ケースを開けて三本しか入っていないのを確認すると、自動販売機の場所を頭の中で探してしまう。 自転車置き場から大学までの道にはない、ということを思い出すとつい舌打ちしてしまった。 切れたからと言って、別段苦しむわけではないのだが。 突然ぽかんと自分の中に空いてしまう空白を、埋める手段が他に見当たらないのだ。 空しさから、目をそらしていたい。 気が付いているくせに。 「……慣れるだろ」 これがずっと続けば、きっと当たり前になってしまう。 馴染んでしまえば、何も感じなくなる。 「……ずっとあいつがいれば、の話だが」 このままだといつ同居を解消してあの家から出て行くか分からない。 そう考えるのが、嫌だった。 逃避だと知りながら煙草をくわえた。 ライターで火を付けて吸えば、苦みが広がる。 「皓弥って煙草吸うんだな」 真横の道から見笠が歩いてきた。 よ、と片手を上げている。 大学寮と皓弥の利用している自転車置き場は近く、よくこうして会っていた。 「マルボロ?」 「ん」 「吸ってるとこ初めて見た」 「……たまにしか吸わないからな」 煙草を指に挟んで答える。 吸い始めたのは最近だ。母親を喪った事実を前にして、歯を食いしばり続けることに飽きが来たのか。なんとなく手を出した。 しかし心の隙間を埋めるには到底足りなかったのか、常習性は付かなかった。 ごくたまに思い出したかのように、手に取る程度のものだった。 「なんかあった?」 見笠は右肩にかけた鞄から煙草を取り出して、同じく吸い始める。 セッタだ。火を付けるのは青のジッポ。ライターではないところに妙なこだわりを感じてしまう。 煙草に小さな紅が灯ると、チンッと音を立てて蓋が閉められた。 見笠はいちいちこういう仕草が様になる。 やる気が全く感じられないというのに。 「最近皓弥の様子がおかしいって、弘が言ってる」 弘とは三村のことだ。 多くのことは尋ねないくせに、ちゃんとこちらのことを感じ取っているのだ。 皓弥にとっては居心地が良い人間なのだが、いつの間にか心配をかけているのが申し訳ないところではある。 「同居人と喧嘩でもしたのかって」 煙を吸いながら、その察しの良さに感心してしまう。 「どうよ」 見笠は「当たってる?」と煙草を加えながら冗談半分のように聞いてきた。 皓弥は大げさなリアクションを見せるように、肩を少し上げた。 「さすが三村ってトコだな」 「中学からの付き合いだって?お見通しってやつだな」 「あいつはな、人のことよく見てる」 皓弥は長くなった灰を小さく振って落とす。 「同居人って親戚だっけ?」 「ああ。一応」 「どうしたよ」 皓弥はその問いに、口元を歪めた。 何と返事して良いか、迷って。 (言い寄られましたって言うのもな、相手が男だってのは前に言ったことあるし) 「……まぁ、ちょっと。もめた」 「何で?」 「……あいつ、なんか過保護っていうか心配性ってか、構いたがりなんだよ。俺、その日ちょっと苛ついたことがあって。嫌なことを知って不安定だったっていうか」 菅野が鬼になっていたことも、血をくれと言われたこともショックだった。 頭を殴られたように、呆然となっていた。 それに、那智は追い打ちをかけたのだ。 「んで、そんなときにあれこれ世話焼かれて鬱陶しかったのか?」 「鬱陶しいってか……命令みたいに言われて。ちょっとしたことに関して俺が考えなしの馬鹿だって叱るみたいに、もっとしっかりしろって。言ってることとか横暴で…」 上から見下すような言い方をされて、頭に血が上った。 いつもなら、同じ様な内容でももっと柔らかな言葉だった。 何かを強要するようなことはなかった。「こうした方が俺はいいと思うよ」とあくまで個人の意見に留めいていた。 「いつもはそんな言い方しないくせに」 あの時だけは、急に人が変わったみたいだった。 「へぇ、同居人は年上って言ってたよな?なのに普段は上から物言わないっていい人じゃん」 俺の親戚なんて全部命令口調だったんだぜ。と見笠に言われ皓弥は内心反論しそうになった。 それは俺が主で、あいつが刀だからだ。と。 (でも……刀は主がいなきゃ駄目になるって言ってたけど。実際は、俺の方が駄目になるんだろうな) 那智は皓弥がいなくても生きていけるだろう。 精神的な面は分からないが、それを除くと生活していけるだけの仕事が出来る上に、家事もそつなくこなしている。