美丈夫の嫁10 1





 今日は夕方から雨が降ると天気予報で言っていた。
 朝方は快晴で、とても雨が降るようではなかったけれど、天気予報を信じて傘を持って出勤した。おかげで夜になってから急に大粒の雨が降り始めても、焦りはしなかった。
 早上がりだったおかげで、多少ゆとりを持って帰宅出来た。雨が降っていなければ寄り道をしたのに、と僅かに悔しさを抱きながら蔭杜の広すぎる敷地の前を走る。
 俺がいつも通る門は、正門を過ぎた先にある勝手口だ。その方が敷地内の自宅に近い。なのでこの時も正門の前を自転車で走り去るつもりだった。
 だが正門の前に、誰かが立っている。
 傘も差さず、びしょ濡れになるのに任せてじっと突っ立っている姿は異様だ。不審に思った俺は、立っている人の顔を見て心臓が止まりそうになった。
「おまえさん、何をしておる!」
 同じ屋根の下で暮らしている人が、どうして正門の前に立ったまま、家に入るでもなく濡れているのか。正門に吊されている明かりに照らされた顔は、俺を見るが珍しく表情が読み取れない。
 しかし状況を見れば何かがあったのは明白だ。
 不安に駆られて俺は自転車を放り出すようにしてその場に止め、美丈夫に傘を差し掛けようとした。
 けれど一つの傘に美丈夫を招き入れた時、視線が間近で絡まって俺は息を呑んだ。
「……どちらさまですか」
 美丈夫ではない。
 非常によく似た、遠目では美丈夫だとしか思えなかったその人は、誰何する俺に目をしばたかせた。濡れた睫毛が雨雫を滴らせる。
 当惑する俺に、男は困ったように微笑んだ。



 蔭杜叶(かのう)と、男は名乗った。
 名前は勿論、外見からして美丈夫の血縁者であることは間違いない叶さんを、俺は正門から中へと通らせた。
「どうしてあんなところに立っておられたのですか。インターフォンを鳴らせば良かったでしょう」
 この家に入りたいのならば、訪問を告げて、会いたい人を呼んで貰えるように願い出れば良かった。何もあんなところで黙って濡れていることはないだろうに。
 母屋へと一直線に伸びている石畳を一緒に歩く。叶さんに傘を差し掛けると、すでに十分濡れているからと固持されたのだが、更にびしょ濡れにするのは忍びない。
(声は多少異なるな)
 見た目は似ていても、声まで全く一緒とはいかない。そのことに、やはり別人なのだと心のどこかでほっとした。
「まあ誉さん、どうしたんですか!」
「誉さんではなく、叶さんと仰るそうです」
「叶さん?」
 名前を告げてはお手伝いさんはぴんとこないようだった。どうやら名前を知らないのは俺だけではないらしい。
 お手伝いさんは慌ててタオルを持ってくる。そして受け取ったタオルで顔や頭を拭く叶さんを不思議そうな目を向けている。
 無理もないだろう、本当に美丈夫によく似ているのだ。本人ではないのかと尋ねたくなる。
「叶さんは、どなたに会いに来られたのですか?」
「俺は……」
「どなたですか」
 玄関先で騒ぎになっているのを、近くに来ていたらしい国朋さんが聞きつけたのだろう。硬質な声で問いかけながら、歩いてくる。
 眼鏡を押し上げて鋭い視線でこちらを見ては、一体誰が乗り込んで来たのかと警戒しているのがよく分かる。俺がいるせいで厄介事でも持ち込んだのか思われたらしい。
「お久しぶりです、国朋さん」
 叶さんはその場に立ち上がった。国朋さんは叶さんと向き合った瞬間、瞠目しては凍り付いた。信じられないものを見たと言わんばかりの反応に、叶さんは頭を下げる。
 深々と下げられた頭に、国朋さんは数秒絶句していた。
(そこまで驚くか)
 名を呼んだということは、お互い知り合いなのではないか。美丈夫によく似ている様が、国朋さんにとってもそこまで驚愕することなのか。
「……君は、亡くなったものだと思っていた」
「そう思われても仕方がありません」
 俺の予想を斜め上に飛んでいった話に「え?」と微かな声を零してしまう。けれど二人は俺の呟きなど耳に入らないらしい。
「これまでどこに?」
「今は関西にいます。大学三回生です」
