美丈夫の嫁 1





 長い廊下だ。
 艶やかに磨かれた、長い廊下。何度か曲がったというのに、未だに目的地には着かない。
 右手には庭が広がっており、木々が植わっている。葉を落としきったどっしりとした木々はおそらく桜や梅だ。もう少しすれば花を付けて見事な光景になることだろう。
 その近くにも低木が並んでいる。手入れをされている庭園、そう和風庭園である。
(武家屋敷か)
 見上げて感嘆の声を漏らすほど立派な門構えを通り、屋敷のごとき重厚な家の中を歩く。完全に場違いだった。
 一応スーツに身を包み、公の場に出ても問題ないような身なりにはなっているけれど。精神的な疎外感は抱えきれないほどだ。
 まして自分がここにいる理由も分からないのだ。心穏やかにしていろという方が土台無理だろう。
(面倒事はごめんじゃ)
 この家の持ち主である本家の人間に呼ばれたらしいが。何故呼ばれたのか、今日はどんな日であるのか。一切分かっていないのだ。
(傍系も傍系。そもそもここと血が繋がっている父親自体もうおらんのに。ほぼ無関係の他人と同じじゃろ)
 資産家で土地持ち。おまけに長々と続いてきた一族の当主がここに住んでいる。その一族から別れ、もはや血液の中にどれほどの合致があるのかも疑問に思うほど、遠い親戚が俺だ。
 それなりに本家との繋がりがあったらしい父は、俺が幼い頃に亡くなった。完全に本家とは無関係の余所から来た母は、本家との繋がりを必死に保とうとしたらしいが上手くいかず。疎遠過ぎてもはやこの一族から親戚とすら見られていないのだろうと思っていた矢先だ。
 突然一族の集まりに呼ばれた。
 何かしらの意図が含まれていないわけがない。
 俺はかなり警戒した。だが本家と再び繋がりが欲しい、本家の名前が羨ましいらしい母はそれに釣られていた。
 何かあるに違いないと思いながらも首を突っ込まずにいられないのだ。魅力的に思えるものが近くにあれば、手に入れずにはいられない。そんな厄介な性格だった。
 どうせろくなことにはならないのだと、憂鬱な俺の一歩前を行く母は気合い万全だ。一張羅とも言える、生前の父に高い金で買わせたらしい着物を纏い胸を張って歩いている。
 子どもを産み、それなりの年齢を重ねた割にその見た目は若く綺麗なものだろう。けれど貪欲さが表に出ている。
 ここではそんな欲張った顔をしていれば足下をすくわれるか馬鹿にされるのではないかと思うのだが、本家に呼ばれたということで頭がいっぱいになっている母には通じないだろう。
(これなら俺も、家におりたかったわい)
 家族全員で来るように、と言われていたのだが。大学生の妹はインフルエンザにかかって家で寝込んでいる。昨日から高熱を出しており、今朝もかなり病状は辛そうだった。そんな妹を一人置いて家を出るのは気が重く、母にも一人で行くように言ったのだが許されなかった。
 妹だけでなく俺まで行かないなんて、失礼に当たる。そう母は主張するのだ。
 癇癪を起こされるのもうんざりする。妹もそれは同意であったらしく、自分は大丈夫だから行ってくれと願われた。その姿が哀れで、どうしても気持ちは家に向かってしまう。
(早く、なんとかして帰れんもんか)
 しかし母は導かれるままに意気揚々と進んでいる。お手伝いさんと自己紹介された人の背中しか見ていないようだ。
 お手伝いさん。そう、このご時世に本家はお手伝いさんを雇っているのだ。しかも複数。
 俺が確認しただけでも、玄関に五人はいた。きっと中にも存在しているだろう。
 このだだっ広い家を管理するのは家族だけでは無理だろうが。それにしても何人お手伝いさんを雇っているのか。そしてその金は一ヶ月幾らになるのだろうか。
 下世話な興味だが、そんなことでも考えていなければこのまま逃走を図ってしまいそうなのだ。
 お手伝いさんと言っても服装は至って地味。白のブラウスとタイトスカートという、事務員のような姿である。これでメイド服だの、割烹着だのを着ていても戸惑うけれど。会社員のような姿というのも違和感がある。
(会社に雇われている、という形式なんじゃろうか)
 本家は幾つか会社を経営しているらしいが、その内の一つはハウスキーパーでもあるのだろうか。
 そんな事を思いながら鉛を付けられているような足で歩いていると、右側から床が軋むような音がした。
 見ると階段の上から誰かが降りてくるところだった。だが二階の光は淡く、まして降りてくる人の背中から流れ込んで来ているのでとっさにその人がどんな姿なのか分からなかった。
 黒い着物。
 それだけは分かり、つい興味が引かれたのだ。体格からして男だろうが、着物姿というのは珍しい。
(……袴?)