側にいて見ている限り、頭の回転も人より優れている。 (主だって言われても、俺は那智がいなくなったら、困るんだろうな) 家事が出来ないだけではない。身を守る物はいつも鞄に入れている短刀だけになってしまうのだ。 鬼に襲われた際、本当にそれだけで戦えるかと聞かれれば首を傾げてしまう。 (今まではそれでなんとか生き延びてきたけど……) 仕事をするなら、あんな短刀だけでは話にならない。 (俺の方がずっと甘えてる) 家事から仕事から、きっと気が付かない多くのことまで。 那智が先に支えてくれるから、教えてくれるから、与えてくれるから。 その重さをちゃんと計れずに、寄りかかっている。 母親がなくなった後、崩れ落ちて倒れかけていたのに。今こうして立って歩けるのは間違いなく、その存在がいたから。 (あいつの思いやりとかの上で、俺は何も知らずにのほほんと胡座かいてたってわけか……) なくしていく会話に、開いていく距離にも、納得が出来た。 (優しさには気が付かず、横柄な態度をとる上に。好きだって気持ちは受け取れないって拒絶したら。そりゃ……) 離れていくよな。 皓弥は煙草よりずっと苦いものを吸い込んだ。 「そん時だけ命令口調だったっていうことは、その人もその日機嫌が悪かったんじゃないか?二人ともが機嫌最悪な時に偶々当たって、ちょっとしたことで喧嘩になったんだろ」 菅野の懇願に、僅かでも揺れた皓弥に那智は不機嫌になった。 そう、あの日二人は最低な気分で向かい合っていたのだ。 「向こうだって、気まずい思いしてるんじゃないか?言い過ぎたなぁって。そーゆーこと思う人じゃねーの?」 「……思ってるかも知れないけどな…」 皓弥は鞄から携帯灰皿を出して、短くなった煙草を押しつけて中に捨てる。 「お、失礼」 見笠は丁度良いとばかりに皓弥の灰皿に自分の煙草を捨てる。 そしてまた新しい煙草を取り出して火を付けた。 「後悔してますー、って顔するくらいなら謝ってみれば?それで拒否られたって言うなら、落ち込むのも分かるけど」 後悔している顔か。 これでいい。と思い込もうとしているのに、ずっと引っかかっているのは、後悔しているということなんだろう。 (だからって、どうすりゃいいんだよ) 那智から突きつけられたのは、他の誰とも接触するな。と言われたに等しい約束だ。 そんなものを飲んでしまえば、まともに生活など出来ない。 (第一、大学通えないじゃねぇか) 嫌々通っているわけじゃない。むしろ大学はわりと好きなのだ。それを止めろ 言っているに近い。 (俺が行きたくて、大学行ってるの知ってるくせに) 理不尽すぎる要求だ。正気だと思えなかった。 (……本気じゃなかったら?いや、それが押しつけがましい願いじゃなくて) 懇願であったなら。 どうか誰にも触れられないで、という好意から生み出されたものだったとすれば。 皓弥の奥にあったわだかまりが、一気に払拭されていく。 もしかしてそれは、これほどまでに好きなのだと告げる声でしかないのではないか。 あまりにも率直で、だからこそ強い気持ちになる。 そう考える方が妥当だろう。那智という男が正気を失うほど、愚かであるとは思いたくなかった。 (……んなことも、今まで分からないなんて) 馬鹿そのものだ。 皓弥は今更気が付いたことに、呆然としながら新しい煙草を取り出す。 「謝る気になったみたいだな?」 「……いや、あー…」 燃え始める煙草の先を確認しながら、曖昧に答えた。 非があるのはこちらだ。人でなしなのも。 (だからって……受け入れられるかって言われると、話が別なんだよ) 好きだと言われて、嫌ではない。だからと言って素直に「嬉しい」なんて言えたものではない。 (そりゃ…そんな気はしてたけど) 那智はその気持ちを隠しもしなかったから。 あんな深いキスをするのも、異常だと思わなかったのは無意識のうちにその思いを察していたから。 そしてそれは居心地が良かった。 (……気が付かないフリしてる俺が最低ってことなんだけどな) 皓弥は溜息をついた。 (好きって言ったって、俺の何がいいんだよ。つか何したいんだよ。女みたいに抱きたいとか言われも、そんなの、ボケ死んでこい!出来るわけねぇだろ!って怒鳴るに決まってんだろ) 手を握っているだけで幸せなんだ。