美丈夫の嫁10 11





 叶さんは俺の手首を握ったまま、じっと俺を見詰めてくる。沈黙が流れる時間の分だけ、二人の間にある空気が重みを増していくようだった。
「どう、なさいました」
「上総さんはここにいて苦しくなりませんか?蔭杜にいて、だけど決して本家の中に入ることは出来ない状況が俺はとても苦しい。環さんや誉以外の人がどれだけ俺に優しくしてくれても、自分が場違いな人間だって感じ取ってしまって、惨めになります」
 立場の違いを叶さんはここに来てからの数日で痛感したのだろう。
 父親の友人から束縛され、金金と追い詰められていた生活を送っていた人の目には。お手伝いさんが身の回りの世話をして、困窮の気配などあるはずもない豊かな生活をしている従兄弟の姿はどう映っただろうか。
(本家に比較的近い位置におられるから、余計にその違いが堪えるのやも知れぬな)
 惨めと口にすること自体、叶さんにとっては苦いものではないだろうか。それでも言わずにいられなかった心境は、聞いていると胸が痛い。
「上総さんはそう思うことはありませんか?」
「俺は、本家の人たちとは住む世界が違うと思ってますから。比べるのも間違っているというか」
 蔭杜直系は最初から遠い存在だった。今は日常を共にしてはいるけれど、そもそも人種が異なるのだと思っていれば心乱されることもない。
 むしろこの環境に慣らされていく自分が堕落しないか、便利さと豊かさに自制心を緩めないかが不安だ。
 身の丈を見誤ってはいけない。
「きっと誉より俺の方が、貴方に近い」
「それは、そうかも知れません」
 比べるのは間違っている。
 そう考えてしまうこと自体、俺と美丈夫には隔たりがあるのだろう。
 生活環境、金銭面の感覚としては叶さんの方が近いことは間違いない。金に苦労したことがある者とない者では価値観のずれはどうしても出てくるものだ。
「俺の気持ちを分かってくれるのは、きっと貴方だけです。蔭杜本家の近くで、だけど決して相容れないものを感じる。俺たちは近しい」
 叶さんの声が熱を帯びていく。
 切羽詰まったように自分の気持ちを伝えてくる、必死とも言えるそんな口調を俺はよく知っているような気がした。
「今の俺は無力です。でも貴方とならきっと、強くなれる。そう信じられるんです。貴方のことを、もっと知りたい。俺のことも知って欲しい。貴方をここから解放したい」
 俺の手首を握っている叶さんの手に力が込められた。小さな痛みが走っては、目の前の人間が俺に迫ってきていることを突き付けてくる。
(近い)
 ガンガンと警告音が脳内で鳴り響く。これは良くない、駄目な展開だと気が付いて身体が逃げようとするのに、掴まれた手首がそれを許さない。
「貴方をここから連れ出したい。貴方が、好きなんです」
 決定的な台詞だった。
 聞いていけないそれを届けられ、反射的に叶さんを見た。
 真っ直ぐ俺を見詰めていた瞳と視線がぶつかり、頭の天辺から一気に冷たくなった。
 それは自分でも驚くほど急激な変化だった。
 叶さんの声音から伝染してきた熱が氷海の底へと沈められていく。
 同時に警告音が一瞬で消えた。
(違う)
 冷静さが俺の中に戻ってくる。
 深呼吸をするまでもなく、意識は覚めていた。
「貴方は俺なぞ見ていない」
「え?」
「好きという色は、そんなものじゃない」
 声も態度も、俺を好きだと思わせるためによく出来ていた。
 けれど瞳は心を裏切らない。
 叶さんの瞳は淡々としている。好きだなんて色は欠片も滲んでいない。
(俺は知ってる)
 美丈夫が俺を見詰めてくる時に、どんな色を、どんな熱を込めているのか。
 他には何も映らないというようにひたむきに俺を見てくれる。視線が合うだけで心が満たされるとばかりに微笑んでくれるその様に、俺は照れくささと、それでもやっぱり嬉しさがあった。
 大切に思ってくれている。その実感が俺を優しく包んでくれていた。
 だが叶さんにはそれがない。
 俺の反応を観察し、次にどう対処するか思案している冷徹な理性だけが見える。
 ボードゲームの駒を眺めるプレイヤーのようだ。
「貴方は俺にさして興味すらないでしょう」
「何故そんなことを仰るのですか」
 戸惑った様も、ちゃんと見れば観察している瞳がそこにある。
(なんじゃ、これほどまでに違うのか)
 顔の造形がよく似ていても、その瞳は別物だ。
