六




 
 皓弥は自転車置き場への道から逸れて、人気のない道へと歩き始めた。
 軽々しく口に出来る会話ではないからだ。
「……自分が何したか分かってんだろうな」
 小声で、投げつけるように言うと菅野は「ああ」と隣で短く返事をした。
「おまえは、死んでもいいって覚悟があんのか」
「人を殺したんだからな。誰かに殺されても仕方ないって思ってるよ。それに」
 長生きしようなんて思ってないからな。
 乾いた菅野の声は、そろそろ死ぬつもりなんだ。と囁いてくるかのようだった。
 冬の寒さとは異なる、もっと重く暗い冷たさが足下から忍び込んでくる。
『人を殺すってことは、自分は殺されてもいい。ってことじゃねぇの』
 テレビから流れてくる殺人事件のニュースを見ながら、まだ中学生だった菅野は冷めたように言ったことがある。
 その時は、人を殺すなんて自分には全く関係のない世界だという顔をしていた。
(おまえはそっち側に立ったんだな……)
 いや、こっち側と呼ぶべきなのかも知れない。
 皓弥も鬼とは言え、元は人であった者を斬っている。仕事だと、自分の命を狙われる可能性があるからと言い訳はするけれど、菅野がやったことと大差ないのかも知れない。
「殺した時に力があるってのは分かったんだけど、相手にナイフで刺されてだいぶ体力を失ったみたいなんだ。後一人くらいならなんとかやれるけど、四人は無理っぽい」
「刺されたって……」
 菅野はナイフで刺されたような怪我をしているとは到底思えないほどスムーズに歩いていた。
「刺されてすぐに塞がった。鬼ってすごいんだな」
 感動した。と言う割にその表情は投げやりで、関心がないようだった。
「誰か喰えば、もっと力が手に入るんだろうな」
 菅野の台詞に、皓弥は込み上げてくる不快感を隠しきれず顔をしかめる。
 純粋に力が欲しいと願っているなら、当然の欲求なのかもしれない。
 だが常に喰われる危険を抱えている者にとっては、そんな台詞は不愉快極まりない。
「力のために人間を殺すって?」
「……それは出来ない」
「やればいいだろ。おまえが殺した人間と、餌のために殺す人間。命そのものの重みは変わりがない」
「殺す数は少なければ少ないほうがいいだろうが。俺はただの人殺しがしたいわけじゃない」
 菅野は苦痛を噛み殺しているように、唸った。
(くそっ、この馬鹿野郎が)
 皓弥は菅野のせいで掻き乱されていく心を感じていた。
 人なんて殺しても何とも思っていないという顔をしてくれればいいのに。
 力を得るためなら仕方がないと、命の重さなんて何も感じないように、残虐さを見せてくれれば良いのに。
 嗤いながら人間を見下してくれたのなら、何の躊躇いもなく菅野など斬り捨てられた。
 そんな友人はいなかったと。記憶から追い出してやるのに。
(痛みを隠しきれずに、ちらちら見せるなよ)
 作為的にしているなら、拍手ものだろう。
「殺したくなんかない。関係のない人間は」
「俺だって関係ない」
「真咲を殺すわけないだろうが!いくら血をくれって言っても!」
 皓弥は短くなった煙草を道ばたに捨てた。
 携帯灰皿を取り出すような、そんな余裕はなかった。身の内で緊張感が張り詰める。
「殺したくなる。俺の血を吸ったら、身体ごと喰い殺したくなるさ」
 皓弥は鞄の中から短刀を取り出した。
 手に馴染んだ柄。だがそれは那智ほどの安心感を与えてはくれない。
(これでちゃんと始末出来るか……?)
 雪のような刀身を思い出し、一抹の不安を覚えた。
 だが那智はここにはいない。呼んでも、来ないだろう。
「俺は、特別な血を持ってる。鬼が欲しがる血だ」
 短刀を握り、鞘を抜かずに菅野を睨み付けた。
 こんなことは、言いたくない。と耳の奥から声がしたが、もう黙ることは出来なかった。
「そのために、うちの家系は鬼に喰われてきた。だが俺たちだって馬鹿じゃない。ただ大人しく喰われ続けるわけがない。特別な血とともに、鬼を殺す力も受け継いできた」
 菅野は唖然と皓弥を見つめた。
 二人は立ち止まり、人気のない道で対峙した。
「俺はおまえを殺せる。すでにおまえは人間じゃない。殺すことを俺はためらわない。今までもそうして鬼を斬り殺してきたからな」
 それでもおまえは俺の血を吸うって言うのか?
