美丈夫の嫁 12





 しっかりと身体を受け止めてくれるベッド。長時間寝ていても堅くて骨が痛くなるということもない。良質というのはこういうことを言うのだろう。
 そして手を投げ出していてもベッドからずり落ちることはなく、ゆったりと四肢を伸ばしていられる。
 聞いたところによるとクイーンサイズのベッドであるらしい。男二人で寝てもしっかりスペースが取れている。
 美丈夫など体格が良いので、きっと普通のダブルベッドでは狭く感じたことだろう。
 何気なく寝返りを打って、そこで寝起きの頭が凍り付いた。
(近っ!)
 顔が触れ合いそうなほどの近さで、美丈夫が寝ていた。もっと離れているものだと勝手に思っていた。
 眠る前はお互い両端にいるので、寝返りを打ったくらいでは接近しないと無意識に思い込んでしまっているのだ。
(いかん……人と寝るのに慣れん)
 がばりと起き上がり、綺麗に消えてしまった眠気を惜しんで溜息をついた。
 自分が動けばマットレスを通して振動が美丈夫に伝わってしまう。寝入る時にそれは邪魔になるだろう。そもそも寝相は悪くないと思うのだが、眠っている時の動きなど把握してはいない。もし美丈夫を蹴ったりしたら怒られるのではないか。
 そんなことを思って初日はとてもではないが寝付けないと思っていたのだ。
 だが美丈夫はベッドに入っておやすみなさいを言って三分で寝息を立て始めた。小声で呼びかけても答えないのだから寝付いたことは確認が取れた。
 寝付きは良いと本人が言っていたのだが、良すぎて驚いたくらいだ。そして眠りは深く、俺が寝返りを打つだの、起き上がるだのということには全く目覚めない。
 時計が鳴るまで熟睡だ。
(それは有り難いんじゃが)
 寝起きに美丈夫の顔面が間近にあるというのが、本当に心臓に悪い。美丈夫が女性だったら俺は心臓麻痺で死んでいるんじゃないだろうか。
 というかもしかするとすでに性別の問題ではないのかも知れない。容姿が優れていれば性別関係無く衝撃を受けるものだ。
「……起きてしまったな」
 枕元の時計は起床予定より一時間早い時間を指しているのだが、眠気が吹っ飛んでしまって横になる気が失せた。
 諦めて寝室を出ると、リビングからカシャンと物音がして思わず「ぅえ!?」と声を上げてしまった。
「あ、おはようございます」
 リビングと対面式になっているキッチンには、女性が一人立っていた。髪を高く一つに結い上げてピンク色のエプロンをしている。手には菜箸とボウルがあり、何かを掻き混ぜているのは明らかだ。
「すみません、まだご飯は出来ていません。今日は早いご出勤ですか?」
「いえ……目が覚めてしまって……」
(そうか、お手伝いさんか……)
 美丈夫の家に越してきて一週間。未だに他人が家を管理している感覚に慣れていなかった。朝目覚めると食事が用意されており、弁当まで置かれている。仕事から帰ってくると掃除洗濯が終わっており、晩御飯もすでに作り終えられているのだ。
 風呂掃除まで終了していて、まるでホテルで暮らしているみたいだった。
 実家で家事の半分以上を担っていた身からすると、とても落ち着かない。自分の家ではない、客のまま暮らしている気分だった。
 お礼を言って洗面所に向かう。顔を洗いながら、一人暮らしを始めた妹のことを思い出していた。
(志摩はちゃんと飯を食っとるじゃろうか)
 美丈夫にこの部屋を紹介されてから、俺の休みは全て美丈夫との予定に当てられた。一刻も早い引っ越しを求められているような気がして、怖ろしさのようなものを感じたのだが。妹を一人残して実家を出るわけにはいかない、と言って志摩が一人暮らし出来る部屋を探すことを優先した。
 美丈夫の仕事は早かった。
