友達なら、菅野に「そんなことは止めろ。誰も喜ばない。おまえ空しくなるだけだ」と言うべきなのだろう。 きっと以前ならそう言えた。 けれどもう、そんなことは言えない。 (俺だってそうだから) 菅野が叫んだように、皓弥の中にも同じ思いがあった。 理性でどれだけやめようとしても、決して聞いてはくれない願い。 復讐せずにはいられない、諦めようとしても叶わない。 まるでその悲願だけが身体を突き動かしているかのような錯覚すらある。 大切な人を他者に無理矢理奪われたことがない人間には分からない。 土足で命を踏みにじられ、身体を切り刻まれるよりも苦しい痛みを知らない人間には感じることは出来ない。 もしこの血が贄の血でなければ、あの時菅野に差し出していただろう。 躊躇いもなく。 (願いを果たせって、言っただろうな) きっと歪んだ思いやりだ。 (あいつは俺と同じなんだ) 体内で息づく憎悪と悲鳴を抱えながら生きている。 「皓弥」 黙って皓弥に腕を引かれていた那智は、部屋の前にたどり着くとようやく口を開いた。 無表情で。 「……悪ぃ、引っ張って」 皓弥は手を離し、玄関の鍵を開けた。 こんなに気鬱な状態でこのドアを開けたことなど今までなかった。 二人は靴を脱ぎ、リビングに入ると無言でコートを脱いだ。 疲労が空気に滲む。 「甘言に耳を貸すな」 那智は黒のコートを無造作に椅子の背にかけた。 命令口調など初めて聞いた。 見ると不機嫌さが僅かに現れ始めていた。 「鬼はその身体を喰らうためならどんな手段も用いる。耳を貸して、迷うだけ無駄だ」 「……分かっている」 説教というより突き放したような冷たささえあった。 怒っている。 那智の怒りなど、今まで体験したことがない。 まるで氷河のように凍り付く怒り方をされ、皓弥は居心地の悪さに俯いた。 「分かってるなら、あんなことは言わない」 「菅野相手だからつい、滑っただけだ」 「友達だったら、鬼であっても身体を与えるのか」 「やってないだろう」 「俺が止めてなくても?俺がその場にいなくても断言出来る?」 「……ああ」 菅野に悲願があるように、皓弥にも悲願があるのだ。 人のためにくれてやる命はない。 「鬼と会話なんかするんじゃない。絡め取られる」 「取られないって」 「さっきのを見ると信憑性が低い。鬼だけじゃない。人にも、容易に触れさせるな」 「なんで」 鬼ならともかく、どうして人が出てくるのだ。と顔を上げる皓弥のすぐ前に那智がいた。 苛立ちを見せる双眸に、皓弥は疑問を深める。 「襲われる」 「はぁ?」 「少しでも親しくなれば、信頼を得れば、皓弥はつけ込みやすいんだよ。すぐに喰える」 「ちょ、待てよ」 那智の手が腰に回され、皓弥は焦った。 冗談でこういう体勢をとらされることはあった。 だが今は真剣そのもので、笑い飛ばされるような雰囲気ではない。 「口を塞ぐのも、触れるのも、すぐに出来る」 「待て、おまえは何を」 「嫌なんだよ、俺は。皓弥が誰かにそうされるのが」 那智は何かがぷつりと切れてしまったかのように喋り続ける。 異様なほど熱をこめて。 「誰かに触られるのも、血でも、身体の何か一つでも誰かにやるなんて、そんなことは聞きたくもない。させるつもりもない」 「那智っ!」 顎を掴まれ、目を合わせる羽目になる。 その力が強くて、皓弥は那智の手首を握った。 「離せ」 「約束してくれるなら」 「っ、おまえは」 皓弥は那智を睨み付ける。 かっとした怒りが一気に頭の中を駆け回った。 「俺のことをいちいち制限する権利がおまえにあるのか!それが刀が主に要求出来ることか!俺はそれを飲まなきゃいけないとでも言うつもりか!」 皓弥の望むことであるなら。と那智は穏やかな眼差しで頷く。 それが常だった。 こうするのが当然だ。と皓弥は思っていたわけではない。 だがいきなり、こんな態度に出られると混乱するのが当然だろう。 「刀としての要求じゃない。刀じゃない、俺個人の願いだ」 「おまえ個人のって」 刀であるのが自分だ。と言っているくせに。 そう皓弥は睨む目に困惑を滲ませる。 「皓弥を誰にも見せたくない、触れさせたくない、他の誰かの事をその口から聞きたくない、誰かを見て欲しくない、手を伸ばしても欲しくない」 束縛だ。 皓弥はそう思った。 身体も精神もがんじがらめにして、動けなくしてしまう。 「……どうして」 こんなに強引な、身勝手な欲求をよどみない瞳で言われたことなどなかった。 冗談半分や、嫌がらせの類ならまだ分かるのに。 その視線が裏切る。 「好きだから」 囁くような声だった。 その分真摯で、皓弥の鼓動を止めようとする。 「友達や、兄弟みたいな、そんな感情じゃないってことぐらい分かるだろ?」 