 ということは美丈夫の一つ上か、と計算する俺の隣で、叶さんは小首を傾げた。
「俺はそんなに誉に似ていますか?」
「……そっくりだよ。双子のように」
 国朋さんが戸惑いを露わにする。この人がこうして弱ったような表情を見せるのは珍しい。
「お父さんはどちらに?」
「父は死にました。ご存じでしょう」
「……三年前、欧州で起こった大規模な連続爆破事件。邦人が多数含まれていたとあったがその内の一人が君のお父さんだろうと聞いている」
「遺体の損傷が激しく、身元の確認を取るのが大変だったようですが。父であると判明はしました」
「そうか。お悔やみを申し上げる」
 国朋さんが軽く頭を下げたのに対して、叶さんはすぐにそれを手で制した。
「いえ、お気遣い無く」
「君もそこに同行していたと聞いたんだが」
「最初はそうです。ですが俺は先に帰国していました」
「では、お父さんが亡くなられてからずっと関西に?」
「いえ、当時は北海道にいました。父が付き合っていた女性と二人で、日本に残されました」
 父親の恋人と二人きりで日本に残されるという一言だけで、叶さんが複雑な環境を背負っているのが窺えて、胸が塞がるような思いがした。
「その人も父が亡くなったかも知れないと聞くと、現場に向かってそれっきりです。何をしているのかは分かりません」
「そして君は今、関西に」
「父の友人を頼って引っ越しました。他に、行き場もありませんでした」
「それがどうして今更ここに?」
 国朋さんの反応は次第に淡々としていった。
 叶さんはどう見ても蔭杜の血統を感じさせる顔立ちをしている。なのに国朋さんはその叶さんに対してとても素っ気ない。
 どうしてここに来たのだと、軽く非難するような響きすらある。それに叶さんは顔を伏せた。
「どこにもいられなくなりそうだからです。俺が厄介者で、蔭杜にとっていなければいい存在だってことは分かってます。ですがお願いします。助けて下さい」
 叶さんはその場に膝を突いては、頭を下げた。
(土下座………)
 雨に濡れてびしょ濡れの姿で土下座をしている叶さんの姿は直視に耐えなかった。
 美丈夫によく似ている容姿のせいか、あまりに衝撃的で息が止まる。
 玄関に集まってきたお手伝いさんたちも、その光景に驚いてはおろおろと顔を見合わせている。国朋さんはそんな叶さんに頑なだった表情に明らかな苦みを混ぜた。
「顔を上げてくれ」
 見ていられないとばかりにかけられた声には、それまでにはなかった温度が宿っている。
 同情を帯びたそれに、俺はじっとしていられなくて、お手伝いさんから新しいタオルを受け取っては叶さんの肩に掛けた。そして身体を起こすように促す。
 叶さんは悲壮な顔をしていた。今にも崩れ落ちてしまいそうなほど弱々しい様に言葉を失う。美丈夫は決してそんな姿を晒さなかった。あの人はいつも毅然として、強さを抱いていた。
 けれどこの人は、脆さがある。おそらく環境がそうさせたのだろう。
「どうして助けて欲しいの?」
 重苦しい空気を一掃するかのように、凜とした声が場を制した。
 環さんが玄関へと歩いてくる。弟によく似ている叶さんを見ても驚きはしない。そういう人物だとすでに知っているのだろう。
 叶さんは環さんを見ると再び顔を伏せた。環さんの厳しい視線が突き刺さって痛むかのようだ。
「今、父の友人に世話になっています。恥ずかしいことに、生活や大学の学費までその友人に面倒を見て貰っています。バイトはしてますがとても足りなくて」
(そりゃあ、バイトだけで自分の生活費と学費をまかなうのは難しかろう)
 誰の援助もなく、自分一人の力で生活をして大学の学費を作り出すというのは並大抵のことではない。まして現役で入っていたとすれば、尚更厳しいだろう。
 叶さんの容姿は美丈夫とほぼ変わらない、とすればおそらく留年などはしていないのではないか。
「その友人から学費を打ち切りたいと言われました。奨学金を借りていますが、友人の援助がなくなると学費を払えなくなります。退学するしか……」
「どうして打ち切ると言い出したの?」
