美丈夫の嫁10 14 叶さんは昨夜の内に蔭杜から出て行った。壊れたおもちゃは彼がいた客間のゴミ箱からも、そして蔵からも見付からなかった。 赤い箱だけが無用の物として、そこに残されていたらしい。箱を探しに来たと言いながらそれを残していった叶さんにお手伝いさんは首を傾げたのだが、美丈夫はそうだろうと言うように淡々としていた。 (あの紙だけがあれば良いからな) 銀行口座に繋がる数字があれば、叶さんはこれからを乗り越えていける。何故俺を好きだと言ったのかは分からないけれど、気の迷いということもある。 出来れば二度と口にして欲しくないものだ。というより再び会った時にどんな顔をするべきかも分からないので、美丈夫の願い通り顔を合わさないことを願う。 気怠さをはらんだ目覚めを引きずりながら、ゆっくりと朝ご飯を食べた後だった。 美丈夫は母屋に呼び出されたかと思うと、何やら数枚の紙を持って帰ってきた。 「これが叶です」 リビングのローテーブルに置かれた紙には、写真が印刷されていた。被写体は斜めを向いていて、正面の顔は見えないけれど、確かにそれは叶さんだ。しかし髪を少し脱色しており、くせ毛のように緩くセットしている。 (アイドルか何かのようじゃな) 顔立ちが整っているので、そうして髪型をセットして、しかも少しつんと冷たい表情を見せると一般人とは一線を引いているように思える。 美丈夫が美しく雄々しい猟犬だとすれば、こちらは気位の高い大型の猫か。 それにしても顔立ちは似ていても印象が全く異なり、これならば叶さんと美丈夫を見間違う者はいないだろう。 「別人のようじゃな」 「二ヶ月前の叶です。蔭杜に来るため、あいつは見た目と態度をがらりと変えたんでしょう」 (よく出来ている) ここに来たばかりの叶さんを見ていて、俺は何故かそう感じた。 その答えがこれなのだろう。 「表情や細かな仕草も、うちにいる間に益々俺に似てきたと言ってました。俺を観察して、俺に似せることでなりすます練習をしていたんでしょう」 「俳優になれそうじゃな」 これだけの見た目と、観察眼、人真似の技術があれば、実力派俳優として芸能界で活躍出来ることだろう。 「関西のK大とは言ってましたが、正しくはK学院大学ですね。略して言うと大変に紛らわしい名前ですが、叶はミスリードをした可能性があります。学部も文学部ではなく法学部です」 「何のために?偏差値が大きく違うとか?同じくらい有名じゃと思うのだが」 出身大学を偽らなければいけない理由があるのだろうか。 学費が欲しいなら、そこは秘めるところではないだろう。偏差値が低いと学費の援助が貰えないとでも思ったのか。 「偏差値はほぼ同じです。ミスリードを誘ったのは、俺たちが叶の身辺調査をすることを見越して、多少の時間稼ぎのつもりだったんでしょう。叶は生活に困ったところはありませんでしたから」 「周りからそう見えても、実のところという状況はあると思うが」 「お待ちください。順を追ってご説明します」 急かす俺に美丈夫はたしなめながらも穏やかに笑む。 セックスをした翌日の美丈夫は機嫌が良いだけでなく、些細なやりとりや会話でもこうしてものすごく甘い声や表情で俺を捉えようとする。 言葉を奪われてしまうので、この類いの空気は控えて欲しい。 「叶は世話になっている人を父親の友人と言ってましたが、正しくは愛人だそうです。現在は叶の恋人になっているそうです。しかし実情はほぼ主従関係に近い。叶が彼女の主人のように振る舞い、彼女を支配しており、彼女もそれを望んでいるそうです」 「……束縛が強い、女性のようだったが」 同居していた女性と恋人関係になっていたということは、なんとなく予想は付く。 だが叶さんが主人として女性を従えていたというのは、理解しがたいものがある。俺が一緒にランチをした時、かかってきた電話の声が叶さんを束縛しようとする脅迫的なものに聞こえたからだ。 (……ああでも、彼女はずっと懇願していた) 帰って来なければ叶さんをどうしてやるだの、お金がどうだのということは言わなかった。ずっと帰ってきて欲しい、私は貴方なしではいられないという悲鳴だった。 思い返していく内に、頭がくらくらしてくる。 「束縛が強いというのは有り得ますね。