 大学から徒歩圏内、女性専用アパート、ワンルームで家賃が三万で納まる。その条件を見事に満たした物件を出して来たのだ。
 親戚には不動産を扱っている人もいますから。とは言っており人脈の使い方を知っているのだろうと思った。
 志摩には美丈夫の助けで見付けたとは言っていない。職場の人が親戚に不動産関係者がいるので、と言っている。美丈夫が調べてくれたと言えばあの子はまた盛大にごねそうだったからだ。
 日当たりの良いワンルームのマンションを志摩は気に入ったようで、引っ越しはスムーズに行われた。大学から近くなったと喜んだくらいだ。
 あまりにもすんなりと進んだおかげで、俺が美丈夫と同居する日もあっという間に訪れてしまった。
 美丈夫がうちに嫁に来てくれと紋付き袴で訪れてから約二ヶ月で、俺は美丈夫と共に暮らしていた。
(実感なんぞないがな)
 明日にでも嘘でしたと言って解放されるのではないかと思っている。
 顔を洗い歯を磨いてからキッチンに戻るとコーヒーが用意されていた。手際が良くて申し訳なくなる。
 こんなに丁重に扱って貰えるような人間ではないのに。
「何か手伝いましょうか?」
「大丈夫ですよ」
 申し出はやんわりと断られ、それどころか「すぐに作りますので、コーヒーを飲みながら少しお待ち下さい」とまるで店に来ているかのように言われた。
 益々お客様の扱いである。
「朝早くから大変じゃないですか?」
 手伝ったところで邪魔になるだけだろうかと、対面キッチンの椅子に座るけれど。やはり人が動いているのに一人座っているというのは居心地が悪い。
 所在なくコーヒーを片手にそう尋ねると、お手伝いさんは朗らかに笑った。
「いえ、毎日のことですから」
「毎日朝早く、ここに朝御飯を作りに来てるんですか?」
 もっと複数の人が交代でやって来ているものだと思っていた。毎朝この時間に出勤して仕事をするのは辛くないのだろうか。
「そうですね。今は私がメインです。お休みの日は別の人が作りに来ますし、シフトで回しているので、日によって違うと思います」
 シフト制であるらしい。そのことに少しほっとした。
 休みも無しに他人の家の食事を作り続けるのは、いくら仕事でも苦痛だろうと思ったからだ。
「お住まいは近所ですか?」
 こんな朝早くから離れた場所に働きに来るのは面倒ではないだろうか。
 近所でなければ憂鬱になるだろうと思ったのだが、意外な答えが返ってきた。
「住み込みで働かせて頂いてます」
「ああ……住み込み」
 雇いのお手伝いさんというより、もはや旧家のガチなタイプのお手伝いさんだったらしい。
(すごいな蔭杜、お手伝いさんが住み込みで存在しておるのか)
 俺の感覚ではもはや計ることも出来ないような暮らしである。これが当たり前になっている美丈夫と、とてもではないが生活の価値観は合わないだろう。
「こんなにも近くで働くことが出来て、いつでも子どもに会えますし。ちゃんとお休みもあるし。保育園も紹介して貰えますし福利も付いてて、とてもありがたい仕事なんです。朝早いくらい何でもないです」
 やはり蔭杜の福利厚生はしっかりしているらしい。お手伝いまで厚い待遇をするようだった。
(俺もその待遇で仕事している人、ということにはならんのじゃろうか)
 嫁という仕事。うん、馬鹿馬鹿しい想像である。
「旦那さんも蔭杜で働いてるんですか?」
「私はシングルマザーなんです。旦那がいないので、子どもの近くで働ける仕事が欲しくてここに来ました」
 痛いところを突いてしまった。一人で気まずくなる俺に、お手伝いさんは何でもないように話している。きっとこの手の話題はこれまでも繰り返してきたのだろう。
「お子さんは、まだ小さいんですか?」
「四歳と小学校二年生です。上の子が下の子を見てくれてて、最近は楽させて貰ってます」
