九




 
 記憶の中にいる学生服を着た菅野は、弱い部分を見せることを嫌がっていた。
 辛い、悲しい、寂しい。そんなことを表面に現すことを拒み、じっと我慢しては強張った堅い表情をしていた。
 目の前にいる男とは違う。
 それは菅野が変わってしまったということだろうか。
 それとも頑なだった感情がやっと溶け出したということだろうか。
 皓弥には分からなかった。
 ただ、その寂しげな色は容赦なく皓弥が塞ごうとしていた傷をえぐっていく。
 菅野に付けられたのは、何も首筋の噛み傷だけではない。
「ごめん、呼び出して」
(またおまえは謝るのか)
 どれほどの苦みを味わえば、言わなくなるのだろうか。
「片付いたか」
 血に染まった菅野は頷いた。
 皓弥は間にある五歩ほどの距離が、実際よりはるかに遠いものだと感じていた。
 違う生き物である、その事実が大きく隔たりを付けた。
「全員、確実に仕留めたようだな」
「ニュースになっただろ?明日には……最後の一人についてが報道される」
 そして凶器も犯人も闇の中へと葬られるのだ。
 人間が行ったことではないのだから。
「……楽にはなれた気がする」
「そうは見えないけどな」
 菅野の姿は楽になったというより、何もかもが抜け落ちて空っぽになってしまったようだった。
 復讐が残すものなど何一つない。
 空しさを重ねて、積み上げて、固めて、そしてその中に沈んでいく。
 菅野も結果はやる前から知っていたのだろう。
 空虚に苛立ちを見せることもない。
「全て捨ててしまったように見える」
「そうだな。もう何も残ってない」
 菅野は両方の掌を広げて、そこに何かが乗っているかのように眺めた。
「代わりに込み上げてくるものがあるんだ」
 菅野が深く息を吐いた。
 それは白く濁っては消えていく。
「人を喰らいたいって衝動」
 そうだろう。皓弥は内心頷いた。
 肌にまとわりつくような、飢餓感と殺意が伝わってくる。
 この身体を喰らいたいと菅野が切望しているのが、冬の冷たさを通して。
(おまえは鬼だから)
 それは仕方がない。
「人を殺すたびに、強くなっていく。今日はあんな奴を喰らおうとして…」
 菅野は開いた両手を組み合わせた。
 祈りを捧げる人のように。
「殺したいだけだったのに……首をはねて飛び散った血に口を付けようとした」
 だが口から零れるのは懺悔ではなく、ただの苦痛だ。
 菅野は後悔などしないから。
「おぞましいな、これが鬼って奴なんだな」
 そうだと肯定はしなかった。
 菅野がそのまま何処かに墜ちていくように見えたのだ。
 墜ちるところまで墜ちたはずなのに。
 それでもまだ、深くへと崩れる。
「怖くなったのか?」
「怖いよ。俺は人なんか喰いたくない。もうこれ以上殺すのも嫌だ。だから」
「だから」
「死のうとしたのに」
 こういった類のものを聞くのは、どうしてこんなにも圧迫感があるのだろう。
 自分に関係のない人間が言うのも重すぎて不快だというのに、こんなに近くにいる人間の口から告げられれば。
 こちらが潰されてしまいそうになる。
「駄目なんだ。刃物で手首切っても、首を切っても、心臓刺しても、すぐに塞がる」
 皓弥は菅野から聞かされることに、息を飲んだ。
 鬼はただの刃物では大した傷など付けられないとは母親に教えてられていたのだが、心臓を刺しても傷がすぐに治るなど信じられないことだった。
(人間とは違うって言っても、違い過ぎるだろ)
 これほどまでに特異な生き物を斬ってきたのかと思うとぞっとする。
「だから絵理と同じところから飛び降りたんだ。でも、たかがうちくらいの五階建てマンションじゃ話にならなかった」
「……平気なんだな」
「ああ。馬鹿馬鹿しいことに足からちゃんと着地してたよ。我に返って嗤った。なんて無様な身体なんだって」
 人間はそうやって死ぬことが出来るのに。
 鬼は死ぬことが出来ない。
 皓弥は初めて鬼としての立場に立って、その苦痛を思った。
 血が流れて痛みを覚えるのは自然だ。
 だがきっと菅野は止まってしまう血に、痛みを覚えていたのだろう。
 塞がっていく傷口に、激痛が走ったことだろう。
(だからおまえは馬鹿なんだ)
 どんなことがあったとしても、人のままでいたのなら。
 そんな痛みはなかったはずなのに。
