美丈夫の嫁 9





「私は、どうしたらいいのでしょうか」
 頭を抱えていた美丈夫がなんとか顔を上げて、例の捨てられた犬のような顔をするもので。俺は顔を逸らしてそう尋ねた。
 あの顔面に見詰められると言いたいことも言えなくなると学習したのだ。だから目は合わないどころか顔も見ない。
 非礼であるかも知れないがご容赦願いたい。
 黙ってあれこれ決められ続けて、このままでは自分が明日にはどうなっているのか分からないという恐怖に襲われているのだ。
 防衛策を採るのは当然だろう。
「嫁というのなら、家に入って大人しくしているべきですか?」
「それは上総さんのお好きになさって下さい。働きたくないと仰るなら辞めて下さっても生活に困ることはありません。ですが辞める理由もないと思われるのであれば、どうぞ続けて下さい。こちらからその件に関しては物申しません」
 金銭面で苦労することはないだろう。そうは思っていたので、俺一人くらい余裕で食わせられるという発言は予想通りである。
 そして家庭に入って蔭杜の中で囲われていろと言われなかったことも安心した。ずっとあの家に籠もっていろと言われたら、いくらインドア派の俺でも窮屈だ。
「もし同居するならば、その際に発生するだろう生活費などのお金は、どうすれば?」
「いりません。うちに無理矢理嫁に頂いたようなものです。お金を貰うことは一切ありません。なのでお給料は上総さんのお好きになさって下さい。同居する以上何の不便も感じさせません」
 美丈夫は先ほどより強い口調で語っている。態度が硬くなったようだが、気分を害したのだろうか。
 しかしこの辺りはちゃんとしておかなければ、後々揉めると面倒だ。
「では私の給料は好きにしても良いということが保証されるのでしょうか」
「勿論。全部上総さんのものです」
「では妹に仕送りをしてやってもいいですか?あの子は母親と二人暮らしになるのが嫌らしいので、外に出してやりたいんです。その一人暮らしをするにあたってのお金を援助したいと思ってます」
 蔭杜の家から帰ってきた後の志摩は荒れに荒れた。喜んでいる母とは対照的に、毎日落ち込んで弱音を吐いては涙ぐんでいるようだった。
 母との関係が元からあまり良くなかったのだが、俺の件でかなり衝突をしている。その上これまでクッション材のような役割をしていた俺が家からいなくなるということで、ほぼ絶望的というような顔をしていた。
 ぎすぎすした家の空気を思えば、いっそ妹は一人暮らしをした方が楽だろう。
 母も一人になれば気楽に暮らすだろう。元から家にいるより外をふらつくのが好きだったような人だ。
「お母様とは仲がよろしくないのですか?」
「昔から…そりが合わないようで。大学の学費を考えると実家暮らしで節約したほうがいいだろうと我慢してきたみたいですが」
 もはや限界だ。
 身内の恥を晒すようで情けないのだが、志摩を思えば美丈夫には話さずにいられないだろう。
「俺にもっと甲斐性があったら、学費も一人暮らしの金も出してやれたのですが。学費だけで精一杯で」
 これでも貯めたほうなのだが、実家にも金を入れて、志摩の学費も貯めて。ではさすがにそこまで手が回らなかった。そもそも俺は薄給である。
「志摩さんの学費を上総さんが出しているんですか?」
 意外そうに言われて、苦笑してしまう。きっと美丈夫にとっては、家ではなく兄が学費を工面するということ自体、驚きなのかも知れない。
「妹は奨学金でなんとかしようとしてますが。全額というわけにもいかず、それにお金を使うのは学費だけでもありませんから」
 学費全額免除に入れれば良かったのだが。妹はそれに辛うじて外れてしまった。成績は優秀だったのだが、惜しいところだったのだろう。
 そして学費以外にも衣服や持ち物、そして食費なので細々した出費がある。無駄遣いなどは一切していないが、それでも金は足りないというのが現実だった。
「学費はうちが払いましょう」
「え、いえ。ですが、蔭杜にそこまでお世話になるわけには」
「嫁実家に援助するのは当然のことですよ。借金やたちの悪い輩に渡す御金というわけでもない。学ぶために使う有益な御金ならば貸すのに充分価値あるものです」
 息苦しい。まず思ったのがそれだった。
 学費を援助して貰えるのは有り難い。そうすれば俺も志摩も金銭面では楽になるだろう。
 けれど蔭杜の影響下に置かれて、俺には逃げ場がなくなる。本当に、蔭杜に囲い込まれて愚痴の一つも吐けずに飼い殺しにされるような気がした。
「……言い方を変えます。妹さんに無期限無利子で学費をお貸しします。蔭杜が親戚にそうして学費を肩代わりするのはよくあることなので、お気になさらず気楽になさって下さい」
 俺が嫌な顔をしてしまったのか。それとも黙り込んでしまったことに関して美丈夫は深読みしたのか、話を別方向に切り替えてきた。
 数秒でこれだけの判断が出来るのか、この人は。どれだけこの手の交渉の場についてきたのだろう。慣れきっている。
(蔭杜は、そういうところなんじゃな)
 人の願いを読み取り、それをどう有益に進ませていくか。円滑に進めていくのか。この人はもう知っているのだろう。
「勉学のために惜しむ金など本来あってはならないものだと思います。なので学費はこちらが持ちます」
 甘えて良いものだろうかと思ったけれど、現状を鑑みる限り美丈夫の言っている温情を受けた方が良いということは明らかだ。
 妹も大学の隙間にバイトをみっちり入れていて、心身共に過酷な日々を送っている。女子大生があんなに毎日かつかつで生きているのは見ていて切ない。
「……お願いします」
