美丈夫の嫁10 4





 叶さんは翌朝、体調を崩したらしい。無理もない。あれだけ雨に濡れていれば夏場でも風邪を引いてしまう。
 ぽつんと独りで、どこにも居場所なんてないというように立ち尽くしていた様を思い出しては、俺までやるせなくなってくる。
 しばらく母屋の客間に泊まることになったとお手伝いさんの立川さんから聞いた。
 叶さんは出来れば父親の遺品である、赤い箱も探したいと言っているそうだ。しかし本人は動けない、そして叶さん一人で家や蔵の中をうろうろされるのは嫌だと環さんが反対したので、お手伝いさんたちが蔵を開けて、その赤い箱を探しているそうだ。
 だが叶さんから聞いた情報はあやふやで、捜索は難航しているらしい。何しろ叶さんの記憶は十年以上前のものだ。おぼろげで色褪せてしまっている。
 まして蔭杜には蔵が複数存在している。大きなそれを全て調べていくには膨大な時間がかかるだろう。
 叶さんの願いは実のところかなり困難なものだった。
 お手伝いさんが総出になっても、一体何日かかることか。しかも赤い箱はそもそもちゃんと保管されているかどうかも分からないというのだから、気の遠くなるような話だった。
 俺は関わるなと美丈夫に言われている手前、捜索することは止めていた。それ以前に蔭杜の蔵など、俺があさって良いものではない。叶さんと同様、俺に蔵の中を触る権利はない。
 しかし唯一、許されている蔵があった。それが書庫の扱いになっている蔵だ。
 その蔵の鍵は美丈夫から渡されており、いつでも気軽に訪れて良いと言われていた。最近は休日になるとその蔵に足を運んで、ランタン片手に本を読んでいた。
 約百年前の探偵小説を読み直しているのだ。
 ジュブナイルタイプを子どもの頃に読んでいたが、この蔵に入って古めかしい背表紙を目にして気になった。何せ冊数が多いので、少しずつ読み進めている最中だった。
 お昼ご飯を食べてから蔵を訪れて、集中力が切れるまでここに籠もる。蔵の周囲には木々が植わっており、晴れていても太陽の光を遮ってくれる。土と緑が豊かなこの庭は夏場であっても涼しく、風が通れば心地良い気温だ。
 葉擦れの音や鳥の鳴き声を聞きながら読書が出来るなんて、実に恵まれている。クーラーがかかった密室で静寂に包まれるのも大変充実感があるけれど、自然の中も良いということをここに来て学んだ。
 探偵小説は俺が本屋や図書館で見かけたものよりもずっと年代を感じさせた。丁寧に扱い、汚れや傷が付かないように慎重にページをめくっているが、発行年月日などは確認しないようにしていた。
 初版などの稀少本ではないことを祈るばかりだ。
 文字を辿り、脳内で世界を構築するのに没頭していると、誰かが庭土を踏む音がした。ザッという靴音は気付いた時にはかなり蔵の近くに来ていた。
 誰が近付いてきたのかと思うと、蔵の入り口に影が現れる。逆光になっており、顔が見えなかった。
 蔵の中にランタンを持ち込んではいるけれど、入り口までは到底届かない。
 しかしここまでわざわざ来るのは美丈夫くらいだろう。背格好もそれであり、大学の講義は午前中で終わるかも知れないと言っていた。
 影は案の定蔵の中に入り込んでくる。家に俺がいないので、ここまで顔を出しに来てくれたのかも知れない。
「おかえり、思ったより早く帰って来られたんじゃな」
「ただいま帰りました」
 近付いてくる返事に、俺は違和感を覚えた。そして逆光が薄れ、顔が見えるようになって確信する。
「叶さんですね」
 ただいまの声音と、微妙な口調の違い。そして俺と目が合った時の表情や雰囲気で、美丈夫ではないと直感した。
 断言すると叶さんは目を見開いた。そして決まり悪そうに軽く頭を下げた。
「すみません。みなさん、俺と誉を間違えるので、楽しくなってしまって。試すような真似をして申し訳ありません」
「いえ、よく似ていらっしゃる」
 お手伝いさんたちが叶さんを見て美丈夫と間違えたのだろう。こうしていても見分けるのは難しいと思われる顔立ちだ。
「でも上総さんは分かるんですね」
「なんとなく、ですよ」
(俺は顔が見えなくて、声だけに集中したからだ。声帯までは酷似しておらんのじゃろう)
 それでもなんとなく、叶さんの声は初対面の時より美丈夫に近くなったような気がする。
 美丈夫と直接喋っている間に、声の調子などが引きずられたのか。
「風邪を引いたと聞きました。出歩いて大丈夫ですか?」
「はい。すっかり熱も下がり、身体も軽くなりました」
 叶さんは近付いてきては俺が持っていた本の背表紙をのぞき込んでくる。
「江戸川乱歩、お好きなんですか?」
「好きというほどでも。懐かしくなって読み返しているんです」
「上総さんはよくここに籠もられているそうですね」
 叶さんは周囲をぐるりと見渡している。本が詰め込まれている空間は俺にとっては心地良いけれど、そうでない人にとっては圧迫感があるかも知れない。
「本が好きなんです。仕事も本屋にしてしまったくらいです」
 蔭杜の人間にとって、本屋の店員があまり良い目で見られていないことは分かっている。初めて蔭杜本家の親戚たちに囲まれた際、地位の高くない、誰でも出来るような、高い能力値を求められない仕事であると、そんな印象の会話をされた。
 美丈夫や環さんからはそんな意識が感じられないことが、俺にとっては救いだった。
「好きなものに囲まれて仕事が出来るなんて羨ましい。俺も本は好きです。大学も日文を選択してます」
「私もそうでした」
 大学の学部選択が同じというだけで、少し距離が近く感じてしまう。
