美丈夫の嫁 5 「上総さん、あのね」 環さんは何を思ったのか、不意に真面目な顔をして更に近付いてきた。 吐息がかかりそうなほどの距離に緊張が走る。これほどの美人が至近距離で俺を見て来るというのは心臓に悪い。 そしてもっと心臓に悪いものがちらりと見えた。 「あの……後ろに」 「え?」 環さんの背後には俺を射殺さんとばかりに睨み付けてくる男が仁王立ちしていた。 ダークスーツを着ている、細いフレーム眼鏡をかけた男。成人の儀でちらりと見たことのあるが、当主の旦那だと聞いていた。 きっと自分の妻がこれほどの近さで他の男と接していることが気に入らないのだろう。 今すぐにでも俺の胸ぐらを掴んできそうだ。 「環さん、向こうで誉君が呼んでましたよ」 妻が振り返ると男は表情を緩めてそう告げた。鬼の形相が一瞬にして変化してことに目を見張る。妻には見せられない表情だと自覚している証拠だろう。 「もー、あの子ったらお嫁さん一人にして何してるのかしら」 環さんはそう言っては不満そうに立ち上がる。「失礼しますね」と会釈と共に去っていく後ろ姿を見て、そういえばまだ美丈夫に会っていないなと気が付いた。 本家に入ってすぐにここに連行されたのだ。 会わなければいけないだろう美丈夫の顔すらまだ見ていない。 今日もまたあの紋付き袴なのだろうか。 (……何を思って俺なのか) それすら知らされていないのに。周りから固められて封じ込まれて、俺はどうなってしまうのだろうか。 途方に暮れていると、どかりと環さんの旦那さんが腰を下ろした。そして俺を再び睨み付けてくる。 出来るエリートサラリーマン。そんな雰囲気と共に威圧感を漂わせている。 「勘違いしないで欲しい」 「…はい?」 唐突に、何の前触れもなく旦那さんは俺にそう突き付けた。 何かを牽制しているだろう台詞に心当たりがなくて、間抜けな返事をしてしまった。 「誉君の嫁としてここに来るからといって、君に蔭杜の名前を背負わせるつもりはない。環さんは優しさで言っていたが、君がこの家に入る権利はない」 権利、と言われてそもそも俺がここに入ること自体まだ決まっていない、俺自身認めていないのにと言いたくなった。 蔭杜の名前も、環さんは使えと言っていたが俺はそんなものが自分の手元に来ること自体、信じていない。 (……しかしそれを言うのが当主の旦那が一番手じゃったか) 男の嫁、ましておまえが蔭杜に来るなんて嫌だ。認めない。 誰かはそう言うだろうと思っていた。歓迎されるなど毛ほども想像していない。 この親戚の数を見た時も、誰が最初に俺に対して「男の嫁なんて」「おまえなんて」と言うだろうかと思ったのだが、義理の兄予定の人が先陣を切ったようだ。 最も、男の嫁というとんでもない発想は当主がしたらしいので、他の親戚たちは思っていても面と向かって文句を言えなかっただけかも知れないが。 「身の程というものがあるだろう?蔭杜の人間になるなら、相当の家柄や人格が求められる。それが繋がりがあるかどうかも分からないくらい遠い傍系。経歴も平凡で今は三流企業の店員。はっきりいって不釣り合いだよ」 はんと鼻で笑われても、悔しさや恥ずかしさはない。ただ「はあ……」と力のない相づちをうつだけだ。 だって全部事実であり、俺自身がそう思っているからだ。 けれど旦那さんはそれが気に入らなかったのか、更に不愉快そうな顔をした。 「誉君も、もっと相応しい人間がいただろうに。何故か君を選んだ。正当な嫁を貰えないので自棄になったんだろうが」 自棄になりすぎだろうが。そんな風に思っているのならば止めてやれよ、盛大に道を踏み外す前にもっと真剣に引き留めてやるべきだっただろうに。 「自分が選ばれた、求められたなんてつけあがるのは止めて貰いたい」 つけあがるどころか「帰っていいですよ、このお話はなかったことにしましょう」と言われたら今すぐにでも退散する。 そして二度とこの話題を口にすることもなく、忘れ去る努力をするのだが。 それはそれで怒られるのだろうか。 (しっかし俺のことを嫌っておるなぁ) プライドの高そうな人だが、こんな下っ端が身内になるかと思うと苛々するのだろうか。これほど厭われていると、さすがにこの家に入るというのは無理ではないだろうか。 少なくとも同居なんて夢物語だろう。 (いびられるなんぞ、冗談ではないぞ) 大人しくやられ放題で黙っていろ、というのは性分としても無理である。 「君が本家の権利に関わることは許されない。行事に顔を出すことも恐らく拒否されるだろう。ただ嫁として存在しているだけ。誉君の役立つように努力はして貰うが、本家にとっては使用人の一人と大差ない扱いになる」 使用人とまできた。 (しかし本家の使用人というのはどのような扱いなんじゃろうか。成人の儀では割と福利厚生はちゃんとしておると、ちらりと聞いたが) 本家のような大きな家になると、使用人は一人や二人ではないらしい。その上ちゃんと福利厚生もあり、一つの小さな会社のような形態で雇っていると聞いた。 嫁というより、使用人の扱いが俺にはまだ合っているのではないだろうか。 勤務形態にもよるだろうが、給料が良いなら使用人として雇って貰ってもいいかも知れない。 あくまでも名前は嫁、中身は使用人でどうだろうか。 「その証拠に戸籍に関しても、誉君との養子縁組はしないことになっている」 それは初耳だった。 嫁になると言っても戸籍だの、実際の結婚だのという中身については一切聞かされていない。ここでその話題にもなるとは思ったのだが、環さんの旦那さんから答えが聞かされるとは。 (まあ当然か) 俺なんぞが蔭杜の戸籍に入れるわけがないのだ。ちゃんと最終的な線引きはするらしい。 本家の正しい防衛の仕方だろう。 あくまでも美丈夫の補佐、言いよってくるだろう女たちへの壁、もしくは既婚者ですよと言いたいがための言い訳でしかない。 嫁というポジションが埋まっていれば良いのだ。実質上の役割など度外視なのだろう。 「君の方が年上らしいな。八つも上だなんて、女であっても嫁だなど言えないようなものだが、まして男だ。どんな神経してるんだか」 ここに通された時点で緊張と不安で指先が震えて、今もちょっと吐きそうな気分になっているくらいか細い神経ですが。 そして貴方も溜息をついてますが俺だって同じような心境です。 (これだけきついことを言うて来る人じゃが、俺と思っとることはほぼ一致しとる) 蔑まれているようだが、旦那さんの言っていることは常識的だと思う。そして俺の思っていることによく似ているので、感覚的にはこの人と一番合うのではないだろうか。 「籍に入るなど、自分から遠慮しますと言うのが筋なんだがな」 気が聞かないなと言う様に睥睨される。というか籍だの何だのという話題を出すべき相手にすら会っていなかったのだが。さっき環さんと初めてまともに会話をした間に伝えておけよ、ということなのだろうか。 「まー、君は相変わらず細かい男だな!」 旦那さんにつらつらと説教をされていると、背後の襖がバァンと盛大な音を立てて開かれた。 あまりにもいきなり大きな音が、しかも背中から聞こえて来たのでびくっと肩が跳ねてしまう。 慌てて振り返ると、三十代後半くらいに見える男が立っていた。ジャケットにノーネクタイ、シャツも第二ボタンまで開いている。改まった装いの人々ばかりの中でそのラフさは目立つことだろう。 豪快な笑顔は以前見たことがある。 うちに襲来した黒ずくめの男たちの中心にいた人だ。俺の前に座ってはあれこれ説明してくれて、最後に「ガンバ」なんて言い残して颯爽と帰って行った。 ふざけているのかと思ったあの男。 「お義父さん!」 「おっ……」 おとうさんだと……。 驚いている旦那さんを見て俺は絶句した。この人が義理の父だと、美丈夫の父だというのか。 しかしよく見ると確かに美丈夫と目元などが似通っている。きっと美丈夫に年齢と不敵さを足して、真面目っぽい雰囲気を奪い取ったらこんな感じになるのかも知れない。 (というか俺は父親との顔合わせを、あんな形で済ませていたってことになるのか!?) あんな喧嘩腰の発言のやりとりで、美丈夫の父親と接したのか。結構不満をぶつけたような気もするし、何より結構失礼な態度を見せたのだが。 それに父親だと言うならばそう名乗れば良いだろうに。今の今まで黙っていたなんて人が悪い。 唖然としている俺を見て、義父予定の人はにやりと笑う。 「あれこれ気が回るのはいいが、細かい上に保守的なのが良くない。心配性なのもほどほどにしないとな」 なあ?と同意を求めながら、義父予定はしゃがみ込んで俺を見てくる。返事に窮していると「お義父さん、そうは仰いますが」と環さんの旦那さんが戸惑っている。 「誉はなぁ、昔からそつがない息子でな。どんな嫁を取るかと思ったもんだが」 初めて会った時はあくまでも他人の顔をしていたが、目の前にいる人は明らかに父親の目線で俺を見ていた。 息子の嫁になるだろう俺を。 これまで浴びせられてきた品定めなど、まだ生温いものだったと痛感するくらいに。その視線は俺の中にまで突き刺さってくる。 (嫁選びは失敗した、とでも言うつもりじゃろうか) そつがない息子でも嫁だけは駄目だった。 そんなオチをあっさり付けられるのかも知れない。そう覚悟しながらも目をそらせなかった。 next |