美丈夫の嫁 3 「女が駄目なら、男で我慢しろ。ということでしょうか?」 男が説明したことをあけすけに言うと、頷きが返された。 「本家は男を嫁とせよと言われた弟を不憫に思い、相手は誰でも良いとしたのです。本来ならば本家に入れる嫁には、家柄や品格などを調べて本家に相応しいかどうかを見極めるのですが。この際どんな人でも文句は言わない、好きな相手を選んでも良いという運びになりまして」 美丈夫に対するせめてもの情けなのだろう。 しかし誰でもいいと言われて、この人を嫁にすると男を家に連れて来る覚悟は相当なものがあるだろう。俺には到底無理だ。 「子を成す必要もありません。なので嫁にしたい相手はどなたでも、そしていつ決めても構わない。時間をかけて、自分が納得出来るようにしなさいと伝えておりました」 「男の嫁を貰うならば覚悟も必要でしょう」 同性と結婚しろと言われて、ノーマルな人間であったのならば躊躇い、悩み、時間をかけて自問自答するものだろう。むしろいっそ独身のままでも良いという結論に達するかも知れない。 俺はきっと素直に「一生独り身で頑張ります」と宣言することだろう。 「ですが本人は言われてすぐに相手を決めたようなのです。一目見て気に入った人がいるらしく」 男はただでさえ上がっていた口角を更に上げた。 もう後は分かるだろう、と言う様な顔をしているが俺は思考を停止させていた。考えたところで嫌なことしか思い浮かばないからだ。 (今の俺は有り得んことしか考えられん。どうかしておる) まさかその相手は、という言葉は喉元まで出ているのだが意地でも出したくなかった。想像もしない。 ただ男の口からこれ以上何も出てくるなと祈るばかりなのだが、奇妙な緊張感を間抜けな音が破った。 ぴんぽーん、と二度目のインターフォンが鳴ったのだ。 (どれだけ客が来る日じゃ) 普段はあまり鳴ることのないインターフォンだというのに、こういう時に限って鳴る。ふっと空気が抜けて母は「何よ」と不満げな顔をして立ち上がった。 丁度良いところなのに!とでも言い出しそうだ。 母がいなくなると、敵陣に一人残されたような気分になる。黒いスーツの男が三人も、狭い六畳の和室に詰まっているのだ。視界からして暗い。 「……何を仰りたいのかは私にはよく分かりません」 「そうですか?本家の人間がここまでわざわざ来て、男の嫁を取らなければいけない長男の話を説明している。まして貴方は男だ。その意味が分からないわけはないでしょう?」 からかうような男の言い方に少しカチンと来た。だがここでしらを切らなければとんでもないことに巻き込まれるだろう。 うちは本家とは無関係だ。その方が穏便に暮らしていける。地味でも金銭に若干の不安を抱えていても、俺は平穏に生活していくのが最も適しているのだ。 「分かりません。私には何も」 男の前で平然とそう言い放とうとした。だが遙か高みから眺めているような悠然とした態度と、笑っているくせに異様に鋭い視線のせいで言葉が喉でつっかえる。 負けじとぐっと睨み付けるように見返すと、母の大声が聞こえた。キャーという悲鳴なのか、それとも歓声なのか分からない声だ。 何事かと思い腰を浮かせる。だが母の声はそれから嬉しそうに弾むものになり、危険なことが起こったのではないと察しは付いた。 (何じゃ…?) 本家から客が来ているというのに、なんという声を上げるのか。みっともないと顔を顰めていると、襖がパンッと開かれた。 不躾な音を立てて開けたのは母だ。興奮した面持ちで入って来たかと思うと、すぐに入り口の横にはけては背後にいたらしい人を振り返る。 「……びっ!」 年月が経って端に微かなヒビが入っており色も抜けた我が家の廊下に立っていたのは、美丈夫だった。しかもあの時と同じように紋付き袴を纏っている。 いつかの再来のようだった。 凛然と伸びた背筋、あの時は薄暗い階段を下りてきていたので分かりづらかったのだが、こうして見上げるとかなり体格が良いことが分かる。