美丈夫の嫁1 13
 




美丈夫の嫁 13





 どんよりとしている美丈夫に、ベッドに戻ったらどうなんだと思う。思うのだが一端ここまで起きるとなかなか寝付けないだろうことも分かる。
 現に今の俺がそうだからだ。
「……体調、悪いんですか?」
「そんなことはありません」
 体調の問題でなければそんな風に眉間に皺を寄せている原因がさっぱり分からない。
(と言うかこういう人種は体調崩しても、黙って耐えそうじゃな)
 少しくらいなら綺麗に隠してしまいそうだ。そして突然がくんと調子を崩して、取り繕えなくなるタイプではないだろうか。
 もしかして今がまさに取り繕えなくなっているタイミングなのか。
「ですが、健康そうには見えませんが」
「健康ですよ。健康ではあります」
 ならばその低すぎる声をなんとかして欲しいものなのだが。子どもが聞いたらビビるくらいに低いぞ。
 のっそりと顔を上げた人は、顔色も良くないような気がした。
(体温くらい測ったら良いじゃろうに。体温計なんぞあったかな)
 救急箱の類は果たしてこの家にあるのだろうか。
 見当が付かず、つい美丈夫の額に手を伸ばしていた。
 熱を測るならば額同士を合わせた方がいいかも知れないのだが、そこまで接近するには度胸が足りない。
「高熱ではないみたいですが、体温は低い方ですか?」
 掌が特別熱いとは感じない。だがあくまでも掌の体感であり、俺の感覚によるものだ。美丈夫の平熱が低ければ、もしかするとこれでも微熱になるのかも知れない。
 風邪だろうかと思って美丈夫を窺うと、目を丸くしていた。
 不機嫌そうだった顔と目が合っても俺は平静さを失わなかった。けれどそうしてぽかりと棘のない様で見詰められると途端に容貌の良さが際立った。
 整っているその造りに、かっと血流が激しくなるのを感じた。
 自分が何をしてしまったのか。気安く美丈夫の額などに手を当てて、失礼なことをいきなり行ってしまった。
「す、みません。体温計がどこにあるのか分からなくて」
「熱はないと思います。ご心配をおかけしてすみません。本当に、身体は何ともありませんので」
 俺が慌てて離れると美丈夫も驚きを収めて苦笑したようだった。
「変な時間に目が覚めて、少し苛立ってたみたいです。上総さんに気を使わせてしまって申し訳有りません。もう大丈夫です」
「それなら、いいんですが……」
「少し早いですが、飯食いましょうか」
 美丈夫は機嫌を直したようで、普段通りの落ち着いた口調でそう言うとトーストを焼き始めた。
 トーストを焼いている間、俺は美丈夫の分のコーヒーを入れて、二人で食卓に着く。
 とは言っても対面キッチンなので並んで食事をするのだが、これに違和感があった。
 実家ではずっと人と向き合って食事をしていたのだ。隣にしか人がいないというのは、奇妙な感覚だった。
 しかし美丈夫は気にならないようで、堂々と大きな口でトーストにかぶりつく。作法は旧家の長男なだけあってきちんとしているのだが、一口が大きいのはやはり育ち盛りの男子といったところだろうか。
 小鳥が鳴いている平和な音と、さくりとトーストを囓る軽い感触。割るととろりと零れる半熟オムレツ。
 綺麗に作り出された美しい朝の光景だ。だが綺麗過ぎて俺にとっては幻か偽りにしか感じられない。
(……やっぱり俺には似合わんのじゃ)
 何不自由ない暮らしなのに息が詰まる。
「上総さんは今日お休みでしょう?何が予定はありますか?」
 世間様は平日なのだが、シフト制になっている俺は休みだった。引っ越しをしてきて必要なものは前の休みに購入しているし、何より大半の物はすでに用意されていた。
 なので今日買い物に行かなければいけない。等という用事はない。
「妹と母の様子を見に行くくらいですね」
 一人暮らしを始めた志摩がちゃんとやっているのか、しばらくは会いに行ってやろうかと思っている。余計な世話だと他人から見れば思うかも知れないが、志摩は志摩で蔭杜の家に行った俺が苦労していないか確認したいようだった。
 母も母で一人になったからといって無茶な生活をしていないだろうか。部屋が荒れ放題だったらどうしようという恐れがある。
「買い物などはありませんか?大型で入り用の物があれば車を出して貰いますが」
「何も。必要なものは全て揃ってます」
 それに車など出して貰わなくてもネットで購入して運送業者に持って来て貰うという手がある。わざわざ蔭杜の世話になることもない。
「そうですか。俺は今日帰って来るのは遅いと思います。大学の講義も詰まってますし、寄り道するので」
「分かりました」
 朝はこうして互いの予定を話す。しかしすれ違っていようが、家で過ごす時間が長かろうが。基本的にはさして干渉しないので、それほど意味があることでないと思っていた。
 けれど今日だけは、俺は美丈夫に交渉しなければいけないことがあった。
「……あの、一つお願いがあるのですが」
 そう怖ず怖ずと言い出すと美丈夫は明らかに珍しいと言わんばかりの目をした。
