美丈夫の嫁 7





 親戚の中に埋もれるようにして、少し離れた場所に座っていた母は俺が蔭杜の籍に入ると聞いて歓喜した。
 そそくさと寄って来ては「大出世じゃない!」と俺の手を取って上下にぶんぶん振る勢いだ。
 こんなにも喜ぶ様を見たのは久しぶりである。
 周囲の親戚たちも「良かったですね」と祝福してくれていた。だがその朗らかな表情で告げられるものが本音なのか、本家の人たちの言葉を思い出すと素直には受け入れられなかった。
 だが母親の老後はこれで安泰だろう。何の不自由もないことが決定されている。片親で苦労したことが、ここに来て報われると思っているのかも知れない。
 けれど所在なさそうに俺を離れた場所から見ていた妹だけは、今にも泣き出しそうだった。
 こちらに来たい。だが親戚たちに囲まれている上に俺の周囲にも人が集まっている。そのためなかなか寄って来られないようだった。
 母のように周りを押し退けてくるだけの度胸がまだ付いていないのだ。
 酒の席は盛り上がり、興奮した母は次から次に席を回ってはお酌をしているようだった。美丈夫の父まで母を構っては、更に興奮させている。
 無礼講になった空間で、美丈夫も環さんも、勿論その旦那さんも途切れることのない親戚たちの相手をしている。俺の前にも絶えず人が来るのだが、お手洗いだと断って席を立った。
(酒は飲めんと嘘をついてて良かった)
 冷静さを保ったまま、危なげのない足取りで動ける。アルコールが入っていたらぼーっとして、きっと周りも見えなくなっていたことだろう。
 妹は立ち上がった俺に気が付いてくれて、慌てて腰を上げた。
「お兄ちゃん…!」
 廊下まで小走りでやってきた妹は、幸いにも酔っていないようだった。成人したばかりの子に酒はきついものがある。それは本人も自覚していたらしい。
 きっと酒は飲めないと嘘をついたのだろう。やっていることが兄妹揃って同じだ。
「蔭杜の人間になるの?私たち他人になるの?」
 そう言っては瞳に涙を浮かべた。もう泣きだしてしまう直前だ。
 罪悪感で心臓が潰れそうだった。
 母親は仕事で不在がちなため。俺たちは二人で過ごす時間が長かった。子どもの頃は夜中に二人で留守番をするのは心細くて、肩を寄せ合って眠れない夜を過ごした。
 たった一人の妹。奔放すぎる母親に振り回されて嫌な思いをした時も、一人では耐えられなかっただろうが、妹を守らなければと思うとぐっと我慢も出来た。
 きっと妹も似たような思いを抱いているだろう。
 俺が美丈夫の嫁になると言った時、烈火の如く怒り猛反対したものだが。現実味を帯びてきて怒りよりも寂しさや怖さの方が膨らんだらしい。
「戸籍が向こうに行っても、俺はおまえの兄じゃろ。そんなの何も変わりはせんわ」
 たった一人の兄妹だ。それは何があっても変わりはしない。
 小声でそう慰めるのだが、妹はより泣きそうになっただけだった。
「志摩」
「お兄ちゃん……私、蔭杜の援助なんていらんから。いかんでよ。お母さんと二人だけだなんて、辛い」
 辛いよ。
 その一言が堪えた。
 志摩は普段俺のような言葉遣いにはならない。むしろそんな口調はおかしいと言っているくらいだ。だが時々こうして零れてしまうようだった。
 それは大抵、泣いている時だ。きっと感情が高ぶって色々溢れ出してしまうのだろう。
 何もかも放り出して志摩を連れて家に帰りたくなった。蔭杜の名前なんていらないから放っておいてくれないか。平和に暮らしたいだけなんだと、席に戻って言い放ちたい。
「血の繋がった二人だけの兄妹じゃろ。何があっても俺はおまえの味方じゃ。だから今はちいと我慢せ」
 小さな子どもにするように頭を撫でながら落ち着かせる。
「嫁じゃ言うても、どうせすぐ別れる。所詮俺は張りぼてじゃ。すぐに離婚して戻ってくるわ。それまでの辛抱じゃ」
 な、と言い聞かせると志摩は小さく「うん」と頷く。それでも目の端からは涙が流れ落ちて俺を苛む。
(どうせ男の嫁なんぞすぐにお払い箱になる。もしくは形骸化して、ただそこにいるだけのもんになり果てるじゃろ。そうしたら実家に戻っても許されるはずじゃ)
 少しの間だけの我慢だ。
 そう思いながら溜息をついて、ふと視線を上げた。
(……お、おぅ……)
 廊下の先で美丈夫が立ち尽くしていた。意外と至近距離にいた彼は唖然とした表情で、まるで時が止まったように微動だにしていない。
 何をそんなに驚いているのか。まさか妹との体勢を見て、恋人同士と勘違いでもしたのか。
 美丈夫は妹の顔を知っているはずだが。
「あの、これは」