「俺たち気が合いそうですね、俺もこういう環境が落ち着くタイプなんです。上総さんは自室も本に囲まれているって聞きました」
「そうです。壁に本棚を並べて、詰め込めるだけ詰めています」
 本が好きだというのならば、それがどんな光景であるのか想像出来るだろう。隙間があれば、まだ埋められると喜ぶような人種だ。
 叶さんは俺の発言に笑い声を零す。それは目に見えるという返事のように思えた。
 一瞬自分の部屋に招きたいと思ったけれど、美丈夫の台詞が蘇っては言葉を飲んだ。関わるなと言われたばかりだ。
「大学でもよく図書館に通ってました」
「ああ、大学の図書館は貴重な本もごろごろしてますからね。引退したり、亡くなられた教授方の蔵書がそのまま流れてくることがあるので」
 在学中は俺もよく通った、と思い出していると叶さんが表情を陰らせた。
「でもそこにも、行けなくなるかも知れませんが」
 そういえば叶さんは学費を借りるために蔭杜に来たのだ。崖っぷちに立っている人に、俺の話は随分暢気に聞こえたかも知れない。
「叶さんは、どうしてここに?」
「父が遺した箱を探しに。本家から絶縁をされた後、父の荷物の大半は処分されたそうで、持ち主が曖昧なものは蔵のどこかに置き忘れられているだろうと言われました。あの箱を父は最初がらくたのようなものだと思っていたので、父自らが蔵に投げ込んだ可能性もあると思っています。蔵の鍵を借りられなくても、もしかして開いていないかなとふらふらしていたんです」
「そしたらこの蔵の扉が開いていた。ということですか。ですが残念ながらここには本以外はほとんど置かれていませんし。赤い箱も見たことがない」
 この蔵にはよく入っているけれど、叶さんが言うような赤い箱は目にしたことがない。
 そう言うと叶さんは明らかに肩を落とした。
「そうですか……」
「学費のためですか?」
 赤い箱の中身がもしかすると金になるかも知れないと、昨夜の叶さんは語っていた。
 父親が蔭杜本家の人間だ、彼が残した遺産と思えば可能性はあるだろう。
「そうです。奨学金の全額免除を貰っているような出来の良い学生なら、ここまで困りはしなかったでしょうが。俺はそんなに頭は良くない」
「大学はどちらに?」
「関西のK大です」
「どこが頭が良くないんですか。俺だって名前を知ってる大学じゃないですか」
 関西では名の通った大学だ。私立だが地元以外でも大学名を言われてぱっと思い出すことが出来る。
 そこに通っていて頭が悪いと言われると、多くの大学生の立場が無くなる。
「国から奨学金を借りることは出来ませんか?」
「保証人がいませんし、何より必要なのは学費だけじゃないんです。これまで俺が父の友人にお世話になった分の金額も返さなければいけない」
「……具体的な金額は?」
「学費を合わせると三百万以上だと言われています」
 叶さんの口から出てきた金額に、俺は思わず唸った。
「学生には厳しい額ですね」
 そう言いながらも、学生でなくともその額はかなりの負担であるとは思っていた。俺だっていきなりそんな金額を出せと言われても無理だ。
 ましてバイトでしか金を稼ぐ手段がないだろう大学生に、いきなりそんな大金を返せというのは悪意を感じる。
「ですが大学は辞めたくない。あと一年なんです。それに大学を辞めたとして、俺はこれからどうやって生きていくのか。父の友人にすがることしか出来ない人生なんて嫌です」
 学費を払うことが出来ないから大学を辞めたとしても、叶さんがこれから得られるものは無いのではないか。
 家を出て行くなら学費と生活費を返せと言われて、父親の友人の元に半ば強制的に留めさせられ、縛り付けられるだけだ。明るい未来など、到底望めない。叶さんもそんな未来が目に見えているからこそだからこそここに逃げてきた。
 だがここに来ても、希望は未だに淡い。
「蔭杜に学費を借りることは出来ませんか」
 美丈夫は学費は意味のあるお金であると言って、志摩の学費も無利子で貸してくれている。叶さんの場合であっても、学ぶ意志のある者に対する投資だ。決して無駄では無い。
 しかし叶さんは首を振った。
「嫌がると思います。これ以上借金を増やすつもりかと。父の借金は本家が肩代わりしてくれましたから」
 そうだ、叶さんの父親には借金があり、それを本家は処理したと言っていた。その金額は分からないけれど、それこそ百万単位になっているとすれば苦々しい気持ちにはなるかも知れない。
 しかし親の問題を子どもに全部背負わせるのも気の毒だろう。それにこんな理由で学ぶ権利と自由を奪われる人がいることが、俺にはどうにも我慢が出来ない。
「お父さんの借金に関して申し訳ないと思う気持ちは分かります。ですが叶さん自身の借金ではない」
「でも」
「それに蔭杜にとってみれば三百万だってそう負担に思う金額でもないでしょうに」
 蔭杜にどれだけの財産があるのかは知らない。興味も無い。だが俺はつい金に対しての意見を述べてしまった。
 下世話な考え方であることは承知しているが、この家で暮らしていて肌で感じる彼らの金銭感覚につい口が滑っていた。
 叶さんはそんなに俺の前で視線を落としては目元に色濃い憂いを滲ませた。それは苦痛にも似ていたかも知れない。
「本家の人間には、金に苦しむ者の気持ちは分からない」
 ギリギリまで絞った忍耐から、零れ落ちてしまったうめきのような言葉だった。
 胸を突いたその声に、俺はその通りだと、無意識に心の中で呟いていた。




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