皓弥は言われるまでもなく分かっていた。 男が宿したものは、家族や兄弟、まして友人などというものではないと。 「知らなかったって顔してる」 「ったり、前だろ」 舌が絡まるかのように、上手く喋れなかった。 衝撃は今更じわりじわりと広がっていく。 「本当に?俺の気持ちに気が付かなかった?」 唇の端を上げながら、性格の悪さを那智が披露した。 嘘だろう?そう決めつけられ皓弥は「知るか!」とつい怒鳴った。 だがそれは、外れていなかった。 うっすらと、予感のようなものはあった。 刀を収める際に交わすキスで、時折目が合うと柔らかく微笑んでいる目尻で、名前を呼ぶ優しい響きで。 大切にされていると知っていた。特別な存在として扱ってもらっているとも。 「知るか、か。じゃあ教えてあげるよ」 声はふいに低くなり、あやうげなものを含んだ。 ぞくりと恐怖に似たなにかが背筋を突き抜けた。 「やめっ」 片手で那智の胸を押すがそんな力など何も感じないかのように、那智に唇を塞がれる。 舌が割って入ろうとするが、歯を食いしばって止める。 (この、馬鹿が!) らしくない。こんなのは那智らしくないことだ。 見せ付けられるほどの余裕を、苦笑するだけのゆとりを、気にするなと笑い飛ばすだけの器量があったはずだ。 こんなに切羽詰まった様で、無理強いをするなんて。 舌を入れられないと悟ったのか、那智は掴んでいた皓弥の顎を引かせた。 「っん!」 容易く舌が差し込まれる。 噛み千切ってやろうかと思っても、舌を絡み取られ先に噛み付かれる。 ひくんと震えた身体は、嫌悪を示していない。 だが頭の中は罵声と怒りが渦を巻いていた。 (ボケがっ!!身勝手なことしやがって) 許可もしていないのにキスをされるのは、何度もあったことだ。 だがこんなやり方をされたのは、初めてだった。 「ぃ、っ…ん」 容赦がない動き。呼吸することも許さないというように奥まで舌が入ってきては口内を蹂躙していく。 息苦しさに那智の胸を叩いたり、手首を掴んでいた力を強めて非難するが聞き入れられない。 むしろ皓弥が抗えば抗うほど、追い詰めていくようだった。 「はぁ……っ」 理性や、自尊心がどろどろに解かされて足下に墜ちた頃。 那智は口付けるのを止めた。 情けないことに涙が微かに滲んだ目で、皓弥は唇を噛んだ。 「…っの……」 込み上がる、沸騰した怒りに拳を握る。 無言でそれを那智の腹に打ち込もうとするが、ぱしん、と軽い破裂音のようなものに遮られた。 那智は顎を掴んでいた手を離し、拳を掌で包み込んだのだ。 そのことに、ある事実を突きつけられる。 (こいつ、わざと) 舌を入れられた後、皓弥は大概那智を殴りつけていた。頭をはたくなどは、甘んじて受けているのだろうとは思っていたが。 きっとどの攻撃もわざと受けていたのだ。 頭に昇っていた怒気は、喉を震わせた。 「俺は、刀が欲しいと言った!自分の武器として、鬼を殺す手段として刀がいるって!だが人まで欲しいと言った覚えはない!」 怒りで視界が塞がれていた。 那智の表情が何も見えないことにも、怒りを煽られた。 「刀だけが手に入るなら今すぐにでもそうする!おまえに束縛される筋合いはない!その気持ちを受け入れる義務も」 ない、と続けようとして、歪んだ表情に気が付いた。 不安げに、弱々しく那智が目を伏せる。 (なんで、今…っ!) 今更そんな顔をされても、止まることなど出来ない。 「突きつけられても、俺は、人の気持ちなんて受け取れない」 「迷惑か」 ぐっと喉の奥で何かが詰まったような気がした。 迷惑かと聞かれれば、はっきりと答えられない。 おまえの気持ちは迷惑だと、言わなければいけない状況だ。断れなければいけないはずだ。 だが那智を完全に斬り捨てるのが、怖かった。 与えられてきたものを知って、感じているから。 答えあぐねて口を閉ざすと、那智は目を閉じた。 熱が急激に冷めていくのが、間近で見ていて感じ取れた。 「刀に、感情はいらない。無駄でしかない」 淡々としていた。人が機械になろうとしているかのように。 皓弥は締め付けられるような苦しさに拳を握って、掌に爪を立てる。 自分が望んだことを那智が告げただけだ。それなのに。 どうしてこんなにも痛いのだろう。 「……分かった。刀に徹するよ。皓弥の道具になる」 目を開けた那智は、淡く微笑んだ。 自身を諦めて、投げ捨ててきたように。 傷付けた。 そう、はっきり分かった。 「そうすることでしか必要とされないのであれば。それが望みであるなら」 俺は従う。 那智は冷静さを取り戻したように、静かに告げた。 皓弥の腰に回していた手を外し、そっと距離を置く。 