十




 
 神経の高ぶりが収まらないのか、まぶたの裏に鮮血が焼き付いて離れないせいか。
 眠気は一向に訪れなかった。
 午前二時を過ぎた部屋の中には、音楽も流れていない。
 夜中なので音楽を流すことも出来ない。隣の部屋で寝ているだろう那智の迷惑になるだろう。
 なので静まりかえった部屋の中でベッドサイドに背を預け、何度も読んだ本に目を通していた。
 内容は頭の中をぼんやりと駆けていく。何も考えたくない時に、読書は便利だ。
 ページをめくる指先が寒さで強張っている。
 逃避している皓弥の意識を、コツンとドアを叩く音が現実へと引き戻した。
「どうした」
 声をかけると那智が何かを持って入ってきた。
 よく見ると白いそれは、枕のようだった。
 二十三にもなった長身の男が枕を抱えて人の部屋にやってくるとは、異様な光景だ。
「一緒に寝ようかと思って」
 満面の笑みとともに告げられたことに、皓弥は露骨に顔をしかめた。
「何言ってんだ、この馬鹿」
「だって皓弥、最近ちゃんと寝てないでしょ。夜中まで起きてるし」
 どうして知っているのだろう。
 那智の部屋はいくら隣だと言っても、騒音など立てているわけでもなく、物音がすることもまれだというのに。
 壁越しに気配でも感じているというのだろうか。そうなれば獣の領域だ。
「なんとなく起きてる気がしてたんだよねぇ。朝になったら寝不足ですって顔をしてるし」
 皓弥は朝が非常に弱い。不機嫌なのも、寝不足のように見えるのもいつもだというのに。
 どんな違いがあるというのか。
「今も起きてる。一人で寝るの寂しいのかと思って」
「俺をいくつだと思ってんだよ」
「年は関係ないよ。それに刀が側にいたら安心じゃない?」
 皓弥は不服ながらも、反論はしなかった。
 確かに那智が傍らにいるとほっとするのだ。
 自分では素晴らしい切れ味の刀を帯刀しているからだ、と思っていた。
 けして守られているという安堵ではないと。
「……だからって男と添い寝かよ」
「まぁまぁ」
 いいじゃないか。と毛布の裾をたくし上げる那智の手を、皓弥はぱしっとはたいた。
 そしてじっと疑惑の目を向ける。
「……裏があるんじゃないだろうな」
「裏?」
「一緒に寝るって」
「あー、襲わないって。うん。大丈夫。寝込みを襲うなんて卑怯なまねはしないって」
 それでも疑いを払拭出来ない皓弥に、那智は苦笑してみせる。
「皓弥の意志をちゃんと尊重するよ。こういうことは、初めが肝心だし。なあなあで流しても後々わだかまりになるだけだろ?」
 那智は柔らかそうな枕を、皓弥の枕の隣にぽすんと置いた。
 そして再び毛布を掴むが、今度は制止が入れなかった。
 渋々と言った様子で溜息を付き、皓弥は本のページをめくった。
「あ、煙草吸うんだ」
 皓弥の隣に潜り込んだ那智は、ベッドサイドのスペースに置かれた灰皿に目を留めた。
 マルボロのケースと、数本の潰れた吸い殻。
 だが部屋の空気に煙りは混じっていなかった。
「あー……それ数日前のだ。片づけんの忘れてた」
 かなり身近にあるのだが、さっさと捨てようと思いながらも「まぁ、後で」と思い続けた結果残っている。
 こういうずさんさがあるため、皓弥は一人暮らしをしていた家をまるで空き巣が入った後のような惨状にしていたのだろう。
「皓弥が吸うってのはちょっと意外だな。煙草なんか無駄だって言いそうなのに」
「まぁな。時々無駄なものだけを入れたくなるんだよ」
 菅野が現れ、那智と距離を置いた時には一日一箱を消化していた。
 だが那智と元のように、というか元よりも少し近くなった後には本数がかなり減った。
 心の中に埋め尽くしていた存在を煙で誤魔化していたことが、あからさまな結果だ。
