美丈夫の嫁 8





 環さんが持って来たオレンジ色の着物は、確かに志摩によく似合っていた。蔭杜の使用人と思われる年配の女性と共に着付けをされて。可愛い可愛いと連呼された志摩は酷く居心地が悪そうだった。
 しかもオレンジ色の着物の後には若葉色の着物まで出てきて、着せ替えごっこのようになってしまった。普段着物など着ることのない志摩は締め付けられる帯に四苦八苦しているようだった。
 だが志摩に着せられた着物はどれも、志摩のためにあつらえたのかというほどにしっくりと馴染んでいる。
「やっぱりお着物も人に纏って貰ってこそ、ですね」
 志摩が着ている様を眺めて、環さんは嬉しそうにそう言った。着物が本当に好きなのだろう。
 結婚を止めてくれと懇願した、あの悲壮な空気は完全に中だるみして。そこにあるのは女の子同士がきゃっきゃと着物で遊んでいるだけの光景だった。
 俺なんぞは場違いも甚だしく、女の子だけで楽しんで下さいと言いたかったのだが。環さんも志摩もいちいち俺に絡んで来るので逃げ場もなく。結局そこから小一時間は着せ替えに付き合わされた。
 自宅に帰る道すがら、志摩は「あん人苦手じゃ……」と愚痴る割に不快そうな表情が欠片も無かったのが救いだった。



 蔭杜で環さんが志摩に着物を着せて楽しんだ後、俺たちはそっと本家を抜け出すことにした。母は宴会を充分楽しんでいるようで、上機嫌で親戚たちと止めどなく喋り続けている。こうなると俺の言うことなど聞くわけもないので、引っ張って帰るという考えは初めからない。
 一言かけて帰るため、志摩が母の元に行ったらしいが答えは案の定であったらしい。
 俺はというと、疲れ果てながらも美丈夫に挨拶だけでもしようと姿を探していたら。客間に入る前に美丈夫の方が気付いてくれた。
(結局この人とは全然話をしておらんな)
 自分の旦那になるはずの人だ。だが何一つ知らない。
 環さんより、いやもっと言うなら義父予定の人よりも、接した時間が短い。顔と名前と年しか分からない。
「上総さん、すみません。もうなんとか身体が空けられると思いますから」
「申し訳有りませんが、妹の具合が良くなく。今日はここでおいとまをさせて頂こうかと」
 当主が抜けている現状で、その弟まして今日の主役がなかなか自由にならないことは分かっていた。だからこそ身体が空いたところで帰るというのも心苦しかったのだが。俺も志摩も心身ともに限界が来ている。
 衝撃的なことが次々起こりすぎたのだ。今から美丈夫とこれからのことに付いて話し合うと言われても、きっと頭に入ってこないだろう。
「本当に申し訳有りません」
 美丈夫の心遣いが感じられるだけに、後ろめたさがあった。なので深々と頭を下げる。
 ここで滞在を延長しないところからして、俺は気のきかない嫁ということになるのだろう。
「いえ、俺の方こそ上総さんをほったらかしにして申し訳有りませんでした。旦那の実家なんてお嫁さんが最も気を使って心細くなるような場所なのに」
(ん、んん!?え、すでに!?)
 落ち込んでいるらしい美丈夫の顔に、ここに来てから何度目になるか分からない驚きに襲われる。この人の中ではすでに俺は嫁であり、守らなければいけない対象なのか。
(今日は出逢って何度目だ!?俺たちが会話した時間は何分だ!)
 おそらく長く見積もっても十数分ほどの時間だ。それなのにすでに俺を嫁と認定して、その扱いをするというのか。
(この男、度胸があるというか、適応能力が優れすぎおるというか。むしろ逆にどっか抜けておるのじゃないか!?)
 ここまで切り替えられるなんて、神経接続がどこかおかしいと思っても仕方がないのではないだろうか。
「また改めてお時間を頂戴出来ませんか?これからのことについて上総さんとはしっかりお話をしたいと思ってます」
「それは…勿論。ですが今度はこのような大勢の方がいらっしゃる場というのは、私として緊張するのでお控え願いたいのですが」
 本家が、美丈夫がどう思い、どうしたいのか俺も気になるところだ。
 しかし今日みたいに大勢の中であれこれ決めるというのは、心臓が締め付けられて逃走することしか頭になくなるので止めて欲しかった。
「今度は俺と二人だけにしましょう。本家のあれこれより先に、俺たち夫婦の話をするべきです」
 美丈夫は力強く、俺を見詰めてそう告げた。妙に意気込んでいるようで不安になる。
 何故だろうか。この人が気合いを入れれば入れるほど「何考えてんだ…?」という疑問が生まれてくる。
 そしてごく当たり前のように「夫婦」と言い放ってくれたところも、また俺の頭を痛くした。
 だがその引っかかりを口にする余力もなく、その時の俺は連絡先を交換するだけで妹を連れてすごすごと逃げ帰ったのだが。
 美丈夫から連絡が来たのは、俺が自宅に辿り着いて堅苦しいスーツを脱いだその瞬間だった。
 また後ほど連絡します、と言われて俺ならは早くても翌日に連絡を入れるものだが。美丈夫にとっての後ほどは当日の一時間以内であったらしい。
 震える携帯にびくっと肩を震わせて、メールを確認するのを躊躇った。しかし見ずに放置するわけにもいかず、仕事が休みの日を伝えることになったのだが。
 少しずつ蔭杜家に侵食されているような強迫観念にかられた。