俺よりも背が高いだけでなく、肩幅からして違う。 真剣な顔つきはもののふを彷彿とさせ、清廉な有様を表しているようだ。その場の雰囲気を一瞬にして塗り替え、まるで殿上人の謁見に紛れ込んでしまったかのような錯覚を覚える。 あまりの衝撃に幻覚でも見ているのかと思っていると、美丈夫は部屋に入ってくることなく廊下に膝を突いた。 そしてしっかと俺を見詰めてくる。 「っ!」 この部屋には他にも四人の人間がいるのに、俺だけしか存在していないかのような視線だ。射貫くような眼差しに頭の中が真っ白になる。 これほどの容貌の者と目を合わせれば、もはや魅了の技でもかけられているのと同等だろう。平静でいろという方が無茶だ。 硬直していると美丈夫が息を吸い込んだ。それが分かるほどに、皆静まり返っていたのだ。 「蔭杜誉と申します」 「は、はい……」 間違いなく俺に名乗ったのだろう。そう思って返事をしたのだが、情けないことにどもってしまう。 「単刀直入に申し上げます。上総さんに俺の嫁になって頂きたい」 そう言って美丈夫は頭を下げた。深々と下がったそれを見て、まず思ったのが「この人、俺の名前知ってるんだ」という場違いな感想だった。 「さっちゃん!」 何かを急かす母の声も頭の中を素通りしていく。 (……嫁と、嫁と言ったのか美丈夫よ) おまえ、自分が見ている先にいるのが何なのか分からないのか。男だぞ、これといって何もない、特徴も特技もない、平々凡々で人生をだらだらと過ごして来た、世間に埋もれている成人男性だぞ。 何がおまえにそんなことを言わせた。 ということを訴えたかった。失礼なことかも知れないが、はっきりとそれくらい言わなければこの男は正気に戻らないではないかという危惧があった。 だが頭を上げた美丈夫が不安そうに俺を見た瞬間に、ぶちっと盛大に何かが切れた。 「……は、ぃ……」 頭を下げるというよりもむしろ崩れ落ちたと言えるだろう。とにかく顔面は下を向いたので、美丈夫がどんな表情を浮かべたのかは分からない。 母の歓喜の声、男たちの安堵と「マジか……」という呟きが聞こえてくる。 マジか、なんて俺が言いたい。マジなのか俺。いや、マジではないだろう。先ほどまでの葛藤と意地はどこに行った。 自分のしたことが信じられなかった。俯いたまま、やってしまった感に心臓がばくばく鳴っているのを聞いていると、肩にぽんと手が置かれた。 「ガンバ」 古い励ましの言葉を告げたのは、俺と話をしていたあの男だろう。ろくでもない応援に血の気が引いた。大きな過ちをおかしたのだ、と痛感した時にはもはや撤回のしようもなかった。 とにかくあの捨てられる犬のような、心細くて死にそうな瞳をされたら。嫌だも駄目だも口から出てこなかったのだ。 ましてあの顔だ。あれが真面目に嫁に来てくれと言ったら。女はもちろん男だって転ぶ。 と言うのは俺の言い訳であることは分かっている。 「そんなのが通用するわけないでしょう!?何考えてるの!?」 美丈夫とその一行は俺の返事を聞くとさっさと帰っていった。間違いなく言質は貰ったと言わんばかりの態度に、俺はすぐに青ざめてしまった。 けれど今更である。何もかも遅いのだ。 だが口約束というのは日本国憲法ではどれほどの効力があるのだろうか。そんなことを思っていた矢先に妹が帰宅し、状況を母が説明した後の第一声がこれである。 当然だろう。俺が妹の立場でも同じ事を言う。 「男に嫁ぐ男がどこにいるの!?日本じゃ同性婚はまだ出来ないでしょ!?それをやろうって、しかも嫁扱いって馬鹿じゃないの!?」 大学から帰ってきて、鞄を置いただけの妹は仁王立ちで母にそう言い放っている。しかし言われている側の母は涼しい顔だ。 「なんでお兄ちゃんも頷いたわけ!?駄目に決まってるじゃない!」 「本家が正装で頭下げてるのよ?そんな簡単に断れるわけないじゃない」 「簡単じゃなかったら丁寧に断ればいいでしょう!?