 逃げ場所があったはずなのに。鬼なってしまえば眠りという手段すら残っていない。
「死ねない身体。満たされない飢え。だから俺を呼んだのか?この血なら、少しの量で満足させてくれるだろうって」
 菅野が願っていることはそれではない。
 そう知りながらも皓弥は見下げるように言った。
 願いが、それであったならまだいいのに。という僅かな期待を込めて。
「ちが……いや…そうだな」
 菅野は皓弥を見上げるととっさに「違う」と言いかけたのだろう。
 すがるような視線を向けてくる。
 だが唇は閉ざされ、代わりに歪んだ笑みが刻まれた。
 いびつな形に、皓弥は自分が想像していたことが間違いではなかったことを悟った。
「おまえの血なら、すぐに渇きがなくなる気がするんだ。あの味なら、あの甘さなら」
 菅野はふらりと立ち上がる。
 瞳に鈍い、だが妙にぎらついた光が宿っていくのが感じられた。
(鬼になるのか)
 この身体を喰らうために正気をなくして、襲いかかってくる生き物に。
 あの不器用だった男もなっていくのか。
「皓弥」
 黙って控えているだけだった那智が、皓弥の手に触れた。
 掌から応えてくれる刀。
 今にも名を呼び、柄を握ってその鬼を斬り捨てろ。そう刀は囁いてくる。
(ああ、分かってる)
 理解はしている。ただ感情の処理が追いついていないだけだ。
 ここにきて、まだ。
「……那智」
 それでも皓弥は名を呼んだ。
 柄が、那智の掌から生み出されてくる。
 安堵と切なさが沸き上がっては渦を巻く。
 斬りたくない。そう叫ぶ心がいた。きっと那智に頼めば一瞬で終わらせてくれるだろう。
 だがそれでは菅野は、皓弥にとって全く関係のない者になってしまう気がした。
 人として生きていた時間などまるでなかったように、皓弥と過ごした時間など存在しなかったように。
(俺もいい加減、わがままだな)
 鬼なのだから、そんなことを気にするほうがおかしいのかも知れない。
 苦笑を浮かべながら、柄を握り手前に引いた。
 冬の凍り付きそうな空気よりも冴えた、美しい刀身が鼓動を始める。
「日本刀……!?」
 菅野は那智から生まれ出た様に驚愕を露わにした。
「異常なのは何もおまえだけじゃない」
 皓弥は刀を構えると、菅野へと切っ先を向けた。
 硬直する鬼に溜息を押し殺す。
 こうなればもうどちらも引くわけにはいかない。
 気を緩めれば、その時に命が落ちる。
「鬼を殺す力がそれか」
「ああ」
 そうか。と菅野は少しだけ狂気を和らげた。
 揺らぐ気持ちを叱咤し、皓弥は一歩踏み出した。
 合図を送るように。
 菅野はそれを察知すると五本の指を鷲掴みするような形にし、ごきりと間接を鳴らした。
 それが人の身体を引き裂いたのだろう。
「出来るだけ一瞬にしてやる」
 皓弥の言葉に、菅野はぶるりと瞳孔を震わせ唇から鋭い牙を見せた。
 人を捨てた者へ変わっていく様子を冷めた理性が眺めては、見慣れた光景だと結論付ける。
 そのせいか菅野が地面を蹴り、たった一足で皓弥の前まで飛び跳ねても驚きもしなかった。
 にやりと笑う嫌な顔を間近に睨み、頭を掴もうと伸ばされた手は刀身が防いだ。
 菅野は刀を握りしめる。皮膚であるなら切れてしまうだろうに、その手には血が滲まない。
 皮一枚切れていないのだ。
 もう一方の手が襲いかかってくるのを感じ、皓弥は菅野の腹を押しのけるように蹴った。
 身体は退いてもダメージなど一切受けていないのだろう、体勢を立て直してはまた指の間接が鳴らされた。
 瞳に宿った鈍い光が、濃くなっていく。
(必要なのは一太刀だ。こいつが、狂気に飲まれる前に)
 終わらせてやらなければいけない。
 菅野は皓弥との距離を縮めては腕や頭を掴もうと両手を素早く伸ばしてくる。
 だがなかなか掴めないことに気が付くと、今度は拳を握り殴りかかってきた。
 その速さに、皓弥はぎりぎりかわすのが精一杯だった。
(柔道かなんかやってなかったか?こいつ)
 ということは襟を掴まれれば終わるかも知れない。
「っは…まず」
 攻防を続けている内に皓弥の息が上がった。
 これ以上長引けば、動きが鈍った時に喰われるのは明白だ。
 どうする!?と焦る思考によぎるのが、言葉だった。
 きっと聞くことを願っているだろう一言を、皓弥は手渡すように告げた。