 俺の休日は土日に決められているものではない。しがない接客業の端くれであるためだ。本屋の社員がカレンダ通りに休めるわけがない。
 最短の休みが平日であったため、美丈夫と都合が合わせられるかどうか不明だったのだが。美丈夫は大学帰りに会ってくれるようだった。
 昼下がりのファミレスの端っこに座りながら、あの美丈夫にファミレスとか全く似合わないと思っていた。
(回らない寿司屋とか料亭とかが似合いそうだ。高級レストラン系も馴染んでいそうだな)
 その全部が自分には合わないという悲しみも感じながら、ドリンクバーで注いできた薄いウーロン茶を口に運ぶ。
 すると約束の時間の五分前に美丈夫が入ってくる。すでに席に着いていることはメールで知らせていたので、慌てて店内を見渡しているようだった。
 別に遅刻ではないのだから、そんなに急ぐこともないだろうに。
 手を上げて見せると、ほっとしたような顔で足早に近付いて来た。
「すみません、お待たせしてしまって」
「来たばかりなのでお気になさらず」
 当たり障りのない会話をしながら、美丈夫は店員にコーヒーを注文している。
 質の良いグレーのカーディガンに黒のデニム。シンプルな服装なのに大変落ち着いて上品に見える。本人の雰囲気も相まって実に誠実そうな、男前の見本のような姿だ。
 それに比べて俺なんて黒のパーカーを適当に羽織っただけの、やる気のない恰好である。向かい合っていると劣等感が刺激されて仕方がない。
 しかし凹んでいても意味がない。美丈夫と同じ土俵に立つなど初めから無理なことは分かりきっているのだ。そこは諦めて接するしかないだろう。
(大学ではモテるんだろうな)
 彼女作らないんだろうか。いや現在いるかも知れないな。それとこれとは別という思考の人かも知れない。
 どうであっても俺に質問する権利などないのだろうが。
「この前のことは、大変失礼を致しました。父が勝手に決めてしまって」
「いえ、謝らなくとも……」
 コーヒーがやってくると美丈夫はそう言っては頭を下げてくる。なんだろう、俺たちは話し合いの度に頭を下げて謝罪しなければいけないことばかりである。
「上総さんの戸籍を父のところに入れるなんて、いきなり決められて。戸惑ったことだと思います」
「……まあ、はい」
 そりゃそうだろう。俺が蔭杜の名字を名乗るなんて。はっきり言って不釣り合いで笑いものにされかねない。
「父は思いつきで暴走するくせがありまして」
 思いつきで俺を養子にするなんて言い出すなんて、どうかしているとしか言いようがないのだが。しかもまだそれは撤回されていない。
(自分の息子が増えるという自体に、あの人は深刻さは感じないのだろうか)
 豪快に笑う美丈夫の父の姿が思い出される。剛胆というか、無鉄砲というのか。俺の周りにはいなかったタイプの人だ。
「……その、戸籍の件なのですが。動かすのは待って頂けませんか?」
「え…?」
 美丈夫に嫁に来てくれと言われてから初めて、俺は要求を出した。これまでは何を言われてもはいはいと肯定して来ただけに、美丈夫は驚いたようだった。
 抵抗すら無駄だと思って諦めていたのだが、どうしても妹の顔がちらついた。
「私がどんな人間かもご存知ないと思われますし。人には相性などもあります。この先ずっと付き合っていけるのか、それが分かるまでは戸籍を動かすのも……後々の揉め事になってもいけません」
 至極真っ当な、無難な提案であるはずだ。少なくとも俺にとってはここまで出て来なかったのがおかしいような発案だったのだが、美丈夫は凍り付いた。
 瞬きすらもせずに固まって、耳を疑い信じられないと全身で示している。
 驚愕とすら言えるその反応は、俺にとっては異常なのだが美丈夫は絶句したままだ。
 まるで自分が人間としての道を大きく外れて、鬼畜のようなことを言い出したような気持ちになって目を逸らす。
 なんだろう「この外道が!」と罵られているような雰囲気は。
「あの……結婚といっても色々ありますし。もし同居するならお互い生活のリズムとかあると思いますから」
 美丈夫の言う結婚とはどういうものなのか。同居はするのか、どこまで共有するのか。その確認すらしていなかったことを、ここに来て思い知る。
 そもそも結婚とは何なのか。
 ここに来て、非常に哲学的な問いかけになってくる。
「同居は、して頂きたいと思ってます。夫婦ですから」
 美丈夫は凍り付いたまま、口元だけそう動かしている。器用なことをする人だ。
「生活のリズムも上総さんに合わせます、上総さんの暮らしやすい状態に整えます。俺に出来ることなら何であってもしたいと思ってます。結婚して良かったと思って頂けるよう最大限に努めて」
「いえ、ですがそれではまるで奉仕の精神のようですよ。もし夫婦というのであれば、その考え方はおかしいと思います」
 美丈夫は献身的に俺に尽くす、というような言い方をしているけれど。それはそれで夫婦ではないだろう。
 それ以前に蔭杜の人間が何言ってんだ、という気持ちの方が重いけれど。
 指摘する美丈夫はとうとう頭を抱えて溜息をついた。
「あの、何も戸籍を全く動かさずにいるというわけではなく。一時保留というだけの話なのですが」
 まるでこの世の終わりのような反応をされて俺も戸惑う。俺の戸籍を何とかしなければ美丈夫の身に良からぬことでも起こるのだろうか。
 美丈夫は「分かってます…」と呻き声のように告げているのだが。どうも分かっている気がしなくて、俺は無駄にウーロン茶を飲み続ける。
 ドリンクバーの飲み物は本当に薄くて不味い。
 

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