「でも、もう当分吸わないけどな」
 必要がなくなったから。
 どうして煙草を吸っていたのか、何の代わりだったか、那智が知るはずもないというのに何故かくすりと笑ったようだった。
 そうだろうね。と言うように。
「さてと、皓弥と添い寝なんて夢のようだねぇ」
 にこにこと那智は皓弥の隣に滑り込み、横になった。
 一気にベッドの半分を占領され、むっとしながらも皓弥は身体をずらしてやる。
 セミダブルではそれでも窮屈さは薄い。邪魔だから退け、と那智を無意識のうちに蹴り落とす心配もなさそうだ。
 そう思い、皓弥ははたと気が付いた。
「……このベッド買ったのおまえだよな?」
「ん?そうだね」
 皓弥がこのマンションに引っ越してきた時にはすでにベッドが用意されていたのだ。
 新しいベッドが欲しかったので、ついでに皓弥の分も買って置いたと、那智は何気なく言っていたのだが。
「まさか、最初から一緒に寝る目的があってセミダブルにしたんじゃないだろうな?」
 おかしいとは思っていたのだ。
 シングルよりセミダブルのほうが悠々と眠れる。それは分かるのだが人の分までセミダブルにする必要がどこにあるのかと。
 まして皓弥は細身で、長身の部類にも入らない。
 シングルで十分だ。
「ダブルだと怪しまれるかと思って」
「計画的だなおまえ!!」
「やっぱり浪漫だから」
「おまえはもちきん以外に浪漫を口にするな!いかがわしい!」
「いかがわしいって」
 そんな単語最近の若い子は言わない気がするけど。と言いながらも那智は楽しげだった。
 よほどこの状況が嬉しいのだろう。
 素直に感情を出している那智に怒りを継続出来ず、皓弥は諦めの境地に立ったようだった。
 本に並べられた字面を追い始める。
「……もう寝る?」
 集中し始める前に、皓弥は問い掛けた。
 電気を付けたままでは那智が眠れないのではないかと思ったのだ。
 寝るというなら読書を止めてもいい。
「気にしないでいいよ。明るくても十分寝れるし。音楽ガンガン流しても、寝ようと思ったらどんなとこでも寝るから」
「便利だな」
「だから気を使わなくていいから。あ、でも寝相が悪いのは勘弁かも。蹴られるとさすがに起きるし」
「それは大丈夫だ。死んだように寝るらしい。修学旅行で他の奴らに言われた。怖いくらいだって」
「ぽいなぁ」
「おまえは?蹴るようだったら一緒に寝てやらんぞ」
「ご心配なく、もし万が一皓弥を蹴るようなことがあれば両手両足を縛ってくれてもいいから」
「縛っても一緒に寝たいのか」
「もちろん!」
「馬鹿だな」
 こんな男と一緒に寝て何が嬉しいのかさっぱり分からない。
 皓弥はそう呆れる。
 一人で寝たほうがゆったりとしていて、寝心地の良いだろうに。
 そう、大の男を横に置いて寝てもいいと言ってる自分のことを棚に置いて考えていた。
「いびきも駄目だからな。いくらなんでも口を塞いでは寝れないだろ」
「まぁ、かいてないと思うけど。かいてたら起こして文句言ってくれ」
「殴ってやる」
「……本気では止めて下さい」
 軽くならばいいということだろう。
 皓弥は本当に那智がいびきをかいたら殴ろうと決めた。
 それから三十分ほど、皓弥は読書、那智はただごろごろとしていた。
 寝ればいいだろうにと思いながらも皓弥はそのまま放って置いた。
 だがしばらくすると集中力が途切れ、文章がただの文字の集合体になってくる。
 時計は三時前を指している。
 いい加減寝なければ、明日は午後の起床になりそうだ。
 枕元に本を無造作に置き、皓弥は髪をくくっていたゴムを外した。
 寝るときにまで縛っていると痛い。
「伸びたなぁ」