 やましいことは何もないと言いたいのだが、果たしてこれが本物の恋人同士であったとしても、美丈夫に言い訳をしなければいけないだろうか。
 恋人なんていないと蔭杜の人間には言ってしまっているので、一応釈明が必要なのか。
 焦っていると今度は美丈夫の後ろからひょこと環さんが顔を出した。そして俺と志摩、そして立ち尽くしている美丈夫を見ては「ちょっと休憩しましょうか」と微笑んだ。
「……姉さん」
「上総さんも志摩さんも疲れたでしょう。人に囲まれて大変だったと思うの。だからちょっとお休みしましょう」
 疲れたわけではない。そんなもので妹は泣き出したわけではない。
 だがこの状態で妹を酒の席に戻すわけにもいかない。なので俺たちは環さんに連れられて別室へと移動することになった。
「誉はお父さんのところに戻って、お二人が席を外すことをお話しておいて。お客様のお相手も宜しくね」
「俺も」
「貴方の会でしょう?」
 環さんはそう言っては美丈夫を退けた。思ったより厳しい声音であり、有無を言わせぬ威力を感じる。
 姉の命に美丈夫はぐっと言葉を飲んだようだった。従いたくないということは顔に書かれていたが、最後には不本意ながらも折れたらしい。
 会釈をしては廊下を去っていく。その足取りは酷く重そうだ。



 どんちゃん騒ぎをしている客間から歩き、離れに通される。
 母屋からは渡り廊下で繋がっている離れは、茶室かと思われたのだが、それにしては大きい。敷地面積は下手をすれば我が家よりも広いのではないだろうかと思われる。
 庭がよく見えるように障子は開け放たれており、そろそろ夕暮れに近くなってきた陽光が斜めに入り込んで来ている。
 母屋と同じく離れも和室であり、床の間には掛け軸だの壺だのが置かれている。
 中に入ると静けさが漂い、先ほどまでの騒がしさが嘘のようだ。
 環さんに促され所在なく志摩と共に正座をする。床の間にある掛け軸を正面にして座ったので、よくその絵柄が見えるのだが。どこに良さがあるのかはさっぱり分からない。
 水墨画ですね、という以外の感想が出てこないくらいに、俺には場違いな部屋である。
 志摩も同様だろう、ひたすらに居心地が悪そうだ。
 環さんが向かい側に座ると、それを待っていたかのようにお茶と和菓子が運ばれて来る。
 タイミングは全部計算されていたのだろうか。というかいつの間に準備されていたのだ。
(ここのお手伝いさんたちは、いつもこうして蔭杜の人の動きを読んで働いておるのじゃろうか)
「ここの和菓子は美味しいんですよ〜。私のお気に入りです」
 環さんはそう言っては美味しそうに和菓子に手を付ける。そして場を和ませてくれようとしているのだろうが、志摩は大きく息を吸い込むと畳に手を付いた。
「兄の結婚を取りやめて下さい!」
 土下座である。
 前振りくらいはするかと思ったのだが、志摩はそんなものすら入れずにいきなり要求した。
「志摩っ!」
「お願いします!」
 俺が止めるにも関わらず、志摩は言葉を続ける。
 環さんはびっくりするかと思ったのだが、冷静にそれを聞いているようだった。
「上総さんが結婚されるのがお嫌なのですね。でも誉のお嫁さんにならなくとも、いつか上総さんは誰かと結婚されますよ。そして今よりずっと遠いところに行くかも知れない」
 顔を上げた志摩は面食らったような様子でうっすらと口を開けて固まった。
 俺が別の誰かと結婚する、という可能性を考えていなかったのだろう。突然降って湧いた結婚の話が男相手だったので激怒したようだが。もし相手が女だったのなら、という視点は持たなかったらしい。
「で、でも!それは!相手が男よりましです!だって兄がお嫁に行くなんておかしいでしょう!」
「それを言われると私は返す言葉がありませんね。男のお嫁さんが普通じゃないことは確かですから」
「そうですよ!」
「こら、志摩」
 相手に攻め入る場所が見付かったからといって、強気になってはいけない。相手は蔭杜の当主であり、先ほどの美丈夫とのやりとりや、親戚たちとのやりとりを垣間見るに、可愛いだけの人ではないようだ。
「ですがおかしいと言われて嫌な思いをすることがないようにフォローします。男のお嫁さんになって良かったと思って頂けるように、誉が尽力することをお約束します」
 環さんは堂々と、何一つ不安などないと言わんばかりに断言している。
 蔭杜のフォローと言われても、それは金銭面なのか人脈的なものなのか。両方兼ね備えているという可能性もあるだろう。
(美丈夫が尽力するって……)
