美丈夫の嫁 10 正面から帰ると上総さんがいるって騒がれそうですから、と美丈夫は裏口から自分の家に戻った。 広い庭は母屋の廊下からしか眺めたことはなかったのだが、裏口から入るとまず低木が幾つも植わっており生き生きと枝を茂らせている。 大きな池では錦鯉が悠然と泳いでおり、蓮と思われる葉が透明な雫を丸く乗せていた。 人の気配がしたせいか、鯉が水面に群がり始めた。 カコンと音を立てたのは鹿威しであり、水は絶えず流れ落ちてきているらしい。どこから引いてきているのかは謎だ。 敷き詰められている玉砂利を踏む音と水の流れ。雀ではない鳥の鳴き声が聞こえてくるのは、ここが緑の多い土地だからだろう。 (……かくれんぼをしたら大変そうじゃな) 見付けるのに苦労しそうだ。 「こっちです」 美丈夫は庭を歩いて一つの建物に向かっていく。ぱっと見たところごく普通の二階建ての一軒家のようだ。だが街中にあったら普通というだけで、家の敷地内に離れとして建てられるには独立し過ぎているような気がする。 しかし玄関に回ると、母屋との渡り廊下が付けられており、離れは離れなのだなと再確認させられた。 庭から小さな階段を使って渡り廊下に上がり、玄関を開ける。 「……何と言いますか。家ですね」 「家ですよ?」 何を言っているのだろうかという目で見られたのだが、考えて欲しい。 離れである。 母屋と繋がっている離れ。 何故こんなにしっかりとした玄関があり、廊下があり。その先に見えるのはリビングだろう。リビングの奥にもまた廊下があり別の部屋が見える。しかも一部屋ではない。まして上二階も存在いる。 そんなに部屋が必要だろうか。 (離れなんぞせいぜい部屋が二つ三つある程度じゃないのか!?) 「キッチン、トイレ、風呂、家にあるだろう設備は揃ってます」 それはもうただの家だ。純粋な一軒家だ。 ちょっと渡り廊下的なものが接着しているけれど、そっちの方が飾りであるかのように充実している。 「二人暮らしでも問題無い広さだとは思いますが、どうぞ確認して下さい」 美丈夫について玄関を上がりリビングに進むと、対面式キッチンがそこにあった。ぴかぴかの綺麗なそのキッチンはモデルルームのようである。真新しい上に掃除が行き届いているからだろう。 そしてリビングはしっかり広く、十二畳くらいあって俺は他にもあるだろう部屋たちを見るのが怖くなってきた。 「押し入れで暮らしたい……」 それくらい狭くて窮屈なところじゃないと落ち着かないかも知れない。 今なら某猫型ロボットと寝床の取り合いが出来る気がした。 「押し入れですか?和室はありますが客間にと思ってました。上総さんの自室にされますか?」 「いえ、そういうことではないので」 それくらい狭くて暗く、みっしりしているところじゃないと。もはや自分の居場所と感じられないのではないかと思っただけだ。 「日々の食事も掃除もお手伝いさんがやってくれますので、上総さんはお気になさらず」 そう説明してくれるが。人にやって貰う方が気になる。それは俺が実家で普通に家事をこなしていたせいだろうか。 飯作るのとか、毎日平気でやってたんだが。弁当だって作って持って行っていたぞ。妹が高校生になると妹の分も作らなければならなくて大変だった。ちゃんと彩りを気にしなければいけないので困ったものだ。二年になる頃にはちゃんと女の子らしい弁当作ってやれたのが自慢である。 「あの、俺の部屋は自力でやるので」 「分かりました。ではそう伝えておきます」 ご飯も自力でと思ったのだが、それではお手伝いさんの方が気にするかも知れない。美丈夫は人にやって貰うのが当然な暮らしだろう。なのに俺がお手伝いさんの仕事をしてしまうと気まずくなる可能性がある。 それにお手伝いさんほど、俺は家事に特化しているわけではない。与えられた自室を死守するだけで精一杯である。 「上総さんの自室はこちらです」 まるで不動産関係者が家を売っているような様子、美丈夫はリビングの奥へと案内してくれる。 引っ越してくるかどうかも分からない人の自室をあらかじめ用意しておく精神というのが、俺には共感出来ないのだが。と思いながら美丈夫によって開かれたドアの先に目をやった。 「……これは、いいですね」 おお……という声が自然と口から零れていた。 八畳ほどの部屋の壁、左右には天井まで本棚が備え付けられていた。木造で作られたそれは中身がまだ一切入っていないのに重厚な雰囲気がすでに図書館を連想させる。 ここに本をみっしり入れたら、と思うだけでテンションが上がる。 実家で床に平積みになっている悲しみのあれこれがここではしっかり収納出来る。蔭杜に来て、初めて嬉しい光景に出会ったかも知れない。 部屋はシンプルでまだ本棚しか入っていない。ここにベッド、パソコンデスクを入れたら問題無く暮らせるだろう。 そして八畳もあるならばまだ本棚を増やせる。 (いかん。欲望が増える) ここで暮らす決意もまだ固めていないというのに、本を詰める欲望だけ膨らんでいる。 「気に入って頂けましたか?上総さんの好みに合わせられるように、心掛けたのですが」 「すごく、すごく好みです」 思わず力みながら伝えていた。俺があまりにも期待に充ち満ちていたせいか、美丈夫が笑ったようだった。