「菅野、終わらせてやる」

 びくりと菅野が肩を震わせて止まった。
 見開かれた目と視線を合わせ、皓弥はその胸に雪のような光を反射させる刀を突き刺した。
「あ……」と短い声を上げ、菅野が膝を崩す。
 肉を断つような感触など柄には伝わってこず、いつものようにただ堅い物を貫いたかも知れないという曖昧さだ。
 ゆっくりと胸から刀を引き抜くと血がどくりと溢れた。
 その鮮烈さに目を背けようとして、だが皓弥はそのまま見つめていた。
「おまえの願いが、俺に斬られることだってのは分かってたよ。顔を見る前から、きっとこうなるだろうということは」
 会いたいというメールを受け取った時にはすでに察しが付いていた。
 鬼を殺す力がある。そう菅野に零したことを忘れていなかったから。
 また利用されるのかという苛立ちと腹立たしさがなかったといえば嘘だが、それよりも菅野を見届けなければいけないという意識のほうが強かった。
 自分と同じことを望み、それを果たした男の末路を。友達の最後を。
 菅野は貫かれた胸に手を当て、苦しげな息を吐きながら涙を浮かべた。
「ごめん……」
「謝るな。そんなことは聞きたくない」
 そんな言葉が聞きたいがために、ここにいるわけじゃない。そう皓弥は絞り出すような声で言った。
 痛い。心臓が鎖で縛られていくかのように。
「最後まで俺に甘えやがって。中学時代は俺のほうが甘えてたから、許してやってるようなもんだぞ」
 こんな状態で中学の頃なんて言い出してどうする。そう自分を責めても蘇ってくるのは幼い自分たちで、笑い声を上げては他愛のない口喧嘩をしていた。
 人付き合いの悪い皓弥に、丁度良い距離で近寄っては兄のように接してくれた。
「真咲は、結局優しいまんまだな」
「うっせーよ。馬鹿野郎」
 友達にこんなことさせやがって。身体を刀で斬って、命を奪わせて、それでもおまえはそうやって。
 優しい性格を滲ませて微笑む。
 皓弥は唇を噛んだ。泣いてなどやらない。
 こんな馬鹿のために、泣いてなどやらない。
「なんか言うことねぇのかよ」
 菅野の胸から流れる血はさらさらと灰になってゆくが、死ぬにはまだ時間がかかりそうだった。
 意識を失いたくなるほどの痛みを覚えているだろう菅野の首に、皓弥は刃を寄り添わせた。
「ありがとう」
 菅野は、ぽつりと呟いた。
 それはありったけの思いが込められていて、皓弥は視界が緩んでは喉をきつく握られたような苦しさを感じた。
 ごめんより、もっと聞きたくなかった。
 感謝など欲しくないのだ。罵られたほうがずっとましだ。
 だがきっと菅野は何よりこれを言いたかったのだろう。
「馬鹿野郎」
 震える声はもうそれ以上紡げず、皓弥は刀を一気に引いた。
 赤く濡れる。
 刀も服も肌も。
 頬を濡らすものが血なのか、涙なのか分からずに皓弥は天を仰いだ。
 キンと冷えた夜には星が散らばっていて、目尻から何かが落ちるとよく見えた。
 とても寒いはずなのに、震える指先が燃えるように感じた。
 どうしてこんなに綺麗なのだろう。
 何故こんなにも静かなのだろう。
 この空の下で、憎しみに身を焦がした者が命果てたというのに。
(どうして……)
 こんなことをしなければならなかったのだろう。
「皓弥」
 背後から、包まれるように抱き込まれた。
 那智の吐息を感じて、ほぅと力を抜く。
「夢だと思っていいよ」
 那智は皓弥の頬を撫でる。はらはらと灰のような粒子が払われた。
 服や刀についていたものも、同じように無音で落ちては溶け消えていく。
 何もなかったかのように。
「俺は全てを消してしまう。だからなかったことにしていいんだよ。これは夢で、菅野はまだ生きていて、皓弥は知らない鬼を斬っただけ」
 暗示をかけるように、柔らかな響きが耳から流れ込んでくる。
 それは心地よくて、身を委ねれば痛みなどもう味合わなくてすむと気が付いている。
 だが皓弥は首を振った。
「忘れるわけがない。あいつが何を思い、何をして、どうやって死んだのか。知っているのには俺だけなんだ。俺が殺したんだから」
 だから忘れない。
 口に出せば記憶は激痛として戻ってくる。
 しかしなかったことにするより、ずっとずっとそのほうが良かった。
「友達だから」
 嗚咽が喉を突き上げた。
 涙を止める術を知らず拳を握ると、那智の片手が皓弥の両目を覆う。  止めなくていいんだよ。そう囁かれ皓弥は覆われた手に触れた。
 あたたかい。これからもずっとこの手はあたたかく、優しいだろう。
(失いたくない。大切にしたい)
 この存在を。



 


TOP