美丈夫の嫁 14





 昼から志摩に会い行った。丁度大学帰りを捕まえて一緒に飯を食った。
 一人暮らしは苦ではないようで、あれこれ工夫をして楽しくやっているようだ。俺が家を出るまでは落ち込んでいるところばかり見ていたが、笑顔であれこれ話してくれるのが嬉しかった。
 むしろ志摩は俺の方が気になるようで、嫌になったらいつでも逃げればいいんだと俺に言い聞かせてくる。
 それに嫌ではないとも、嫌だとも言えずに曖昧に頷くことしか出来なかった。
 母も自由に過ごしているようで「まあちゃんが出て行ったから、ペットでも飼おうかしら」などと言っていたのだが、めんどくさがって世話を怠るのが目に見えていたので止めておいた。
 それで俺はと言うと。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい」
 本家を通って帰ってくる美丈夫を出迎えると、驚いた顔をされた。実家から持って来たエプロンを着ている姿に面食らっているのかも知れない。
 紺色の地味なエプロンなので、そのエプロン自体に驚いたわけではないだろう。
「料理してたんですか?」
「今終わったところです」
 何時くらいに帰ってくるのか。出掛ける前に聞いていたのでそれに合わせて調理を終えている。
「すぐに食べますか?」
「はい。今すぐにっ」
 期待の眼差しを受けて、舌に合わなかったどうしようかと思う。大変気まずい空気が流れるのではないだろうか。
 戦々恐々としながら、キッチンで料理を皿に盛りつける。何が良いのか迷ったけれど、俺の時間が余っていたので煮魚である。
 きんぴらゴボウとカレイの煮付けとおすまし。漬け物はスーパーで買ってきた物だが、美丈夫は漬け物でも自家製を食べているのだろうか。
(簡単なものなら漬け物くらい俺でも作れるが)
 家事のプロが付いているなら、全部蔭杜で作り出していそうだ。自家栽培の野菜とか使っている可能性もある。
 鞄と上着を置いて、キッチンにやってきた美丈夫の前に皿を並べると「すごいですね!」と素直に褒められた。
 料理をやったことのない人ならば、これでもすごそうに思うのかも知れない。
「お口に合うかどうかは分かりません。俺の好みで作りましたので」
「上総さんの好みなら俺の好みになります。二人で同じ物を食ってれば自然とそうなりますよ」
 美丈夫の強気な意見に、味覚の隔たりを埋められなかった自分の親子関係を思い出す。母とはどうも味覚が異なる部分が多々見受けられた。だからこそ、俺が台所を預かったようなものだったのだ。
(まー、親子でそうじゃから。生まれも育ちも違う者の好みが合致しないなぞ、ようあることじゃろ)
 諦めながら皿を並べ、朝のように二人並んで晩飯を食う。自分が作った物をしっかり食べるのは久しぶりだが、手を合わせた後に口に運んだその味に、腕は落ちていないようだと安心した。
(こんなもんじゃろ)
 自分としては問題無い味だが、美丈夫はどうだろうか。そう気になって横目でちらりと見てみると微笑んでいた。
 満足そうなその表情は蕩けるように柔らかく、これまで見てきたどんなものよりも優しい。
「美味しいです。料理上手なんですね。魚の煮付けなんて時間がかかったんじゃないですか?俺は料理したことがないので、どうやって作っているのが分からないのが申し訳ないくらいです。今度調べます。料理上手なんて自慢の奥さんですよ。上総さんが妻になってくれて本当に嬉しいです。上総さん?どうしたんですか?」
「え……?」
 美丈夫がこんな距離であんまりにも綺麗に笑うもので、思考が止まってしまっていたらしい。
 つらつらと何か語られたような気がするけれど、さっぱり聞いていない。
 我に返ってみると、やっぱり美丈夫の顔が近くにあって思わず身体を後ろに引いてしまった。顔面から何か人の意識を失わせる物質でも出ているのだろうか。
「あ、美味しかったなら、良かったです。拙いものですが」
「拙くないですよ。お上手です」
「恐縮です」
 まずいと言われるのもショックだが、美味しいと連呼されるのもむず痒い。ほどほどでさらりと流してくれれば良いのだが、と思いながら茶碗を手に取る。
 白米は少し固めに炊いたのだが良かっただろうか。
「上総さんは、どうして敬語のままなんですか?」
「はい?」
 唐突に美丈夫に問われて、飯を口に入れようとした姿勢のまま止まった。
「同居して一週間が経ちますが、上総さんは未だに俺に対して敬語のままですよね」
「それは、蔭杜本家の方ですし」
「上総さんも蔭杜の人間です。俺の嫁ですから」
 まだ籍は入っていないし心構えも出来ておりませんが。
 嫁というのは美丈夫の中では決定済みどころか、強固な現実になりつつある気がする。
「それは、お互いまだ相手のことはよく知りませんし。誉さんも敬語のままではありませんか」
 美丈夫だって丁寧な言葉使いのままだ。それが非常に似合っているのだが、立場からすれば俺などを敬う必要などないはずである。
「上総さんの方が八つも年上で、俺はまだ学生です。自分でろくに金も稼いでいない若輩者ですから。働いていらっしゃる上総さんに敬語を使うのは自然なことです」
 二十歳の口から若輩者などという謙遜が出てくること自体、人間としての出来を感じる。
 人を立てることも忘れないだなんて、この美丈夫に欠点はないのか。
「いつもの口調になって頂けませんか?妹さんと話されていた時の、あの喋り方が聞きたいんです。少し特徴があって、良いですね」
「それは…いつお聞きになったんですか?」
 美丈夫の前であの妙な口調など出していない。妹との会話も真っ当な喋り方をしていたはずだ。どこで聞かれたというのか。
「上総さんの戸籍をどうするのか、母屋で話し合いをした後に妹さんと廊下で喋っていたのをちらりと聞きました」
 あれか。そういえば泣き始めた妹を慰める際にはいつもの口調になっていた。そしていつの間にか美丈夫が廊下に立っていたのだ。
 驚愕の様子だったが会話はしっかり聞いていたのだろうが。
(あの変な口調が良いと言うか)
 方言なのか古めかしいのかは、自分でもさっぱり分からない謎の言語である。
 幼少期に面白がって使い込み過ぎたせいで、身について離れなくなってしまっているのだ。
 さすがに他人の前では出さないようにしているのに。よりによって美丈夫に求められるとは思わなかった。
「いえ、ですがあれはおかしいものですし。馴れ馴れしいというか」
「嫁なんですから馴れ馴れしいのは当然です。俺のことをさん付けで呼ぶのも止めましょう。仲睦まじくありたいと思ってますので」
「しかしですね、いきなり言われても、私だって、その」
 自然と出てきてしまう、癖のようなものを今から出せと言われても、それはそれで困るものだ。
 ましてじっと待たれても緊張するばかりで、余計に喋れなくなってしまう。
「困ります……」
「普通に喋ればいいだけですよ?」
 世の中は普通という不鮮明でぼやけた境界が最も厄介なのだということをこの人に教えてやって欲しい。自然体など意識した時点で出来なくなっているに決まっているだろう。
 だが黙って俺をじっと見てくる無言の圧力に抗えず、俺は目を伏せながら口を開いた。
「……おかしな、人じゃ。何がそうお気に召した」
 酷く突っかかりながらも、なんとかして変な口調を絞り出すと美丈夫が小さく笑った気配がした。
「全てですよ」
 喜色が色濃く滲んでいるその声音に、当分美丈夫の顔は直視出来ないだろうなと思った。




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