 最後の通告だった。
 もう入り込んでくるな。求めるな。という。
 菅野は途方に暮れたような目で、立ちつくした。
 置き去りにされる迷子のような眼差しだ。
 じくりとまた、罪悪感のようなものが疼く。
「もう、一人殺したならいいだろ」
 気休めだと分かりながらも、もう止めろと言った。
 しかし菅野は緩く頭を振った。
「全員始末しなきゃ、意味がない」
(ああ……そうだろうな)
 同じ立場だったなら、皓弥もそう答えるだろう。
 全てを片づけなければ、身体は、心は、動くことを止めない。
「あいつらを始末したら、俺は死ぬつもりなんだ。一応人殺しだから。人間にも戻れないだろうし」
 あっさり死ぬためにも、後悔しないためにも。
 菅野は揺るぎない意志を矢のように放った。
 殴りつけたい衝動を、皓弥は抑えた。
 もう殴ったところで菅野が止まらないのは明らかだった。
 それなら、どうしてもっと墜ちていてくれないのだろう。
 こいつは見捨てるしかないのだと思わせてくれないのだろう。
(おまえは卑怯だ)
 微かな希望なんて見せないでくれ。
「頼む」
 頭を深々と下げる菅野に、もう重ねる言葉がなかった。
 叱責も、哀れみも、重ねたところで菅野には届かない。
「……もう帰ってくれ」
 これ以上菅野の前にいたくなかった。
 揺らいでゆくのが、自分であってはいけないのだ。
 見捨てることを覚悟で皓弥は背を向け、歩き出した。
「待ってくれ、真咲!」
 慌てたような菅野に、腕を掴まれた。
「っ……」
 振り払おうとしたが、がっしり掴まれている腕は微動だにせず、それどころか握りつぶされるのではないかという握力に激痛が走った。
「あ…」
 表情が歪んだことに気が付き、菅野は腕を掴んでいた手をぱっと離した。
 そしてごめん。と小さく謝る。
「おまえは……!」
 どうしてそうなんだ。と皓弥は呟いた。
 見ている方が辛くなるような、そんなさまで唇をどうして噛む。
 掴んだ手の力は鬼そのもののくせに。
 その有様はあまりにも脆弱な人間のままで。
 皓弥は動けずにいた。
「真咲、ごめん」
 菅野はくいっと顔を寄せると囁くように告げた。
「え」
 突然近付いた身体に、怯えるより先に驚いた。
 そして菅野の口から見えた牙に、意識は氷水に突き落とされる。
「……!」
 悲鳴は出なかった。
 首筋に鋭い牙を立てられ、あたたかいものが肩を濡らしても。
 痛みなどなく、それよりももっと強い絶望に襲われていた。
 殺される!
 硬直せずにいた、冷静な部分がそう叫んだ。
 だが身体はそれを聞いても指一本動かせなかった。
「っざけんな!」
 んく、と菅野が喉を鳴らす音でようやく手が動いた。
 掴んでいた短刀の鞘を抜き、刀を胸に刺す直前で菅野はばんっと皓弥を押すようにして逃げた。
 唇が濡れている。
(くっそ!鬼に喰われかけるなんて、小学校以来だ!)
 幼い頃ならともかく、まさか成人してまでこんな情けないことになるとは思っていなかった。
 しかも相手が強かったわけじゃない。こちらの油断だ。
 とろり、と血が溢れたのを感じる。
(深くやられたか?)
