美丈夫の嫁 6 「お父さん!」 義父になるかも知れない人に値踏みされる居心地の悪さに耐えていると、環さんの声がした。彼女は慌てたようにこちらに戻ってくる。 その後ろからスーツ姿の男も付いてきて、誰かと思っていると美丈夫だった。今日は紋付き袴ではなかったらしい。 しかし上背があり、がっしりとした体格の美丈夫はスーツもしっかりと身体に馴染んでいるようだった。 環さんの旦那さんが細身のすらりとした体格であるのに比べて、美丈夫には厚みがあり逞しさが滲んでいる。 エージェント、というどこぞの映画で飽きるほど使われているだろう設定が頭の中を過ぎった。だがどちらかというとエージェントを使う側の人間ではないだろうか。 「父さん!いい加減にしてくれ」 父の元に駆け寄った姉弟はどうも機嫌が良くないらしい。美丈夫に至っては怒りを隠しもしない様子で詰め寄っている。 美丈夫が怒るとなかなかに迫力がある。不愉快そうに眉を寄せただけでも、常人に口汚く罵られる以上の威力があるだろう。 自分に向けられているわけではないのに、無性に謝りたくなるくらいだ。 しかし硬直している俺を見て、美丈夫は瞬きをしては申し訳なさそうに肩を落とした。 「上総さんすみません。本当は上総さんがいらっしゃる前に父を空港から連行して、きちんとご挨拶出来るようにしたかったのですが」 俺の前で膝を突いてそう説明してくれる。 空港ということは、どうやらこの人はどこかに出掛けていたらしい。 ここに来ても美丈夫はいない、その父もいない。ということで俺はさっぱり歓迎されていないのではないかと思っていた。 特に父親に関しては、男の嫁など見たくもないという意志表示なのかと若干穿った見方をしてしまっていた。 杞憂であったことが分かり、少しほっとする。 「やー、ストで飛行機が飛ばなくて大変だったよ。お披露目にもこんなにぎりぎりになってな」 「本当よ!もっと余裕を持って帰って来てよ!上総さんにも失礼よ」 「上総さんには失礼をしたねぇ」 「いえ……」 怒る娘に促されて、父は俺に謝罪するけれど笑っているその様に反省などないだろう。大体この人と顔を合わせるのは初めてでもなく、これがお披露目の場だということも今日知った。 最初から俺をここに引きずり出して親戚たちに嫁ですと言うために設けられた会。だがそれをこちら側には一切知らせなかった。 不意打ちを狙っていたのは明白だろう。 仕組まれている。周囲を固められて掌で踊らされている感覚だ。 (たちが良くない……) ご立派な家柄の当主の父なぞ、性質が良くては勤まらないものかも知れないが。 「ところで戸籍がどうとか聞こえたが」 「俺が上総さんの戸籍に入る。そういう話だ」 「はい?」 何を言ったんだこの人は。 戸籍についてなんて何も聞いてないのだが、美丈夫が俺の養子になるということか。 (いやいや、嫁なら逆じゃないのか!?) それならむしろ俺が旦那の側ではないのか。 というか蔭杜の人間が俺の籍に入るなんて、空を飛んでいる鳥が地べたを這いずり回るようなものだ。 有り得ない、信じられないような決断ではないか。 「逆、なのでは?」 思わず口を挟んでしまった。 籍を入れること自体反対なのに、疑問を述べずにいられない俺に、父親は顎をさする。 「どちらにせよ、上総さんの方が年上だろう?」 「そうです。八つも年上ですよ」 義父に対して、環さんの旦那さんは到底認められないとばかりに顔を顰めて、八つという部分を強調している。 まあ、きっと一つだろうが八つだろうが年上には関係ないのだが、この人にとっては気になる部分なのだろう。 「誉君の戸籍を入れたとしたら、どちらの籍でも誉君の方が養子になってしまいます」 養子縁組をした場合、年上の方が養父という扱いになるのだ。実に単純なシステムであり、蔭杜の長男が俺なんぞの息子になるわけにはいかないのだろう。 「姉さん女房か。いいなぁ。おまえもまだまだガキだから、色々と教えて貰え」 「はい」 (はいじゃなかろうや!?) 何故そこで平然と返事が出来るのか。いや姉さん女房という単語を普通に口にした方もどうかと思ったけど! あと俺に教えられることなんてありませんが!?と叫びたかった。俺に出来ることは、貧乏暮らしで培われた節約生活のコツくらいである。そして蔭杜の人間にそんなものは全く役に立たないだろう。 「ま、でも戸籍に入るのは止めろ」 悪のりしていた父親は、あっさりと美丈夫の提案を退けた。あまりにも呆気ない却下に美丈夫は眦を吊り上げた。 父親を発見して叱った時とは異なる、腹の底から冷えるような静かな怒りが背後から滲み出ているようだった。 「どうして?」 押し殺したような声と共に、美丈夫の背筋が伸びる。片膝をついた状態になり、ぴんっと姿勢を正したその姿は、剣道などの試合が始まる直前の空気を漂わせた。 もし父が自分の道を阻むのであれば、どのような手段を用いてもそれに抗うと言わんばかりだ。 その一変した態度に驚いた。二十歳だというのに妙に迫力があって怖い。本家で生きているとそんな風に威厳のようなものを身に付けてしまうのだろうか。 「元々蔭杜の男は婿に出て行くものだ。