八




 
「っの、ボケ……!」
 中に出されたものを、那智はゆっくり飲み干しているようで喉が鳴らされる。
 呆れと気まずさに頭をはたくとぺろっと舌が出された。
 何事かと思い眉を寄せると、熱をなくしたそれを舐めた。
「止めろこの馬鹿が!」
「綺麗にしなきゃ、と思って」
「いらん!」
 息も整っていない、まだ過敏な身体だ。
 触れられるだけでも震えるというのに、舐めるなど許せるはずもない。
「いいから離れろ!」
 那智の視線は未だそこに注がれていて、ただでさえ赤くなった頬からさらに染まってしまう。
 両足は手に固定され、閉じようとするが気怠さがまとわりついて力が出ない。
「皓弥」
 ようやく顔を上げ、膝立ちを止めたかと思うと那智はにっこりと微笑んだ。
 一見朗らかな笑顔だが、皓弥は嫌な予感に腰が引けた。
 何を言うつもりだこの男は!と警戒心を剥き出しにする。
「ベッドに行こう。それともこのままでいい?」
「は……?」
 この状態でベッドなどという単語が出されるということは、つまり事になだれ込むつもりだろう。
(こいつ!!)
 喧嘩が終わったと思えば即座にいけるところまで突っ走るつもりだ。
 しかも今なら皓弥も弱みを見せてくれている。というところまで計算しているだろう。
 押せばいける!と思っていることがありありと顔に書かれていた。
「阿呆!!行けるか!」
「じゃあここで」
「もっと嫌だ!やめろ那智!脱がすな!」
 じたばたと暴れる皓弥を、那智は体躯の差で軽く封じる。
 上機嫌で頬や目尻などに唇を落としながら、ジーンズの後ろから手を入れて脱がし始めた。
「どこ撫でてんだよ!おまえは痴漢か!!」
 犯罪者か!と精一杯怒鳴っていると、突然小刻みの振動と共に低い機械音がした。
 ジーンズの後ろポケットからだ。
 二人ともぴたりと動きを止め、そろりそろりと視線を合わせる。
 驚いている皓弥と、忌々しいという那智。
 その違いに片方は呆れ果てる。
「……電話」
 一気に熱は冷め、皓弥は脱力しながらジーンズを探る。
 脱がされている途中なので、どこに携帯があるのか分からずに戸惑っていると那智がすいと引き抜いてくれた。
 そして舌打ちと共に手渡す。
 よほど気にくわないようだ。
 だが皓弥にとっては救いそのもので、ほっとしながら通話ボタンを押した。
『もしもーし』
 のんびりとした声は三村だ。
 皓弥がサボった講義が早めに終わったのだろう。
「どうかしたのか?」
 ものすごく恥ずかしい姿をしているのだが、声は普段とあまり変わりがないことにほっとする。
 これで妙にかすれでもしたら、泣き出すところだ。
『んー……実は菅野から電話があって』
 皓弥は表情に険しさを滲ませる。
 今最も聞きたくない名前だ。
 首の傷がまた疼き始めた気がした。
 快楽に浮かれされた精神が冷たい場所へと沈んでいく。
『皓弥の番号教えてくれって言われた』
「それで、教えたのか?」
 自然と声が暗くなってしまう。憂鬱さを隠す気力もない。
 思い出すだけで息が塞がれる気分なのだ。菅野のことは。
『メルアドだけ伝えておいた』
 三村のその判断に、皓弥は内心さすがだな。と感心した。
 人から接触されるのをあまり好まない皓弥の性質を知っているからこそ、電話番号ではなくいつでもすぐに変えられるメールアドレスを教えたのだ。
 そして直接会話をする必要がない。文字だけの伝達では大きく距離が置かれる。
 こういう時に、三村のありがたさをしみじみ感じた。
『やばかった?』
「いや、悪いな」
 察しの良い三村に気を使わせた。
 素直に「ありがとう」と言うと三村は電話口で軽く笑った。
 気にすんなよ。と言って。
 支えられている。だがその人に対して真実を何一つ伝えるわけにはいかない、そのもどかしさに皓弥は目を伏せた。
 すると深刻な雰囲気に気が付いたのか、那智が皓弥の服をちゃんと直し始めた。
 とてもじゃないがそういう行為に向かう気持ちが欠片も残っていない現状だ、諦めてくれると有り難い。
『なんか、ちゃんと片づいたら連絡したいって言ってた』
「片づいたら、か」
 それは妹を苦しめた人間を一人残らず殺した後ということだろうか。
 きっと途中で思い直してはくれないのだろう。
『皓弥には、決着をつけて欲しいんだと』
 決着。そう呟き皓弥は菅野に短刀を突きつけたことを思い出した。
 もし、今考えていることが菅野にとっての決着ならば。
 そんな時は来なければいいと、心の底から願う。
「分かった」
 ぶっきらぼうな返事に、三村が黙った。
 心配しているのだろう。だが皓弥にはそれを和らげてやれる言葉が見当たらない。
 きっと声から、不安や戸惑いが滲んでしまうから。
『おまえらさ、なんか抱えてるよな』
「……うん」
 誤魔化しても意味がない。
 だから素直に言った。
『俺、なんか出来る?菅野、切羽詰まってるみたいで、見てて怖いんだよ』
 鬼なのだから、人間である三村が恐怖を感じていてもおかしくはない。
 むしろごく自然だった。
 だが三村はそれを申し訳なさそうに告げる。
「何も出来ないよ。俺にも、誰にも。あいつのことはどうにも出来ない」
 本人でさえも、もうどうにも出来ないのだろう。
『……そっか。でも、皓弥は何かあったら言えよ。俺には何も出来なくても』
「ああ。言うよ」
 嘘だ。
 三村に言えないことなんて山ほどある。
 身体の中に流れている血も、母親のことも、仕事のことも、今切望していることも。
 絶対三村には言えないことだった。
 だがそれでもあえて皓弥は言う、と伝えた。
 悲しみや苦しみが抱えきれなくなったときには、きっと無言で頼ってしまうから。
『うん。そんじゃ。また明日』
「今日の板書持ってきてくれ」
『らじゃー』
 ぷつり、と通話が切れ皓弥は深く息を吐いた。
 いつか菅野からのメールで震えるだろう携帯を眺める。
 その時何を思うだろう。
「友達?」
「三村。中学からの付き合いだ」
 そう。と那智は大して興味もないようだった。
 服をちゃんと元のように直すと、掌が皓弥の首に触れた。
 包帯の巻かれたそれを撫でる。
「傷は深い?病院に行くべきか?」
 とろりと流れる血の感触を思い出し皓弥は眉を寄せる。
「いや、明後日には塞がってると思う」
「明後日!?結構血が流れたぞ?」
「きっと噛むのを加減したんだろ。さっさと傷が塞がるように血だけを急に吸い取って、傷口自体はごく小さいものだよ。もう血も止まる」
 鬼の体液は特殊だから、それで治りが早いってのもあるけど。と那智は大変不快だ。という顔で教えてくれた。
「……気を使われたということだろうな」
「気を使おうが、使っていなかろうが知ったことじゃない。今から俺が殺して来ようか」
 那智はいいことを思いついたように背筋を伸ばす。
 今にも獲物に飛びかかろうとしている狼のような男を、皓弥は軽く腕を引くことで止めた。
「俺がやる」
「いいの?」
 友達だから、血をやろうか迷っていたほどだろうに、と苦笑される。
 だが皓弥は首を振って意志を固めた。
 譲れないのだ。譲ってはいけない。
 友達だったというなら、それ故に。
「俺がやるんだ。だから那智は手を出すな」
 命じられ、那智は静かに皓弥を見つめた。
 確かな決意を感じ取ろうとしているかのように。
 そして了承した。