 傷口が見えないので判断出来ない。それがよけいに皓弥の心臓をうるさくさせた。
 菅野は俯いて口元を腕で拭う。
「ごめん……」
 声は震えていた。
(始末するしかない)
 贄の血は鬼を狂わせる。
 今にも菅野は襲ってくるだろう。
 ぎゅっと柄を強く、自分を叱咤するように握りしめる。
 ためらうことはもう出来ないのだ。ためらうということは自分を殺すことと同じ事になる。
 舌打ちして、何もかもが忌々しいと思った時。場違いな女の声が聞こえた。
「でねぇ、そいつがさぁ」
 笑い声と共に近付いてくる。菅野ははっと顔を上げ再び「ごめん」と言い残して走り去っていく。
 その背中が遠ざかるのを見つめて追いかけようかと一瞬悩んだが、鬼に追いつける自信などなく。
 皓弥は短刀を収め、鞄からマフラーを出した。
「黒で良かった」
 首の周りを鮮血に染めたまま、道ばたを走るわけにもいかない。
 適当にぐるぐる巻いて、皓弥は早足で自転車置き場へと向かった。
「何が、ごめん、だ」
 謝るくらいならするな。この馬鹿野郎。
 苦みと血のにおいだけが残された。


 マンションのエレベータから下り、ばたばたと荒々しい足音を立ててドアの前まで走った。
 寒さで凍えた指は、鞄から鍵を出すという単純な作業すらおぼつかなくさせる。
「このボケっ」
 しっかりしろ!と自分を怒鳴り、ようやく取り出した鍵でドアを開ける。
 ばんっと叩きつけるように玄関を閉めると、靴をさっさと脱ぎリビングへと入った。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ペットボトルにそのまま口を付ける。
 乾いた風にさらされて、ひりついた喉が潤されていく感覚に、ようやく身体が震え始める。
「はぁ……は……」
 がんっとペットボトルをテーブルに置いて椅子に腰掛けた。
 ずきん、ずきん、と脈打つたびに首筋が痛む。
「出血多量で死んだら呪ってやる」
 マフラーをのろのろとほどいた。
 黒い生地に、いびつな染みが作られている。
 震える手が無様にそれを広げた。
 溜息までまともに吐き出せない自分に、苦笑した時。
 パタン、と何処かのドアが開かれた。
 肩を跳ね上げ、皓弥は目を見開いた。
(那智は、今日遅くなるって…)
 朝言っていたはずだ。と思い出している皓弥の前に、黒いセーターを着た男が現れた。
 無表情だった那智は、皓弥を見るなり絶句したようだった。
 驚愕を露わにし、見下ろしてくる。
「あ……」
 何と言えばいいのか、迷っていると那智は背を向けてリビングを出ていく。
(見捨てられた…?)
 こんな馬鹿とはもう付き合ってられないって、思ったのだろうか。
 無理もないことだ。
 心臓がぎりぎりと締め付けられていく。
 首よりも、そちらのほうがずっと痛いのだから、不思議だった。
 震えの止まらない身体を片手でさする。
 途方に暮れるとは、このことか。と妙なことを思っていると那智が何か四角い箱を持ってやってきた。
「え……」
 表情はもうなくなっていた。
 無言で那智は箱をテーブルに置き、蓋を開けた。
 中から消毒薬のにおいがする。
「あの鬼?」
 不機嫌さを滲ませる声に、皓弥はこくんと頷いた。
 那智は目を眇め、ガーゼを取り出した。
 そして無言で傷口に当てる。
「っ……」
 針を刺されたような痛みに息を飲んだ。
 だが那智は手を止めず、血を拭っていく。
 動き一つ一つから静かな怒りが伝わってくる。
(どうして、家にいるんだよ)
 気まずさに喋ることも出来ない。
 赤く染まったガーゼをテーブルに捨て、那智はまた新しいものを取り出しては首に当ててきた。
 いつまでこの沈黙が続くのだろう。
 押しつぶされそうになり、皓弥が唇を噛んでいると那智が溜息をついた。
「俺はいらない?」
 かけられた言葉が、何なのか分からず上目で那智を見上げる。
 無表情だった男は目が合うとほんの少しだけ、微笑んだ。
 苦くて、仕方ないというように。
「不必要?」
「那智?」
 どうしてそんなことが出てくるの分からずにいると、那智の空いていた側の手が頬に触れてきた。
 あたたかい掌だ。
 自分がどれほど冷えていたのか、自覚させられる。
(おまえが寒いみたいじゃないか)
 真冬の中、ずっと一人でいるみたいに。那智は微笑んだ。
 皓弥に触れているというのに。
 そんな表情は見たくない。そう言いたいのに、切なさが喉を締め付けて息すらまともに出来なかった。
 ひどく、那智が遠い。



 


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