俺が上総さんの息子になることは、本家の習わしに添っている」 「おまえが嫁を貰うのは何のためだ?環に何かあった時に支えるためだろ?なのに蔭杜の名前を失っていたら、おまえ何も出来ないぞ」 父親はふと厳しい顔つきになっては息子を諭している。にやにやと笑いながら冗談で流せる話ではないらしい。 (また名前だ) 環さんも、彼女の旦那さんも、義理の父親もやはり蔭杜の名前にこだわる。それが彼らにとっては大切なものなのだろう。 庶民である俺にはさっぱり分からない感覚だった。 「もしおまえが上総さんの名字になっていたら。蔭杜について何か言ったところで、所詮出て行った人間のくせにと親戚連中は言うぞ。口出しする権利なんてないと、分厚い面の皮でほざくはずだ」 ここには親戚連中と呼ばれる人々がいるにも関わらず、父親は辛辣なことをはっきりと言った。これまでそうして煮え湯を飲まされた相手がいるかのような素振りだ。 表面上みんな穏やかに過ごしているように見える。けれど蓋を開けて見ればどろどろした人間関係が築き上げられているのかも知れない。 そして美丈夫はそれを聞いて、父親を睨むのを止めて苦虫を噛み潰したような顔をした。 「…でも俺は上総さんを嫁にする、家族になるんだ。そのためには戸籍での繋がりだって必要になる。それがないのなら何のために嫁になって貰うのか分からない。俺が得られるものは、上総さんにも分けられるべきだ」 「いえ、私は……」 重い!と美丈夫の発言を止めたくなる。 非常に優しい心遣いだと思う。誠実さも感じる。 美丈夫は顔だけでなく、中身もそれ相応の良さがあるのだろう。しかしいきなり蔭杜の恩恵だの何だのを言い出されても困る。 これから美丈夫と暮らしていくのか、結婚という形式はどこまで継続されるのか。それが一切予測出来ないのだ。 もしかすると同居したところで、三日で嫌になってこの話はなかったことにしましょう、となるかも知れない。その時にまた蔭杜の名前だどうだのと言われても、面倒なだけでしかない。 「戸籍という大きな問題は、また後々に」 ひとまず美丈夫と俺がちゃんと向き合っていけるのか。まずはそこを確かめた方がいいだろう。この人とはまだ三回しか会っていない上に、ろくに会話もしていないのだ。 相手のことを何一つ知ることなくここにいる。昔の見合い結婚レベルの接点の無さといきなりな展開なのだから。もう少し現代的に、と俺はこの場を濁したかった。 「よし、なら上総さんは俺の息子になればいい」 「……はい?」 「僕の養子になれば誉とも環とも家族だ。戸籍でも繋がりが出来るし、蔭杜の権利を上総さんも得ることが出来る」 胸を張って自慢げにそう言い放った美丈夫の父に、その場の空気が一変した。それまで雑談していただろう親戚たちは一斉に口を閉ざし、身内もまた絶句しては父を凝視している。 それほどとんでもない宣言だったのだ。 「ちょ、ちょっと待って下さい!この人を養子にするということは、この人が長子になるんですよ!?」 環さんの旦那さんは真っ先に我に帰っては猛然と抗議を始めた。当然だろう。自分の身内になるのも嫌な相手が、自分の嫁の兄になるのだ。直接の義兄になってしまうなんて、認められるわけがないだろう。 まして年齢からすれば俺が長男ということになる。ぱっと出て来た下っ端が一番上に座るなんて誰も納得しないはずだ。 だが顔色を変える娘婿に対して、義父はけろりとしていた。 「長子だろうが何だろうが、女でなければ良い。蔭杜の男はみんな平等。僕の息子だってだけのことだ」 ただそれだけの価値しかない。 それだけ女は特別扱いをされるのだろうが、しかし男は価値が低いからと言っていきなり余所から長子を入れるだろうか。 「私はいいと思うわ!お兄ちゃんが欲しかったもの!」 「はい!?」 「環さん!」 「私にもお兄ちゃんが出来たなんてすごいわ!」 手を合わせて喜ぶ環さんに旦那さんは慌てている。反対するに出来なくなった空気を感じているのかも知れない。 しかし俺が兄でもいいなんて、どういう感性をしているのかこの人は。 (分からん……この人は分からん!) 「戸籍はこれでいこう!細かいことはまた考えればいい!」 環さんと父親はあっさりとそれを認め、親戚にも「うちの嫁で僕の息子になります!」と言い始めた。 親戚たちはそう声をかけられると、ふっと緊張の糸が途切れたように笑顔で祝福しているようだった。その笑顔が本物かどうか、もし本物だとすれば親戚たちも並々ならぬ精神をしているものだ。 環さんの旦那さんは殺気立った目で俺を睨み付けてくるし、肝心の美丈夫は悔しそうに父の背中を見ている。 環さん一人だけが嬉しそうに「宜しくお願いしますね」と俺に接してくれるのだが。その笑みすら俺の心臓に棘のように刺さってくる。 (なんじゃこれは……) 追い詰められている感覚しかない。 どこにいっても、どう転んでも、誰かには恨まれる。そんな予感しかしないのだ。 (俺はもっと平穏な、自由があって、適当に暮らしていてもさして誰にも怒られないような、平凡な生き方をしておったはずじゃ) 何故こんな爆弾に囲まれている場所の真ん中に座らされているのだろう。 next |