などと生ぬるいことを言ってくれる関係を望んでいないことは、交わすキスからしても明らかだった。 (無理、俺には無理。あいつ相手だったら俺が女役になること決定済みって感じだからな!!) やってられるか。とやさぐれ気味になって煙を吐く。 (でも、それが嫌なら目の前から消えるとか言われたら……) もし思いを受けとめてくれないなら、部屋を出ていってもう二度と会わないと宣言されてしまえば。 そんなものは脅迫に違いないのだが。 (どうするかな……) それでもはねつけられるか。いっそ、好きにさせるのか。 考えても決められなかった。 「謝ってみたら案外許してくれるんじゃねぇの。おまえに甘いんだろ?同居人。弘が言ってたぞ、下手なカップルより仲良いんじゃないかって」 「なんだそれ」 そういうところまでカンを鋭くさせなくていい。とここにいない人間に文句を言いたくなった。 すると大学まで後一分ほどの距離で、その人物が「はよ」と声をかけてきた。 電車で通学している三村だ。 「皓弥、煙草吸ってんの。大丈夫かよ」 くわえている煙草を見るなり、三村の表情が曇る。 行き詰まっている時に煙草を吸うくせがあることを三村は気付いてしまっているからだ。 「まだ大丈夫」 皓弥は軽く答えた。 悩むことに飽き、疲れた時に、息抜きのように吸うこともあるのだから。 本当に途方に暮れた時や、絶望しかけている時には吸ったりしない。 現に母親が死んだ直後には煙草を吸うということを思い付きもしなかった。 三村はそんな皓弥に納得はしなかったが、それ以上煙草については何も言わなかった。 「そういや、菅野がおまえのこと探してた」 「あー…そ」 ああ……と気分は更に落ちていく。 那智のことだけで手一杯なのに、菅野のことまで思い出される。 勘弁してくれよ。と言うのが正直なところだ。 四方八方全て塞がれて、挙げ句の果てに足下は崖っぷちだ。 「あいつ、なんかやばい」 三村は不安を感じているように言った。 「なんかやりそうなんだよなぁ。おまえんトコに何か相談しに行きたいんじゃないか?」 「そうかもな」 相談というより、頼み事だ。血をくれと。 憂鬱さが重みを増した。 講義を一つサボり、帰宅することに決めた。 那智がいない部屋に帰るのは気が楽だ。 (なんか、やる気起きねー……) ただでさえおもしろくないと評判の講義をこんな状態で受ければ、確実に寝るか途中退出だ。それなら初めから受けなければいい。 (二人が受けてるから後でノート借りればいい) 鞄の中に入れてあったマフラーを取り出そうとして、残り一本となった煙草をくわえながら、皓弥は大学の西門を通る。 ここが一番自転車置き場に近いのだ。 「帰って寝るか」 ちゃんと眠れるかは疑問だった。最近不眠が続いている。 不安定になるとすぐに睡眠に影響が出る。ついでに体調も崩してしまう。悪循環に陥るのだ。 「暇だしな」 「なら、ちょっと付き合えよ」 呟きに返事をする男がいた。 皓弥は立ち止まり、目を見開いた。 「……菅野」 「ごめん、待ち伏せた」 謝罪する男は申し訳なさそうな表情に深い陰を宿していた。 それを見て、皓弥は菅野がすでに何か、とりかえしのつかないことをしてしまっていることを知った。 苦しみを味わうだけの何かを。 「皓弥って髪長いんだな。この前は気が付かなかった」 「ストーカーか、おまえは」 鞄の中に短刀を入れてきたことを、記憶の中で確認する。身体はすでに鬼と出会ったことで緊張の糸を張り詰めている。 「こうでもしないと会えないから」 「諦めろ」 「それは出来ない」 皓弥は煙草を指に挟み、舌打ちをした。 「知るか」 おまえのせいで俺の生活はぼろぼろなんだよ。と苛立ちながら菅野を無視して歩き始める。もちろん警戒を解かずに。 「頼むっ」 菅野はすがるように付いて来た。 「嫌だ。大体今のままでも五人くらいいけるだろ」 「無理だ」 「なんで」 「俺。もう一人やったんだ」 皓弥は息を飲み、振り返った。 そこには寂しげに苦笑する菅野がいた。 身体の何処かが痛いのに、それが分からずに困っているようにも見えた。 「殺したんだ」 どうして。 そんな馬鹿みたいな言葉を投げかけて、皓弥は唇を切れるかと思うほど噛んだ。 それを切望していたからだ。 殺したいと願って、そして菅野は。 鬼になったのだから。 次 |