本家だったら何してもいいの!?」 「あのね、ま−ちゃん」 怒りのまま叫ぶ娘を諭すように、母は落ち着いた口調で語りかける。 「本家との縁組みなんて棚からぼた餅のようなものなのよ?あそこと直に親戚になったならもう今後は安泰、アンタだってついでに玉の輿に乗って苦労のない人生送れるんだから」 「余計なお世話よ!なんなの玉の輿って!金金金じゃない!昔っからそればっかり!」 「失礼なこと言わないで。大体お金がなかったら暮らしていけない、それくらいアンタだって分かるでしょう」 母は不愉快そうに顔を顰めた。確かに母は昔から金のことにはうるさかった。それを妹は嫌っていたのだ。 金に汚いと母を見下していた。おかげで昔からこの二人は喧嘩が絶えない。 「だからってお兄ちゃんを金で売ったの!?」 「売られておらんわ。まるで遊郭に売られるみたいな言い方は止めい」 貧困のために子どもを遊郭に売る昔の家庭のようなことを言われるのは、さすがに勘弁して欲しかった。 それに金のためどころか、美丈夫の顔面に負けたのだ。現実はより阿呆で悲惨なものだった。妹には口が裂けても言えない。 「まあ、なんじゃ……本家が本気で頼み込んで来たらそう易々と断れんわい。断る理由もない。俺には婚約者も彼女もおらん」 「だからって男の嫁になる必要もないでしょう!?常識外れよ!」 「常識…そんな単語も忘れるような状況じゃったな……志摩の言いたいことも分かるし、間違っとらんよ。しかしなってしまったもんはどうしようもないと言うか。俺を恨め」 そういう俺も自分を恨んでいる。一時間前の自分にヘッドロックかましてやりたいくらいには苛立っている。 まさかこんなところで足を踏み外すとは思わなかったのだ。自分は存外に愚かであった。 「……ねえ、今からでもお断りに行こうよ。ちゃんと説明したら分かってくれるかも知れないよ」 「ま−ちゃん!一度受けたものをそんなすぐに掌返せるわけがないでしょう!」 「お母さんはお兄ちゃんがどうなってもいいの!?男の嫁だよ!?おかしいって指差されるに決まってるじゃない!本家でも余所から来た男の嫁なんていびられるに決まってる!」 嫁いびりという言葉が自分に降りかかってくるかも知れない。そう妹に指摘されて愕然とした。まさか三文芝居かと思うような嫌がらせを実際に受けるかも知れない立場になるのか。 「いや、でも姑はおらんしな」 美丈夫の母、前当主は事故ですでに亡くなっている。嫁いびりをする典型である姑はすでにいないのだ。 「小姑はいるでしょ!しかも当主なんて権力持ってるから逆らえないと思って、盛大に嫌がらせするつもりだ!」 「当主様はそんなことするような御人じゃないわよ。おっとりとした優しそうな人よ」 「そんな人でも嫁に対しては鬼になったりするのよ!」 「まーちゃん、まるで体験してかのように言うておるが、おまえはまだ嫁に行ったこともない子じゃろうが」 どうしてそんな風につらつらと嫁姑の確執に関して語るのか。女の子のこういう知識はどこから来ているのか不思議だ。 「嫁に行かなくても分かるわよ!女ってそういう生き物だから!」 女って怖い……と女の性根を決め付けてくれた二十歳の妹を見て思う。それが真実なのか、彼女の中にある偏見なのかは分からないけれど、とにかく妹は男の嫁というものを許せないのだろう。 「いびられる以前に、嫁として本気で迎えられるかも分からん。本家に入ったとしても、嫌になったら慰謝料がっつり貰って帰ってくるわい。本家は金持ちじゃから取れるだけ取ったらかなりの額じゃろ」 あれくらい大きな家柄になると、揉め事を避けて金で解決するというのが王道だ。どうしても本家から抜けたいとなったら、何か本家にとってまずいことでもあら探しして離婚にこぎ着ければいい。 (離婚って……) 結婚する前から冷静に離婚について考える。それ自体おかしいということは充分に分かっていた。 next |