「それが刀だ」 そう言い残すと、椅子にかけてあったコートを手に取りリビングを出ていく。 ぱたん。とドアが閉まる音がして皓弥はずるずると脱力しながらその場にしゃがみ込んだ。 片手で頭を抱え、唇をきつく噛みしめた。 身体を内側から叩く、苦いそれを感じながら溜息をついた。 「……後悔なんか、することねぇだろ…」 こうするのが当然だったはずなのに。 どうしてこんなに苦しいのだろう。 「……くっそ……おでん、道ばたに置き忘れてんじゃねぇか…」 くだらないことを思い出し、自棄を起こして小さく笑った。 空しさにさらわれていく心を引きとどめる術も分からずに。 ピピピッと耳障りな電子音で目を覚ます。 停止ボタンを押して、溜息をついた。 (……静かだ) 那智が起こしに来ない。 まどろみが訪れるが、それに身を委ねてしまえば遅刻が確定される。 だだをこねる身体をなだめなからベッドを下りる。 「……はぁ」 刀に徹する。そう那智が言ってから一週間が過ぎた。 必要とされる会話以外のものは省かれ、じゃれ合いのようなやりとりなど一切なくなった。 お互いの生活になるべく干渉しないように、距離を置いているようだった。 (これが普通だろう) 男同士で同居するなら、これくらいあっさりしているのがいいのだろう。 自由気儘に動ける。気を使うこともない。 (本来なら、これが) そう思いながらも重苦しさを消せずに部屋を出る。リビングにはすでに朝食が並んでいた。 (結局、家事はやるんだよなぁ……) 皓弥は感心していた。あんなやりとりをしたのだから、放置されても仕方がないと思っていたのだが。 那智は黙って家事をしているのだ。皓弥の分の食事もちゃんと用意してくれる。 「おはよう」 朝の挨拶に皓弥は頷く。そして椅子に座り、沈黙の食事を始めた。 飲み込んだトーストが上手く胃に収まらず、途中で引っかかっているかのような不快感に悩まされながら、皓弥は咀嚼し続ける。 まるで強制させられているかのような、気鬱さだ。 味など分かるはずもない。 「今日は帰りが遅いから。晩飯作れない」 それにも、ただ頷いた。 会話はそれだけ。 前なら「俺がいなくてもちゃんと食べること。めんどくさがってカップラーメンにするなよ、この前食べたんだから。コンビニで弁当でもいいから、なんなら作って置いて置こうかなぁ。何がいい?」と続けてくるのだが。 (前の方がおかしいのか) 世話を焼かれ過ぎていたのだ。 それでも楽しげに構ってくる那智を、嫌だと思ったことはなかった。 先に食事を終えてた那智が、洗い物に入る。 (……残したいのは山々だがな…) ただでさえ険悪なムード漂う状態だ。これ以上雰囲気を悪くするのも嫌で、皓弥は無理矢理食事を詰め込む。 遅い手がようやく食事を終えると、那智がすいっと空になった器を持っていく。 (苦しい……) 近くに相手の気配を感じると、否応なく気を張ってしまう。 皓弥は椅子から立ち上がると和室へと逃げた。 畳の感触を足の裏に感じながら母親の位牌まで歩き、正座で向かう。 位牌に話しかけたりはしない。 そこに母親はいないからだ。 あるのは皓弥の記憶だけで、母親はすでに何処にも存在しない。 (……叱られたいのか、俺は) あんた、何してんの。そんな情けない顔して。 そんな母親の声を思い出して、苦笑した。 あの人が生きていたら、この状態を何と言うだろうか。 呆れるか、怒鳴るか、黙って頭を軽くはたいてくれるか。 (馬鹿だ……) いなくなった者に助けを求めている。 自力で生きていくと決めたくせに。 一人で大丈夫だと言ったくせに。 那智が離れていくことを恐れて、いない母親にすがって。 (俺は) ばたんと玄関のドアを閉められた音を聞いて、皓弥は深く息を吐いた。 那智が出て行ったのだろう。 (……出掛ける時は、一言声かけて行くんだけどな) きっとそれすら面倒になったのだろう。 (それが自然か) 視線を畳に落とし、時計の針が刻む音を聞いていた。 これでいい。 (俺は、あいつの気持ちに応えてやれない。そんな余裕何処にもない) 自分のことで手一杯で、人のことなんて考えられないのに。 好きだと言われて、受け入れることなんて出来ない。 (かつかつなんだよ) これ以上深く心の中に入って来られれば、きっと崩れてしまう。 抱えていなければいけないものを、那智にぶつけてしまう。 それは、出来ない。 (弱くなりたくないんだ……) もうこれ以上、何かに揺るがされたくない。 たった一つの願いすら、まだ叶えていないのだから。 「これでいい」 間違っていない。 何度目か、忘れてしまうほど繰り返した言葉を自分に言い聞かせる。 諦めろと説くように。 次 |