 しかもそれは武道で見ている物とは一線を画している。
 紋が確りと入り、背筋を伸ばして身に纏う特別な着物だ。全体的に黒く、白はその紋と花結びにされている羽織の房くらいだ。
 上背がなければ紋付き袴などという威圧すらある着物を纏うと貧相になるものだが。男は元ががっしりとした身体付きなのだろう。
 紋付き袴という改まったその衣装に負けることなく、むしろそれを自分に相応しいとばかりに着こなしている。
(誰…じゃ)
 目を懲らすと男は若く見えた。一段下りるごとにはっきりと見えてくる顔立ちはとても端正でこの屋敷の雰囲気と相まって、まるで武士のようだった。
 最近の若者によく見られる、優しそうで細身の顔立ちや雰囲気は全く無い。堅く、実直そうな男だ。けれど険しさよりも、どこか穏やかな様が滲んでいる。
「とんだ、美丈夫じゃな」
 昭和のモノクロ写真が動いているようだ。
 ぴんと張り詰めた緊張感の中、日々切磋琢磨して生きている。そんな厳しい世界の人間を思い起こさせた。この時代ではあまりお見かけしないだろう人種である。
 あまりにも現実離れしているので、ついぽかんとしてそう呟いてしまった。
 間抜けな声が聞こえたのか。階段を下りて来ていた男がふとこちらに気が付いたようだった。
 一瞬で視線が絡まり、するりと細い糸が何本も混ざり合って結ばれたような錯覚がある。けれどすぐに弾かれた。
 静電気が走って、痛みを感じたかのようだ。
 それはきっと驚きだったのだろう。
 目が合って驚いた。そんな単純な思いとは別のものがあった気がするけれど、俺はとっさに目を逸らしては頭を下げた。人をじろじろと眺めるなんて失礼だろう。
 非礼を咎められること、そして男相手に随分目を奪われていたことが恥ずかしくて、逃げるように小走りで廊下を進む。
 俺が立ち止まっていることに気が付いたらしい母とお手伝いさんは離れた先で、怪訝そうに俺を振り返っていた。
「さっちゃん何してるの?」
 二十代後半を捕まえてちゃん付けは止めて貰いたいのだが。母はそれを一向に聞き入れない。まして人様の家でそれを注意するのも気まずくて「ちょっと」と誤魔化した。
 お手伝いさんが再び歩き始めると、母の斜め後ろに近付いて溜息を付く。
「紋付き袴の男がおって。物珍しいもんじゃからつい、見とった」
「袴?ああ、本家のご長男さんね。成人式だから」
 成人式と言われて、頭の中でカレンダーをめくった。そういえば今日は一月の祭日だった。あまりカレンダー通りに休める仕事ではないので、曜日だの祝日だのには鈍い。
「成人式か。俺はまたどこぞに嫁取りにでも行くのかと思ったわい」
 あれほど立派な、凛々しい姿で着こなされたら成人するというより、嫁を貰いに行くのだと言われた方が納得する。
 おおよそ世間の成人式で見られる袴姿とは異なるのだ。あんなチャラチャラした雰囲気は欠片もない。あるのは決戦に向かうような緊張感だった。
「お嫁さんを取るにはまだ少し早いんじゃない?でも成人ってことは、うちのまーちゃんと近いわねぇ」
「母さん……」
 それ以上は言うてくれるな、と心の中で願う。
 本家に憧れのある母は、きっと妹が本家の長男と結婚してくれればと思ったのだろう。そうすれば自分は安泰な暮らしが出来る。
 だがこれほど資産家の長男なんて、平々凡々とした家柄の娘と結婚することはないのだ。やはり似たような家柄の人と結婚をし、そこで互いの家を結びつけて更なる発展を目指すものだろう。
 そうして人間は金と権力を欲しがったものだ。
 シンデレラストーリーなんて物語の中にしかない。夢見ても破れるのが分かりきっているのだから、落胆する労力が無駄ではないか。
「まーちゃん残念だったわね。今度また何かあったら絶対に連れて来るわ」
「止めぃ。本家のご長男がうちなんぞ目に入れるものか。寄って来る女も山ほどおるじゃろ」
 その中に自分の妹が入れられるのというのは、あまり気分の良いものではない。
 まして妹は男に自ら寄っていくようなタイプではない。むしろ逆だろう。
 母親が焚き付ければ焚き付けるだけ、頑なに嫌がるだけだ。
「ましてあれほどの美丈夫じゃぞ」
 女が見ればころりと転がるような顔立ちではないか。誠実そうな雰囲気もあり、結婚するなら間違いない、という保証を無言で晒しだしているような男だ。
 そんなことを小声で母親と会話をしていると、お手伝いさんがくすりと笑ったようだった。
「美丈夫というのは珍しいお言葉ですね。でも誉さんにはぴったりです」
 母親との阿呆な会話を拾われたということより、ほまれ、というのがあの美丈夫の名前であることに気を取られた。
(……名前負けをせなんだか)
 誉なんて、煌びやかな名前が付けば大抵の人間は中身が負けるものだが。あの男に限ってはぴったりなのだろう。
 由緒正しきお家柄、裕福な環境。容姿にも生まれにも、名前にまで恵まれている人間。
(俺とは無縁じゃな)
 こんな人と僅かとは言え血が繋がっているなんて思えない。きっと自分の血は全く別のものに染まって、ここでは途切れてしまっているのだろう。
 そう思うと一層場違いという感覚が強くなっては、息が詰まった。


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