テンションを上げすぎただろうかと、少し恥ずかしくなって我に返る。 「それは良かったです。では最後に寝室を見に行きましょう」 「寝室……?」 「はい。寝室です」 ここにベッドを置いたらいいんじゃないのか。 本に囲まれて眠るとか夢溢れてるじゃないか。 そう俺は思うのだが、美丈夫は廊下に出ては俺が動くのを待っている。 (わざわざ自室とは別に寝室作るのか……部屋が余ってるってことなんだろうな) 寝る時はわざわざ部屋を変えるのは面倒な気がするが、意識の切り替えにはなるだろう。もしかすると美丈夫と同じ部屋で寝起きするかも知れないが、大半の時間を自室で過ごすのだから、寝る時くらいはなんとかなるだろう。 (いびきが酷いとか、夢遊病とかじゃない限り大丈夫じゃと思うが) 俺もいびきはかかないタイプだろう。もしかくならば隣の部屋で寝ている志摩が文句を言ってきそうなものだ。 「ベッドに関しては寝心地が人によって違いますし。やはり試してみないと分からないと思います。不都合が有りましたら、マットレスを変えるなり、ベッド自体を変えるなりしましょう」 「いえ、俺は床の上でも眠れる人間なので平気です」 畳の上に直に寝ても熟睡出来るのだ。マットレスがどうかなんて、高尚なことは全く考えない。 毛布や布団があればそれで充分だ。 しかしそんなことを思っていた俺の前で開かれたドアの向こうの光景は、想像を絶するものがあった。 「……あの」 「はい」 「どうして、ベッドが一つなんですか?」 階段を上がって出てきた部屋の真ん中にどーんと置かれていたのは大きなベッドだった。たぶんダブルベッド、もしかするとキングサイズのベッドなのかも知れない。 そもそもベッドのサイズなど俺はろくに見たこともない。シングルにしか用がないからだ。 日当たりの良い部屋で強烈な存在感を放っているそれに、俺は血の気が引いた。 寝室と言われてベッドは二つある、きっとシングルが二つ、間にある程度の距離を置いて並んでいると思っていた。というかそう思うのが当然だろう。 誰が男同士の寝室でベッドが一つだと思うものか。 「夫婦は同じベッドで寝るものでしょう?」 どうして驚くのか、という顔をした美丈夫の頭を本気で疑ってしまった。 正気なのだろうかこの男。 常識があり、冷静な人だと思っていたが勘違いか。いやそもそも常識と冷静さがあるなら男の嫁など認めるわけもない。 「私たちは男同士ですし。それに夫婦というには若干語弊があるというか」 当主に女の嫁は駄目だと言われたから、致し方なく手近にいた俺で諦めたという話だろう。そこに夫婦の形だの何だのを真面目に求めるのが異常だと思うのだが。 男の嫁を持っている。だから女と結婚するわけにはいかない。 それが言いたいがためのものであり、現実問題俺たちが夫婦らしいことをしなければいけないというわけではないはずだ。 少なくとも俺はそのつもりでここに来ている。 「夫婦ですよ。籍も入れます。それに夫婦が仲良くなるのは一緒に寝るのが一番だと言われました」 「どなたに!?」 「姉にです」 今からおまえの姉ここに連れて来い!弟をどうしたいのかその口で話させろ! 相手が美丈夫、そして姉が環さんでなかったら俺はそう言い放っていただろう。 (内情を知らん他人が言うたなら分かる!夫婦が仲良くするならベッドに二人放り込んでしまえばええじゃろ!だが俺たちは男同士の、友達ですらない間柄じゃぞ!?) ベッドに放り込まれても気まずさと緊張感が漂って睡眠不足の末に疲れが溜まっていくだけだ。何も良いところがない。 「いや、あのですね。私は寝相も悪いしいびきもかくし、歯ぎしりが激しいし。一緒には眠れないと思うんです」 「大丈夫です。俺はベッドから落ちても起きないくらい、眠りが深いので」 深いな!それは起きようよ!?歯ぎしりいびき程度ではびくともしない感がすごく伝わってきます。 そしてベッドを共に出来ない理由は他に何かあるかと、俺は視線を彷徨わせる。 なんだろう。誰かと一緒に寝たら悪夢を見る習性とでも言えばいいのか。 「め、目覚めたら私の顔が間近にあったら嫌でしょう?もしかすると抱き枕代わりにされるかも知れませんよ?」 「上総さんなら歓迎しますよ?」 (手強い…!) 八つも年下なのに、何だろうこの掌で転がされている感は。とてもやるせないのだが、太刀打ちが出来ない。 俺だったら絶対にお断りだ。美丈夫くらいに顔面が整っていたら、そりゃ男でもダメージはないだろうが、俺なんかに抱き枕にされたらドン引きだろうが。 大体俺なら歓迎って何だ。どうして俺なら許せるみたいな言い方をするのか。 「嫌でしょう、普通は……」 「いえ、上総さんですから」 機嫌良さそうに俺だからと繰り返す人に、抱き続けた疑問がとうとう弾け飛んでしまった。 「どうして、私なんですか?」 初めからずっと胸の奥にあった疑問だ。けれど言っても無駄だと、どうせろくでもない理由に決まっていると、口には出さなかった問いかけだ。 だが美丈夫がこだわるせいで、不意に零れ落ちてしまった。 しまった、と答えを聞く前から後悔が襲いかかってくる。だが美丈夫は俺の質問に双眸を細めた。その優しげな微笑みに呆気にとられる。 「やっと訊いて下さいましたね」 next |