「休みの日の食事は、自分で作らせて貰えませんか?勿論誉さんの分はいつも通りお手伝いさんに作って頂いて、俺の分だけ自分で作りたいんです」
 部屋の掃除、洗濯、食事までお手伝いさんが全部してくれる。それは俺にとっては檻の中にいるみたいだった。飼育されている動物になった気分だ。
 自分のことは自分でする、と教えられて生きてきた。それを取り上げられたように感じたのだ。自分のことも管理出来ない、自立の権利も蔭杜が握っているみたいだった。
 そして何より休みで家にいる際に、人が突然家に入ってくるという感覚に絶対に慣れないと思った。他人がキッチンで食事を作り、部屋を掃除して、洗濯まで終わらせる。俺はやるべきこともなくただ存在しているだけ。
 そんな暮らしは考えただけでもうんざりする。
(二階建ての一軒家を隅々まで掃除しろと言われるのは、なかなか難しいかも知れないが。飯くらいは作れる)
「ご飯を作るんですか?食事は口に合いませんか?味付けは変えて貰えますが」
「そうじゃないんです。実家では家事を毎日こなしてきたので、ここに来て何もせずにいるというのも居心地が悪くて、趣味らしい趣味もありませんし。料理は好きでしたから。出来れば休みの日だけでも作れたら気晴らしになると思って」
 全部を蔭杜の世話になるのは嫌だ。とは言えるわけもなく適当に誤魔化してしまう。だが美丈夫はそれに目を輝かせた。
「もし、もし嫌でなければ。俺も上総さんのご飯を食べてみたいんですが!」
「…構いませんが。味の保証はしませんよ?」
 美丈夫は何故か意気込んでいる。人に振る舞って良いような腕かどうかは分からないけれど、母や妹は美味しいと言っている。それに自分でも危険な味ではないと思うので、ひとまず食べることは出来るはずだが。
(毎日食ってる飯に比べれば、劣るぞ……)
 家事のプロと比べられると困るのだが。
「上総さんが作ってくれるなら残さず食べます。妻の手料理を食べるのは夫として感慨深いことだと思っています」
 真面目にそう言われ、いやいやそんな考え方するんですか、と返したくなる。深く捉えすぎだろうが。
「ついでに洗濯もしていいですか。それくらい毎日、朝出来ますし」
「そこまでするんですか?」
「すぐに終わります」
 汚れ物を他人の手によって片付けられるというのも、抵抗がある。慣れきっている人には伝わらないだろうか、少なくとも俺にとっては恥ずかしいと感じる行為なのだ。
「負担になりませんか?」
「これまでずっとやってきたことですから。今は楽過ぎて私にはとっては時間が余ってしまって不安なくらいなんです。落ち着きません」
「……では、俺は毎日ゴミ出しをします」
「え?」
 美丈夫は気合いが入った様子でそう宣言してくれた。横にいる俺を見詰めてくるその顔は真剣そのものだ。
 顔面の威力が強いのだから至近距離でそんな風にこちらを見るものではない。
 心臓が止まりそうになりながらも、言われたことを脳内で再生する。
「ゴミ出し……ですか?」
「夫の役割として、ゴミ出しがメジャーだと聞いたことがあります」
 出勤時にゴミを出して行く、というものだろうか。しかし俺は実際にそんなもの見たことがないのだが。
 というかこの人出勤じゃなくて登校時になるだろうし。毎日一限目から講義があるわけではないから家を出る時間もまちまち。だがゴミ収集は定時だぞ。
「ゴミは、毎日出せるものではありませんよ?」
「そうなんですか?」
「部屋のゴミは毎日回収されているみたいですが、実際ゴミ収集に出せるのは週に二回だと思います」
 美丈夫はゴミ回収について何も知らなかったらしい。それでもちゃんと生きていけるのが、俺の知らない世界だな。
「では、風呂掃除を。それなら毎日使う物ですから洗うはずです」
「そこまでして家事に参加する必要はないと思いますが……」
 俺が洗濯をするからと言って、美丈夫まで何かしらの負担を背負う必要はないだろう。やったことがないのに、わざわざ苦労することはない。
 他人にやって貰うのに慣れているのだから、今のままでも良いと思うのだが。
「上総さんだけに家事をさせるのは良くないと思います。それに家事の分担は夫婦らしいと思いますから」
 夫婦らしい。
 美丈夫のこだわりはそこであったらしい。
(……らしさを求めるなら、まず性別をだな)
 男同士でらしさも何もあったものではないだろうが。
 だが寝起きの時とは打って変わって上機嫌になった美丈夫に、冷水を浴びせるようなことは言えない。
「さっそく今日の夜、風呂掃除を誰かに教えて貰うことにします」
「帰りが遅いなら明日からでも良いと思いますよ……」
 風呂掃除など、どうするのか想像は容易に付くのだが、人に教えを請う姿勢を止めはしない。蔭杜には蔭杜のやり方があるかも知れないのだ。
 それに帰りが遅いなら明日でも良いだろう。気合いが入りすぎてちょっと心配になりつつ、久しぶりにどんな飯を作ろうかなと考えていた。
 

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