なにせ叶が彼女から自立心を奪い、何事も自分なしでは選択出来ないように、半ば洗脳していたようなので。叶なしでは生きられないと、彼女は周囲の人たちに語っていたそうです。まあ、本当のところがどうなのかは二人にしか分かりませんが。叶がいなくなってから、彼女は血眼になって叶を探しているそうです」 鳴り続ける叶さんのスマートフォンが思い出される。 「学費や生活費を払えなんて脅しもなかったみたいですね。それどころか彼女は叶のために湯水のように金を使い続けている。亡くなったご両親から受け継いだ遺産を食い潰している真っ最中だそうで。こうしている間も、叶のためにもっと広くて利便性の良いマンションへ引っ越しを検討していると聞きました」 「……そうか」 聞いていると段々自分の視野の狭さと、一体何を見ていたのかという呆れが募る。 「そこまで尽くしてくれている彼女ですが。叶はそろそろ彼女から引き出すお金が少なくなってきたのと、暮らしに飽きてきたということで。次のターゲットに移ろうかと友人に喋ったそうです」 「次のターゲット?」 「あいつのために金も労力も惜しまず、尽くそうとする女性が他にもいるようです」 魔性の男。 そんな単語が頭を過った。 人の人生を狂わせるだけの、抗いがたい魅力を持って生まれる人間はいる。俺の隣にいる人間もきっとそういう人種だろう。 「ここではずっと猫をかぶっていたということか」 「そうです。叶が猫をかぶって本性を隠していた分、身辺調査も多少時間がかかったようです。本当ならもっと早く結果を出して叩き出したかった」 美丈夫が落ち着かない日々を過ごしていたのは、この結果を待っていたからだろう。何の証拠もなく、叶さんにあれこれ言及するのは得策ではないと我慢していたのか。 それとも俺に叶さんの本性を伝えても、理解が得られずに焦れていたのか。 (俺もこういった結果、そしてあの目がなければ、易々と耳を貸さなかったかも知れんしな) 頭を下げて打ちひしがれる叶さんの姿が焼き付いて、冷静さを欠いている部分があった。 「しかし何故ここに来た。金があるのなら、わざわざ借金の申し込みなぞせねば良いじゃろう。あんな、土下座までして……」 あそこまでするのだから俺はものすごく切羽詰まっているのだと勘違いしてしまった。大勢の人が見ている中、びしょ濡れで床に額ずくなど、精神的に追い詰められていなければ出来ない行為だ。 「叶にとってみれば土下座など大したことでもないのでしょう。それより自分の興味が勝っただけのこと」 「興味?」 「あいつは引っかき回しに来たんですよ」 「この家を?」 本家に乗り込んで、自分が生きていること。そして父と同じく借金があること。それを知れば本家は混乱すると思ったのか。 事実それは成功したかも知れないが、本家は叶さんの身辺調査で嘘を見抜いた。一時だけしか混乱などしないというのに、やっていることが大袈裟だ。 「俺と貴方の関係を、引っ掻き回して壊したかったのでしょう」 「まさか」 「心当たりがありませんか?」 好きだと言った、あの冷たい眼差しと、それとは逆に真面目そうに聞こえる声を思い出す。 あれは告白することで俺の心を動かそうとしたからなのか。 言葉に詰まった俺に、美丈夫が今朝は初めて表情を引き締めた。 「おありのようですね。俺はその件に関して何も聞いていませんが」 「人は好奇心を持つ者じゃろう。まして男の嫁なぞと知れば、つい気になって多少つつきたくなる。その程度のものじゃ」 「上総さんは鈍いんですから。もっと警戒してください」 「鈍くなぞないわい」 これでも中間管理職として、仕事では周りには目を配っている。それなりに気遣いもしているつもりだ。 無神経だの、空気が読めないだのという批判を真っ向から受けたことはない。 内心思っている者はいるかも知れないので、反論はやや弱腰になってしまうが。 美丈夫はそんな俺にわざとらしいほど大きな溜息をついた。 「上総さんのその認識は本当に、心の底から間違ってますから。即座に訂正してください」 「不本意じゃ。俺のどこがそこまで言わしめておるのか」 「これまで俺が貴方を口説き続けた日々です」 断言されて俺は唇を引き結んでは、視線を逸らした。 next |