 那智が肩に下ろされた髪を一房摘んだ。
「ああ」
 母が殺されてからそれだけの日数が流れていったということだろう。
 短かった頃の自分の姿を、おぼろげにしか思い出せない。
 復讐というものが遠く、鬼になど関わらないと決めていた。出来るだけ平凡に、波立たない生き方をしたいと願っていた。
 そんなものは呆気なく崩れたが。
(菅野もそうだっただろうな)
 妹があんな目に遭うまでは、鬼になりたいなど思っていなかった。
 人を殺させるだけの力が欲しいなんて思わなかっただろう。
(俺も変わりないのにな)
 いっそ鬼になりたいと願えば、母を殺した鬼をすぐに見つけられただろうか。
 命を奪ってやれただろうか。
 そう思い、皓弥は自嘲する。
 鬼を殺すために、自ら鬼に墜ちることなど馬鹿げている。
 それでは自分も憎しみの対象になってしまう。
(人は簡単に墜ちるんだな)
 日々鬼に狙われ、脅かされている皓弥でさえ、冗談とはいえ鬼になりたいかも知れないと思うのだ。
 他の人間なら、もっと楽に墜ちていくだろう。
(誰もかれもが鬼になるか)
 今回のように友達が、知り合いが、皓弥に襲いかかってくることも有り得る。
 きっと、真っ先に喰いたいと思うだろう。
(どうするかな)
 斬り捨てるだろう。だが幾つもの記憶に馴染んだ者を斬り捨てればきっとぼろぼろになってしまう。
 崩れ落ちる。
「……那智は」
「ん?」
 皓弥は最も恐れることを考え、隣で横になっている男を見た。
「鬼になれるのか?刀、だろう?」
 鬼を喰らう刀が、補食する相手に属性を変えられるのかどうかは疑問だった。
 すると那智は穏やかな瞳で、微かに微笑む。
 それは皓弥から不安を払拭させていく。
「なれないよ。だから安心して側に置いておいて」
 那智はゆったりと上半身を起こし、皓弥を抱き締めた。
 体温が伝わってくる。
 それは消えていく菅野の前で感じたものと同じぬくもりだ。
 そのままこの鬼と一緒に消えたいとさえ思った皓弥を、包んでくれた温度。
「誰が鬼になっても、俺だけはずっと皓弥の味方だから。皓弥のものだから」
 人が怖かった。いつ鬼になるか分からないから。
 人間は憎しみが過ぎれば変わってしまうから。
 だから距離を置いてきた。依存しないように、ある日突然殺されかけてもちゃんと応戦出来るように。
 けど実際はそんなに上手くいかなくて、親しくしてくれる人を遠ざけなければいけないことが心苦しくて辛かった。
 母がいなくなってから孤独はもっと酷くなり、思っていることを全てぶちまけてそれでも寄り添ってくれる存在が欲しかった。
 信じさせて欲しかった。
 甘えだと分かっていたけれど。
「おまえは、やっぱり俺を甘やかす」
「そ?でも皓弥だって俺を甘やかしてる自信あるでしょ?」
「そこそこな」
 こうして男に抱き締められているというのに、拒絶も何もしない。
 いちいち世話を焼いてくることを、時々鬱陶しいと思うが止めさせない。
 それを那智は「甘やかしてもらっている」と思っていることは薄々感じていた。
 本当は、違うのだけれど。
「……眠い」
 とろとろと心地よい眠気がようやく訪れる。
 安心したのかも知れない。
「おやすみ」
 那智は抱き締めていた腕を緩めると、皓弥の額に口付けた。
 ふわりとした感触に、目を閉じた。
 まぶたの裏にはもう何も映らず、あたたかさに意識を委ねる。
 まどろみの中で消えていった声が蘇った気がして目の奥から雫が滲んだが、それは柔らかなものに拭われた。
「大丈夫」そう囁く唇に。
 その時、生まれて初めて人の唇が心地良いものなのだと知った。
 締め付けられるような切なさとともに。



 


TOP