「……俺を、閉じ込めたいと。独占して、誰にも見せたくないと」
 お手伝いさんたちの間で恐怖がさざ波のように広がっていく。
 どう考えても真っ当ではない考えであり、叶さんに対する妄執と恐ろしいほどの独占欲が感じられる。
 叶さんがここまで逃げてきたのも無理はない。監禁したいと宣言されたも同然だ。
(この見た目じゃからな)
 人目を惹くに十分な容姿をしている。後ろ盾も何もない二十歳そこそこの男が、自分だけを頼りにしていると思うと欲望を掻き立てられたのかも知れない。
(しかしだとしても、気味が悪い)
 人権を完全に無視したやり方は聞いているだけで気分が悪い。
「そんなことは出来ません。ですが俺は他に頼る人もいなくて。どうしていいのか分からなくなって」
「ここに逃げ込んできたというわけね」
「大学を止めて一人暮らしをすることも考えました。ひとまず休学でもして、自立出来てからまた復学しようかと。でもその人は、もし家を出るならこれまで俺にかかった費用を今すぐ全部返せと」
「無茶だな」
 国朋さんが呟いた。それはここにいる誰もが同じことを思っただろう。
「就職してから働いて返すと言っても納得して貰えず。今の俺が出来るバイトなんて限られているし。家から出て行くなら金を返せ、訴えると言われて」
「酷い」とお手伝いさんの口から聞こえてきた。
 膝を突いたままの叶さんはうなだれる。八方塞がりで、心身ともにどこにも行き場が無いのだろう。
「お金を貸してくれ?」
 環さんがそう口にすると、その場が静まりかえった。
 普段の環さんからは考えられないほど、冷たい凍り付くような声音だったからだ。
 それは叶さんを殴りつけるような台詞だったはずだ。叶さんは自分の体重を支えていた掌をぎゅっと握った。
「ここに、父の遺した財産が多少でも、あるんじゃないかと思って……」
「あの人にあったのは借金だけです。祖母の財産も食い尽くした。あっという間だったわ。亡くなったらしいと知らせが来た時も、借金だけが残されていて、人様に迷惑をかけるからとうちが全部払いました。その上で貴方の面倒まで見ろと?」
「申し訳ありません……」
 居場所を失い、救いを求めてここまで辿り着いた叶さんに対して、環さんは非情だった。一切の情けがない様に思わず環さんの偽物が喋っているのではないかと疑ってしまいそうになる。
 国朋さんは環さんの傍らで黙って聞いている。苦渋が浮かんでいるけれど、環さんを止めるつもりはないだろう。
「成人しているのですから、自分の身の振り方は自分で決めて下さい。大学に行こうとしたのも貴方の意志、父親の友人の元に世話になったのも貴方の意志。借金が出来たのも」
(じゃがこの年で、そこまで自分で全部責任を持てというのは無茶苦茶ではないか)
 美丈夫くらいの年頃ならば、まだ親の保護にいる人が圧倒的だろう。
 そうでなくとも父親を喪い、行き場がなくなった青年が、父親の友人に頼ってしまうのは何もおかしくはないことだ。
 生活をするために、費用の面倒を見て貰うこともあり得るだろう。友人とどんなやりとりがあったかは分からないので、確信は持てないのだが。それでもその身の自由と引き換えに、これまでかかったお金を一気に全部返せというのは横暴ではないか。
「そうするしかなかったんです。北海道にいた時は置き去りにされて、それから一度東北の知人を頼りましたが、そこではすぐに追い出され、今の友人の元に逃げました。逃げ場が欲しかった。ですが今の友人は優しく受け入れてくれました。大学を卒業するまでは面倒を見ると。お金は卒業してからでいいからと。俺は、すがるしかなかったんです」
「掌を返された?」
「……俺にとっては」
「そしてここまで逃げてきた。すがりにきた」
 環さんは溜息をついた。
 それは叶さんに温情をかける合図だろうかと思った。仕方がないという意味合いを期待したのだが、環さんの瞳は冷えていた。




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