
 それがたとえ事実であったとしても、父を喪ってそう歳月が経っていない息子に言うには、あまりにも非情だ。
 思わず耳を疑ってしまう。らしくないと、昨日の環さんに感じた違和感をそのまま美丈夫にも抱く。
「その借金をうちが全部返した。遺品や遺産を相続したいというなら、その借金も背負うことになる。それでもその箱を探すと?」
 まただ。
 叶さんの前には借金というものが立ち塞がる。苦渋が滲む様を美丈夫が別人のような顔で眺めていた。
 張り詰めた緊張に俺まで気圧される。
「……せめて見てみたい」
「金目のものじゃないだろう。あの人は金になるかどうかの判断はとても敏感だったそうだから」
「思い出が欲しい」
「……思い出?あの人との?本当に?」
 疑わしいという言い方に、俺は思わず口を挟まずにいられなかった。
「誉さん、いくらなんでも言葉が過ぎるのでは?」
 叶さんを傷付けるために告げられているのではないかと思いたくなるような台詞だ。
 美丈夫にはそんな風に人を貶めて欲しくなかった。それは美丈夫自身の品格も落としている。
 二人の関係は深くは知らない。けれど人として、良くない言い方だ。そうたしなめると美丈夫ははっとしたように瞬きをしては、目をそらす。
「すみません、言い過ぎました」
「俺に謝っても、意味はないよ」
「叶も、悪かった。だが蔵をあさられるのは困る。まして病人なんだろう。黙って出歩けばお手伝いさんたちが戸惑う。客間に戻ってくれ」
 美丈夫はそれまで辛辣に当たっていた叶さんにも軽く頭を下げた。
 意地を張るでもなく、ちゃんと謝罪が出来るところが美丈夫の人の良さと自制心だろう。精神的に幼ければきっと不機嫌さを剥き出しにして、耳を塞いでしまっただろうに。
(おまえさんは本当に大人じゃな)
 客間に戻れと言われた叶さんは黙って俺と、そして美丈夫にも頭を下げては蔵を出て行く。その背中は蔵に入ってきた時よりも小さく見えた。
 美丈夫はその背中をじっと見送っている。それは叶さんが何を考えているのか、見透かそうとしているようだった。




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