 そう話している間にもお手伝いさんは仕度の大半を終わらせている。テーブルにはとうとうオムレツが乗せられて、そろそろ完成するだろう。
「上総さんは、何がお好きですか?お嫌いなものはお伺いしましたが、お好きなものは特にないと」
 食事に関してアレルギーだの嫌いな物などをすでに尋ねられている。好きな物も聞かれたのだが、その辺りは気を使って貰う必要もないのに、特にないと曖昧に答えていた。
 好きだと言ったからって、そればかり出されても。という心配もあった。
「そうですね。好きと言われても……色々ありますし」
 あれこれ思い浮かぶけれど、わざわざ用意して貰うほどのものでもないな、と思っているとガチャと大きな音を立ててドアが開いた。
 振り返ると美丈夫がドアの前に立っている。目覚める時間はまだ先なのに起きてしまったらしい。
 しかも眉を寄せて目を眇め、非常に不服そうな表情をしている。
 寝起きはスイッチが入ったようにすっきり目覚めている姿しか見ていないので、そんなにも不機嫌そうな様は初めて見た。
「おはようございます」
 お手伝いさんがそう言って、ようやく俺もはっと我に返る。同じく頭を下げると美丈夫はこれまでにないほど低い声で挨拶を返してきた。
 怒りのオーラすら背後に滲んでいるのだが。
「まだ、起きる時間じゃないと思いますが。もしかしてうるさかったですか?」
「いえ……」
 舌打ちでもしそうな形相でそう否定されても、全く信憑性がない。だが美丈夫は洗面所に足音を立てて向かって行った。二度寝するという選択はないらしい。
「機嫌悪いな……。もしかして目覚ましより早く起きるとあんな感じですか?」
 俺が来てからはいつも美丈夫は時計通りに起きている。だがイレギュラーな目覚めでは、あんな風に不満そうな顔をしているのだろうか。美丈夫も人の子、寝起きが悪いと言う面があってもおかしくない。
「いえ、そんなことはないと思います。誉さんが目覚ましより早く起きることは滅多にないので、はっきりとは分かりませんが」
 戸惑っているお手伝いさんに、そうだろうなと思う。
(本人は雷が鳴り響いても起きない。布団剥がされても平気だと言うておったからな……)
 今日はたまたま目が覚めてしまって、気分は最低ということだろうか。
 美丈夫が軽く身支度を調えて戻ってくる頃には、テーブルの上はまるで見本のような朝食が出来て上がっていた。
「誉さんが戻ってこられたらトーストをお出ししますね」
 それで完成なのだろう。
 ほかほかのオムレツを前に出来たての美味しさを想像しては幸運だと思う
 毎朝俺たちが目覚める前にお手伝いさんが御飯を作ってくれている。なので俺たちがいざ食べる段階では大抵のものは温度を下げてしまっていた。
 そのため電子レンジで温めるところから開始するのが大抵だ。
(その電子レンジも水蒸気であっためるタイプのデカイオーブンレンジじゃからな。うちのレンジなんぞ特化で五千円の十年物じゃぞ)
 冷凍を生解凍すると真ん中は凍り付いたまま、周囲は熱を入れすぎて蒸しすぎるという有様だった。しかもまだ現役である。
「後は自分で出来ますので、どうぞお帰り下さい」
 美丈夫は機嫌が悪いまま、お手伝いさんの提案をばっさりと切り捨てた。冷淡さすらある言い方に俺だけでなくお手伝いさんまでびっくりしたようだった。
 しかし雇い主の一人でもあるだろう美丈夫の命令に逆らえるわけもなく、お手伝いさんは失礼しますと頭を下げて出て行った。見るとキッチンの洗い物は終わっており、手際の良さはさすがだった。
 美丈夫は俺の隣に腰を下ろすと重い溜息をついては、手を組んで俯いた。
 両肩に鉛でも乗せているかのようだった。


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