 何事もなかったかのように日々が過ぎる。
 口もろくに聞かなかった期間があったなど、忘れてしまったかのように那智は皓弥の世話を好んで焼いては呆れられた。
 以前より距離が縮まったせいか、時折那智は皓弥の頬や髪、手などに触れては嬉しそうに微笑んだ。
 ウザイ、鬱陶しいと言いながらもその表情を見ると拒絶することも出来ず、皓弥は無駄な脱力感を味わっていた。
 何がそんなに嬉しいんだ。こいつは。
 そうぶつぶつ文句を言いながらも、平和な時間が一見流れる中。
 菅野に関しては、ニュースなどで知ることとなった。
 菅野の実家の周辺で変死体が相次いで発見された。という情報だ。大きな力にねじ切られたような、ばらばらになった死体が既に四体。
「あと一体か」
 夜のテレビから流れるアナウンサーの物々しい喋り方。
 いつまでこんなことが続くのか。犯人はどんな人物か。そんな憶測が議論されている。
 死体はあと一体で終わりなのだと知っているのは、菅野と皓弥だけだろう。
「皓弥、ババロアって食べたい?」
「おまえ、とうとう菓子にまで手を出し始めたのか?」
 外見に似合わない。
 黙って立っていれば少し近寄りがたい雰囲気を持っているというのに。
 口から出るのが「抹茶ババロアとかどう?」だ。
「抹茶なら食べたい」
 真顔で言う皓弥も、他の人から見れば「ババロアは似合わない」なのだが本人は気にしない。
 自分のことはいいらしい。
 抹茶に決定され、キッチンで何やら作業をし始める那智を放って、暇なので珍しく再びテレビを見始めた皓弥の携帯が震えた。
 見知らぬアドレスが表示され、どくりと心臓が大きくうねった。
 違う人間からあって欲しい、そう思うのに予測は間違っていないという確信を持っていた。
 新着メッセージを読み、皓弥は目を閉じた。
 その時が来てしまったことを知って。
『片づけられたんだ。今夜、会えるか?』
 それだけの短いメール。
 誰から送られてきたかなど考えるまでもない。
 だから答えは一つしかない。
 会える。
 ただ一言。
 すぐにメールは返信され、場所が指定された。
「那智。ババロアはまた今度にしてくれ」
「なんで?」
「鬼がお呼びだ。出掛けるぞ」
 那智の返事はない。だがガタガタと何やら食器のようなものを整理する音がしてキッチンから出てきた。
 表情はない。
「始末をつけに行く」
 皓弥は立ち上がりリビングを出て自室からコートを持つ。
 斬れるのか。そんな自問が沸き上がるが迷うより先に足が玄関へと向かった。
 黒のロングコートを着て、ポケットに両手を怠そうに突っ込んだ那智がすでにそこにいた。
「出る」
「了解」
 玄関の鍵がガチリと音を立てて開かれ、皓弥は入り込んでくる冷たい風に目を伏せた。