「どうしてでしょう。ですが確信出来ます」
 俺は握られていた手首を引き抜いた。叶さんはそれに抗おうとしたけれど、ややあらっぽく振りほどく。
 さすがに恋情を偽って俺を動揺させようとした相手に、これ以上の同情は出来ない。
「自立するだけの資金を手にすることが出来て良かった。お父さんの友人の元に帰るのは止めた方がいい。きっと安全ではありません。大学にも通えるんです、もっと安心して暮らせる環境を自分で整えて下さい」
 二十一歳という年齢で、一人生きていくのが簡単ではないことは分かる。だが両親がいない、親戚も頼れないという境遇はどれだけ嘆いても変わらない。
 なんとかどん底から這い上がるためのきっかけを掴んだのだから、それを元に自立するための力を蓄えなければいけない。
 少なくとも俺は叶さんの生活の面倒をみるつもりは毛頭無い。
「俺はこれで」
 お役御免とばかりに蔵を後にしようとした。だが「待って下さい」と眼前に立ち塞がられる。
「俺を見捨てないでください」
 震えた声も、切なげに懇願する姿も、視界に入れると罪悪感を思いっきり殴ってくる。
 しかも見捨てるというのも、耳に残りそうな台詞だ。
 けれど冷え切った頭は憐憫を覚えない。
「見捨てていません。そもそも貴方は俺に期待なんてしていないでしょう」
 これまで何かと頼られた。力になって欲しいのだろうと思っていたけれど、覚めてしまった今は何かが違うという違和感が押し寄せてくる。
 小さな棘のような違和感は俺の指先に刺さっては、不信という血を滲ませている。これ以上向き合ってしまえば、叶さんの声と共にどんどん深く刺さっては、生々しく血を流し続けるだろう。
「どうしてそんな酷いことを仰るんですか。俺には貴方が必要です」
 捨てられる恐怖に怯える犬のように、叶さんは俺に手を伸ばそうとする。抱き締められそうな予感がして、俺は片手を突き出して近づくことを禁じた。
「何故こんなことを言うか?おそらく勘、ですかね」
 もっと言うならあんな冷え冷えとした瞳で好きと言われたことが、かんに障ったのかも知れない。
 叶さんは追い詰められていると言わんばかりに苦しげな眉を寄せる。
 数分前ならば後ろめたさがあったかも知れないが、今はどうしたものかという当惑が浮かんでくる。
「そんな悲しい顔をなさらないで下さい。さすがに心が痛む」
「……誉に似ているから心が痛むということですか?誉の顔があるから、だから優しくしてくれたんですか」
「いえ、顔だけが理由ではありません」
 勿論顔が理由ではない、とは口が裂けても言えない。俺は誰がどう見ても叶さんの顔を気にして、つい注視していたのだから。
 けれど顔が似ている、顔が良いというだけでわざわざ叶さんの肩を持ったりはしなかった。
「貴方の言う通り、叶さんは俺と似ているところがあるような気がしたんです」
 蔭杜の親戚の中にいても本家とは遠く離れて格差の大きい暮らしをして、大学に行くにも苦労する。金のことを頭に入れてあれこれ節約し、我慢を続けなければいけない生活をしている話を聞いて。なんとなく自分の過去を思い出した。
 大学生だった当時は、自分はさしたる苦労なんてしていない。誰もがこれくらいの問題は抱えていると思っていた。今だって不幸ではなかったと胸を張る。
 だが蔭杜の中に入ると、彼らとの違いがあまりにも明白で、少し苦みも覚えていたのだろう。大学に通いたい、真っ当な暮らしがしたいと土下座をした叶さんに、大きく心が動いた。
「貴方が分かるような気がした」
 そう零した俺に叶さんは目を見開いた。
 そういえば叶さんが驚いたところを見るのはこれが初めてかも知れない。
「それは俺の気のせいかも知れないけれど」
 どこも似ていない他人だったかも知れない。
 けれど今はそれすら気にならない。
 俺はするりと叶さんの横を抜けた。叶さんはもう俺を留めない。
 どうやら雲が割れて晴れ間が戻ってきたらしい。木漏れ日の合間から鋭い陽光の差し込んできて、薄暗い蔵の中にいた俺の目を眩ませる。
 手で陽光を遮りながら、さてと呟く。
「晩飯の買い物に行かねばならん」
 今晩は何を作ろうか。
 美丈夫の顔を思い出しながら、献立に頭を悩ませた。




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