美丈夫の嫁10 15





 紙切れを細かく裂いては駅のホームのゴミ箱へと落としていく。
 俺のための養育費が入った口座なんてこの世には無い。
 そんなものがあればあの男がとっくに気付いて使い切っているだろう。とにかく金の匂いには敏感な男だった。
 それに俺のために口座を隠してくれる、そんなお優しい親戚なぞあそこにいるわけがないのだ。俺はあの男と同じく本家のお荷物だった。邪魔者ですらあったのに、誰が情けなどくれるものか。
(……騙しやすい男だったな)
 先頭車両が到着する場所へと歩きながら、久しぶりに帰った本家にいた、一人の異物を思い出す。
 誉が自ら選んだ嫁だ。
 一目惚れをした相手だと聞いて、どんなものかと顔を見に行ったけれど、平凡でこれといった特徴もない地味な男だった。見た目はそこいらを歩いていても注目されることはない、むしろ背景と同化しそうなほどにぱっとしなかった。中身だってそれほど頭が良いわけでもなく、趣味が読書というつまらなさだ。
 本が好きで本屋に就職したという経歴もありがちで、陳腐だった。しかも役職も年齢に見合ったものであり、特別優秀でもないそうだ。
 蔭杜の傍系、かろうじて血が繋がっているかどうかという程度の人間。本家としても目をかけるきっかけなど本来ならばなかったはずの存在だが。
 誉が選んだ。
 何が誉を惹き付けたのか。
 誉が嫁を貰ったと俺に教えた親戚は、一目惚れをしたというのは言い訳だろうと笑っていた。嫁は母子家庭で育ち、環境に恵まれていない。その割に身の程をわきまえており本家の財産に口出しをしないらしい。
 本家に何の要求もしない、その代わり嫁としての役割は何もしない。そんな約束を交わしているのではないかと噂されているそうだ。
 自分が無能であることを理解して大人しく黙っているのだから、嫁としてはなかなかに出来た人間でないかと、多少の蔑みを込めて親戚たちは上総を評価しているらしい。
 だが人間はそんな風に無欲になれるものだろうか。
 蔭杜がどれほどの金を持っているのか。本家で暮らしていれば肌で感じるだろう。広い敷地内で一軒家を貰い、誉と二人暮らしをしている上に、家政婦たちが家の雑事を全部担っている。金が有り余っているどころか、持て余している連中の暮らしだ。
 その中に母子家庭で育ち、金銭に苦労した男が放り込まれて、ただ大人しく嫁という席に座っているだけで満足出来るのか。
 無理だ。
 だから俺は蔭杜本家に、約十年ぶりに足を向けた。
 嫁だという男の欲を引きずり出して、誉を落胆させたかった。
 自分と顔立ちは似ているのに、中身はあまりにも異なる生き物。清廉潔白を体現しているような人間。当主は姉であり、女でなければ蔭杜を支配することは出来ないというのに。誉は病弱な姉を思い、守り、支え続けていた。筋の通らないことを嫌い、自分を律する、姉思いの優しい男。
 正しさの見本のようだった。
(馬鹿の見本だ)
 あんなにも人のために働き、人のために神経をすり減らして、蔭杜を存続させようとしている。自分のものにはならないというのに、どうしてあそこまで心血を注げるのか。
 子どもの頃から誉は優等生で、何でも出来る子どもだと、周囲は誉を褒め称えた。今でもそれが変わらないことに、食指が動いた。
 良い子の誉の中にも醜い感情がたっぷり詰まっている。美しい生き方に見えても、結局中身は汚泥にまみれているのだと、人目に曝け出してやりたくなった。
 俺が壊したおもちゃを抱えて泣いていた、小さな姿を思い出す。
(あの箱を隠したのは俺だと、今頃上総は気付いているだろうか)
 蔭杜の蔵から持ってきた箱の中身はここに来る前にコンビニのゴミ箱に捨てた。
 ガシャリとプラスチックの破片がぶつかる音はあの時と同じだ。誉からおもちゃを奪って、砕いた時もあんな風に音を立てていた。
 涙を落としながら、それでも誉は泣き声を上げなかった。
 当主は俺の身辺調査をしている。関西にいる知人がそれらしい人物を見かけた、声をかけられたと言っていた。その結果がそろそろ出てくる頃だろう。
 そうすれば俺が本家で騙ったことが、幾つか明るみになっているはずだ。
 蔵の鍵は誉のふりをすればいつでも手に入れられた。だから上総に手伝って貰って、自分がここから出て行く理由も作り、ついでに上総も奪っていこうとしたのだ。
 本家に滞在している間に、誉は本気で上総に一目惚れをして嫁に貰ったのだと知った。嫁に来てくれと懇願し、生活を共にすることで少しずつ仲を深めていったらしい。
 形だけの嫁だと家政婦たちも思っていたらしいが、二人の関係を見てこれは本気の恋だと、誉を応援していたらしい。
(あれだと思った)
 誉を絶望させるにはそれが良い。おもちゃが壊れた時もずっと深く傷付き取り乱して、綺麗に整えた正義感も消え去るだろう。
 嫉妬に狂うなり、心変わりをした上総をなじるなりすれば良い。
 想像するだけでとても愉快だった。
 上総が同性愛者かどうかは分からない。しかしこれまでに同性を落した経験はあったので、やれば出来ないことはないと踏んだ。