 皓弥は懐かしさを覚えながら、公園の中を歩いていた。
 午後十一時になろうかという時間に、遊具もなく木々が両側に植わっただけの道を歩く人などおらず。
 二人は敷き詰められた煉瓦を歩きながら、指定された場所を目指していた。
「ここら辺で昔は遊んでた」
 中学時代の菅野が住んでいた家からもさほど離れておらず、帰宅途中でよく通っていた。
 肩を並べて何を話していたかなど、もう覚えてはいない。
 だがそれが心地よかったことは曖昧に分かる。
「昔の皓弥ってどんな子だった?」
「今と変わりない」
「そんな子嫌だなぁ」
「どういうことだよ」
 那智を睨むと苦笑される。
 ぽつりぽつりと点在している街灯の明かりは曖昧だ。
「世間を冷たい目で斜めに見下ろしながら、淡々としているちっちゃい子はさすがになぁ」
「おまえの目に俺はそう映ってんのか」
「そのくせ人の情に流されやすかったりするけどね」
 見抜かれている。と皓弥はそれ以上何も言えなくなった。
 淡々としているだけなら、今回のようなことにはならなかった。
 中途半端に冷たい視線で世の中を見るなら、人に対してだってさっさと冷淡になればいいのに。
 時折そうやって自分を嘲りたくなる。
 だが隣で歩く那智は微笑んでいて、まるでそれがいいのだ。というようだった。
「……怒ってないのか?」
 皓弥は視線を足下の煉瓦へと下ろし、尋ねた。
「何を?」
「俺のことを。友達だったからって、鬼に振り回されて、怪我まで負って」
 菅野に噛まれた傷は那智の言った通り、二日後には綺麗に消えていた。
 血を吸われたことで軽い貧血になるかとも思ったが、眩暈のような症状もなく。まるであれが悪夢か何かのようだった。
「ああ。まぁ怒ってると言えば怒ってるかなぁ」
 その割りに那智の声はのほほんとしている。
 初めて鬼になった菅野と会った後に、底冷えするような怒りを見せていたとは思えないほど穏やかだ。
「でも、それが皓弥なのだと言ってしまえばそうだし。気にくわないことは未だに気にくわないが、これからは俺が全力で阻止するからねぇ」
 同じ失敗は繰り返さないのが基本だからと、那智はもう何も思っていないかのように言う。
「今夜も」
 一段低くなった那智の声音に皓弥は頭を上げた。
 漂ってくる嫌な気配。
 神経を逆撫でされるような不快感。
 視線の先には、ベンチが並べてあった。
 木製で年代物だ。腐りかけている部分もあり、足もとが所々いびつな形に崩れている。
 その一カ所に男が項垂れるように座っていた。
 長身の背が丸まり疲労か強く滲んでいる。
 暗がりでも、その横顔が酷くやつれているのが分かった。そして頬に血が付いてることも。
 よく見ると服の胸元に掌大ほどの大きさで、血が塗られている。
 先ほど、人を殺してきたのだろう。
 男はこちらに気が付いて顔を向けた。
 虚ろに瞳は皓弥を映すと静かに、寂しげに微笑んだ。



 


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