 あの人が俺のために動くというのか。それだけの価値が俺にあるのか、と正面から尋ねられると全力で首を振ってしまうのだが。
 どれほどの努力をしてくれるのかは知らないけれど、想像するだけで胃が痛くなる。
「どれだけフォローして貰っても、誉さんがどれだけ頑張っても、やっぱり男の嫁なんておかしいですし、後ろ指を差されるはずです。そんな思いを兄にさせたくないです。だから、諦めて下さい」
「上総さんと志摩さんは本当に仲が良いんですね」
 志摩の願いに環さんはそう言うと立ち上がった。畳の上を歩くほんの微かな足音と共に小柄な人がゆっくり歩いてくるのを、兄妹で緊張しながら見詰めた。
「だから寂しい」
 志摩の前で膝を突いて、環さんは柔らかな声音で囁くように言った。正面にいた時には感じられなかった、香るような優しさがしっとりと伝ってくる。
 横顔はやはり美しく、大輪の花も霞むような麗しさを平然と纏っている。
 蔭杜の血は、これほどに綺麗な人ばかり生み出す遺伝子を宿しているのだろう。
「お兄さんが取られると思うから寂しくなる。こう考えて下さい。姉弟が増えるのだと」
 環さんは人差し指を立て、唇の前に持って行く。唇に意識を誘ったようだった。
 緩く弧を描く紅色の愛らしい唇。
「私、お兄ちゃんも欲しかったけれど、妹はもっと欲しかったんです。私の妹になっては下さいませんか?」
「え……あの」
 環さんにぐっと顔を近付けられて、志摩は顎を引いた。真ん丸になった瞳が環さんに釘付けになっているのは間違いない。
 美丈夫に見詰められた時の俺のように、きっと頭の中は真っ白になっていることだろう。それだけの威力がある顔立ちだ。
(あ、これはいかん……)
 流されるだろう。そう考えるまでもなく察せられた。
「一緒にお買い物したり、お洋服やお着物を選んだり甘い物を食べたり、お喋りしたり。お泊まり会とかしませんか?私それが夢だったんです。お友達としても楽しいけれど、妹ならもっと楽しいと思うんです。だって家族はこれからずっと一緒にいられるから」
「あの、でも…」
「志摩さんお着物はお嫌いですか?志摩さんに似合いそうなお着物があるんですよ。貴方を一目見た時からきっと似合うだろうと思って!」
「はい!?き、着物ですか?」
「お着物です。オレンジ色の可愛らしいお着物です。貰って頂けませんか?」
「もら、貰うなんてそんな!」
 志摩が顔ごと俺を見た。そこには大きく「どうしよう!?」と書かれており、困惑の色濃さを滲ませていた。
 着物なんて高価な物をあげるとか言っているよこの人!と環さんがいなければ叫んでいたことだろう。
「そんな高価な物は頂けません」
「そ、そうです!お着物なんて!」
 俺がお断りすると、志摩もはっとしたように辞退している。目を逸らしているのは、直視すれば押し切られるとでも感じたのかも知れない。
「高くありませんよ?」
「着物というだけで庶民には重たすぎる物です。頂けません」
 庶民とは金銭感覚が違うということは覚悟していた。なので俺はあっさりと拒否出来る。そもそも人に着物をやるという発想自体俺達にはないものだ。
 環さんは酷く残念そうに肩を落とした。
「そうですか……箪笥の肥やしになるだけの運命なのですね」
 暗く沈んだ声はとても落ち込んだように聞こえて来て、人の罪悪感を煽ってくる。小柄な身体が更に小さくなったようで、自分たちが非道な事をしてしまったような錯覚に陥る。
 これがわざとであったのならば、人の心を動かすのに長けている人なのだが。果たして作り物なのか天然の反応なのか。この人の場合判断しづらい。
(ふわふわとした雰囲気のせいじゃろうな)
 志摩は「どうしよう」と俺を見て唇だけで訴えてきている。そんなものは俺だって分からない。
「なら、着るだけでもどうですか?貰って下さいとは言いません、でも一度も着て貰えなかったお着物は可哀想です。志摩さんならきっと着こなして下さるわ」
「え、いえ」
「一度だけ!可愛いお着物ですから!着付けならこちらで完璧にします!上総さんも可愛い妹さんのお着物姿見たくありませんか?」
「私は」
「すぐに済みます!気分転換ですから!」
 環さんは勢いに飲まれる兄妹をそのままに、慌てて廊下に出て行く。慌てすぎてつんのめりかけて、俺たちに小さな悲鳴を上げさせたけれど、さすがに転けることはなく外で誰かに声をかけている。
「……強引じゃ……ここの姉弟」
 俺がそう呟くと志摩は「ほんまじゃ」と心底疲労の感じられる返事をしてくれた。
 

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