 それに上総は誉の顔に弱いらしいという情報も耳にした。それなら誉とよく似た俺なら、手玉に取ることは容易い。
 案の定上総は誉に似ている俺に随分と同情してくれた。まして金に困窮しているという、分かり易い苦労に自分の過去でも重ねたのか、俺を助けようと動いてくれる。
 なんて呆気ないんだろう。
 誉が一目惚れして、これまでしたこともない家事までこなして奉仕しているというのに、その男が数日前に会った俺に、簡単に心を寄せるなんて。人を見る目がない。
 残念な男だと、容易く堕落させて終わりにしようと思った。
 だが上総は、俺と誉を間違えない。
 蔭杜に来る前から、事前に把握していた誉の容姿をそっくり真似てはいた。蔭杜本家に来てからは誉を観察して、声色や些細な仕草、反応も写し取った。
 おかげで家政婦は全員、俺と誉を間違った。それだけ完成度の高いものに仕上げていたはずだ。
 なのに上総は騙せない。
 上総だけが分かる誉の特徴のようなものがあるのかも知れない。しかし誉と見間違わないのならば、叶として上総を奪えば良い。叶の方が良いのだと上総に思わせれば、きっと誉は大きな傷を負うだろう。
 なんなら抱いてやっても良い。あいつらがセックスをしているかどうかは知らないが、していないとすれば面白い。
 後ろに突っ込むのは無理だろうが、手で抜いてやることくらいは出来る。肉体関係を作れば誉は否応なく嫉妬にかられるはずだ。
 もっと醜く、嫉妬に狂いながらみっともない様で暴れればいい。綺麗事ばかり並べていたあの口から、嫁に対する罵声が聞こえてくるとすれば、なんて耳に心地良いだろう。
 誉がどんな顔をするのか。想像しながら、上総に言い寄った。
 好きです。その一言で上総を大きく揺さぶれると確信していた。
 だが上総は告白に、冷めた。
 あまりにも顕著な反応だった。
 それまで俺に対する薄っぺらい慈悲や哀れみがあったというのに。好きというたった二文字を告げられた瞬間、それらが一切消え失せて、あいつは俺を完全に突き放した。
 あまりの変わりように、らしくなく俺の方が動じてしまいそうになったくらいだ。
 そのうえ上総は俺があいつのことを好きではない、興味もないだろうと指摘しては立ち去っていった。
(見抜かれた)
 あんなにも冷え切った瞳を向けられるのは久しぶりだ。上総が蔵から立ち去った後、しばらくその場で己の言動を振り返ったのだが、未だに答えは見付け出せていない。
(何が違う)
 上総は誉の元に帰ったことだろう。自分を愛する男の元に、間違えることなく戻れた。俺と誉は違うと、そう感じたからだ。
(何が上総を動かした)
 不可解さが頭の片隅にこびりつく。
 電車の到着を告げるアナウンがホームに響き渡る。人々が白線の一歩内側に集まると、電車は彼らの前にぴったり停止した。
 俺は電車の前には歩み寄らず、ホームの真ん中に立っていた。すると電車から降りてきた乗客の一人が、俺を見付けては駆け寄ってくる。
「叶!叶!」
 三十過ぎの女が、俺に泣きながらすがりついてきた。背中に回る腕はそのまま好きにさせる。だが俺は抱き返すことはない。それでも女は構わずに身体を密着させてくる。
「ごめんなさいごめんなさい!私のせいね、私が悪いのね!」
 泣きながら謝罪する彼女を、周囲の人々はちらちらと見ながら通り過ぎていく。注目の的だが、ここで無理矢理引き剥がしても、更にヒートアップするだけだろう。
「静かにしてって、俺いつも言ってるよね」
「ごめんなさい……」
「電話でも、なんであんなにうるさいの?」
「ごめんなさい……」
 彼女の声は次第に小さくなっていく。少し叱ったくらいで蚊の鳴くような声になるなら、最初から静かにすればいいのに、何度言っても学ばない女だ。
 金を引き出せる上に言うことを聞くので一緒に暮らしていたけれど、窮屈になってきた。最近では俺のやることなすことに口を出してくるので、いい加減うんざりしていたのだ。
 だから蔭杜に行ってみようと、退屈しのぎに考えた。
「言うこと聞いてくれないから帰らない」
「帰ってきて、お願い、何でもするからっ。貴方がいなきゃ私、生きていけないの……!」
(なら死ねばいい)
 貴方がいなければ生きていけないなんて、自分の命を他人に背負わせて、無意識にコントロールしようとするなんて恥知らずにもほどがある。そんなにも恥をまき散らしても何とも思わないような人生ならば、ここで終わらせてもさして惜しくもないだろう。
 これ以上醜い様を観衆に晒すくらいならば、潔く死ねば良い。
(そういえば上総は、潔く蔭杜を捨てようとしたことがあるって言ってたな)
 蔭杜の親戚に妹が嫌がらせをされたことに腹を立てて、本家もろとも誉を捨てようとしたそうだ。誉に執着されても、平然とそれを切り捨てることが出来た男。
(必ず俺と誉を違う人間として見て来た人)
 あの瞳は俺をどう映していたのだろう。
 次の電車がホームに入ってくる。俺は必死に懇願する彼女をそっと離しては、開かれた電車のドアへと歩き出した。






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