 頭を下げてそう言うと「後で手続きをしますね」と柔らかな声音が聞こえて来た。
 そして美丈夫はようやく一息付けると言う様にコーヒーを飲んでは表情を緩めた。
 こちらとの繋がりをなんとか作ろうとしているみたいだ。そんなに俺を引き込みたいのだろうか。
(俺にこだわる理由がさっぱり分からん)
「ついでに妹さんの一人暮らしの部屋についても調べておきましょうか?女の子の一人暮らしなんて心配でしょう。女性限定アパートやマンションが良いと思いますし」
「それはそうですが」
 高そうだ。
 そう頭を過ぎった。
 いくら学費の心配が一時的に引いたと言ってもいつかは払わなければいけないものだ。それに贅沢が出来る暮らしでもない。
 俺が実家に入れていた金をそのまま妹に流したとしても、果たして女性専用安心アパートの一室を借りて余る金額だろうか。
(ワンルームならいけるか?志摩が安心して暮らせるなら多少無理してでも、ちゃんとしたところがええじゃろうな)
「上総さんの予算に合わせます。大学生向けのお手頃なマンションをメインに探しますので」
「……私の思っていることは、そんなに顔に出てますか?」
 どうしてここまで読まれるのだろうか。怖くなってそう尋ねるのだが、美丈夫は笑みを深くした。
「いえ、なんとなく思っただけです。この手の話の際、みなさん考えることは大抵同じですから」
 美丈夫は二十歳だ。
 言い換えれば去年まで未成年だった人である。
 その人が奨学金や大学生の一人暮らしの部屋を探す際のアドバイスがすんなり出てきてしまうらしい。
「相談に来られる方々みんなに、そうしてアドバイスされているのですか?」
「みんなというわけではありません。その人に合った中身にしようとは思ってますが。上総さんのお役に立てるなら、何事でも嬉しいです。こんな家に来るんじゃなかったなんて思われたら、やっぱり辛いですから」
 はにかんだように言われて、俺を雁字搦めに縛り付けるための金銭の契約ではないかと思ったのだが。穿ちすぎだろうかという気も生まれてくる。
 少しでも蔭杜に来て良かったと思って欲しい、という意志が伝わってくるのせいか。
(まあ、それが重いと言えば重いんじゃが)
 弱いところを見せれば、甘くして貰えるんじゃないだろうか。なんて考えが過ぎる程度には接しやすい人だ。この調子だと借金の申し込みに来た人とかに踏み倒されたりしないのだろうか。
「仲がよろしいんですね」
「二人きりの兄妹ですから」
「うちも姉弟仲は良い方だと思いますが。上総さんと志摩さんには負けます。ご自身のことよりまず妹さんの境遇を心配してあれこれ悩まれるなんて」
 そう言われて、自分のことについてまだ何も教えられていないなと思い出す。
「……私は嫁というものが、まして男の嫁になる男が何をするべきなのか、よく分からないのですが」
「ひとまず同居しませんか?」
「同居……」
 するかどうかも分からない、という目線で同居というものを捉えていたのだが。美丈夫はそこから開始すると宣言した。
「一般的な夫婦は同居します。まして事実婚ならば間違いなく必要とされるものでしょう。同じ時間を過ごし、生活を共にするということは、とても重要な部分だと思っています」
 事実婚という単語まで出して来た。
(結婚にこだわりがあり過ぎじゃろう)
 意地になっているのだろうか。しかし本家からは何もすぐに結婚する必要はないと言われているはずなのだが。
「上総さんにはうちの離れに来て頂きたいのですが」
「離れ?以前お邪魔した部屋でしょうか」
 環さんに連れられて、志摩と共に話をしたあの部屋だろうか。主に着物発表会になっていた記憶しか残っていないのだが。二人で暮らすには狭く、平屋だった気がするのだが。
「いえ、別の離れです。姉が結婚してから、俺は離れで生活してますのでそこに引っ越して来て頂けると有り難いと思ってます。二人暮らしが出来る広さはありますし、すでに上総さん用に改築もしてます」
 にっこり笑顔で言われたのだが、改築という響きに気が遠くなった。
(え、リフォーム?家のリフォームしたのかこの人。俺が引っ越して行くかどうかも決定しておらんのに!?)
 金余ってんの!?と肩を掴んで揺さぶってやりたい。そんなにお金余ってるならくれよ!と訴えたいのだが、言えば本当にくれそうだから返って禁句になってしまっている。
(つか離れも複数あるのか……姉が結婚したら実家には居づらいのかも知れんが、だからって二人暮らしが出来るくらいの離れがあるとは。もうあそこの敷地どうなっておるのやら)
 蔭杜の家は外観だけでも広いと思っていたのだが、実際のところ何平米なのか。
 知りたいような知りたくないような、恐ろしい心境だ。
「どうせなら、今から見に行きませんか?家具などは揃ってませんし、上総さんの希望があれば変更しましょう」
「いえ、私の希望なんて」
「自分が暮らす家です。住みやすい方がいいに決まってます」
「でも」
「上総さん。貴方の家です」
 俺の希望なんぞどうでもいい。所詮張りぼての、そこにいるだけの価値無き嫁だ。どんな扱いをされてもきっと文句は言えない。
 そう覚悟だけはしている俺を諭すように、美丈夫がはっきりと告げた。真剣な眼差しを受けて、それでも尚いらないと言うだけのひねくれた根性は持っていない。
(俺の家じゃと言うても、いつからいつまでそこにおるのか……)
 美丈夫と共に暮らしていくなんて、とてもではないが想像が付かない。
 それでも「行きましょう」と促す人に従って立ち上がった。
  

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