参




 
  よく冷えた空気の中を歩く。
   冬の夜に出歩きたくはないのだが、おでんに負けて近くのコンビニまで出たのだ。
 そして何故かおでんだけではなく、色んなものを購入する羽目になった。
「飲み物の類で新商品と書かれると弱い、なんて自分のあほらしい弱点を発見した」
「皓弥がそんなにマンゴージュースが好きだったとは思わなかった」
 那智は膨らんだコンビニの袋をぶら下げて笑う。
 その中にはマンゴージュースが三本も入っている。
 この前飲んだら美味しかったものと、新製品だ。
 中にぶつ切りの果肉が入っているという文字に惹かれた結果、そうなった。
「おまえだってセブンのおでんをそんなに好きだとは思わなかった」
「セブンのは格別だからねぇ」
「それは俺も思うが、だからってもちきんを七つも入れるか?」
 店員に注文する那智の隣で、皓弥は「はぁ?」と声を上げてしまった。
 言われた側は「七個ですか」と一応確認してから、平然とおでんを詰めていく。
 こんな注文には慣れているのだろう。
「おでんは大根でいいって」
「もちきんが浪漫なんだよ」
 那智の口から浪漫などと言われると、歪みきったものに感じるのは先入観の問題だろうか。
 浪漫って何だよ、と皓弥は投げやりに呟きながら帰路についていたのだが向かいから歩いてくる男の姿に目を凝らした。
 街灯にぼんやりと照らされている男は、いつか見たことがあるようで。
「皓弥」
 だが那智が皓弥より少しばかり歩みを早めた段階になって、気が付いた。
(鬼……)
 後十メートルほどの距離になって、それが人間ではないことが分かる。
 人の姿をしているというのに、酷い違和感を覚えるのだ。
 無理矢理人間という、きぐるみか何かを着ているように。
「……すが」
 皓弥は立ち止まって、男の顔を凝視した。
 知っている。
 五年前は、毎日のように見ていた顔だ。目つきが悪く、長身で威圧感があったから人からはよく敬遠されていた。
 だが中身は世話焼きの上に、人が困っているとほっとけないタイプの人間だと、皓弥は知っている。
 そんなところが気に入っていたのだから。
「菅野……」
 那智が振り返った。驚きで軽く目が軽く見開かれている。
 それもそうだろう。どう見ても、相手は鬼なのだから。
 名前を呼ばれたことにそれは気がついたらしい。俯いた顔を上げて、同じく目を見開く。その反応に、本当に菅野なのだと理解させられた。
「真咲……?おまえ、真咲か!」
 変わらない声で嬉しそうに菅野は駆け寄ってきた。
 だが皓弥は身体中に緊張が走る。
 いくら懐かしい相手であっても、鬼に近寄られて警戒せずにいろというのが無理な話だ。
「皓弥、本当か?」
 訝しげな那智に、皓弥は無言で頷く。鬼であるこれは、知り合いなのかと言外に問われ、当惑しながらも否定など出来ない。
 それでも顔は強張り、表情をなくしてゆく。
「おまえ、引っ越したんだな」
「ああ……」
 五歩ほどの距離にまで近寄られ、はっきりと菅野の姿が見えた。
 中学時代にすでに百七十五センチあった身長はあれからまた伸びているようだった。
 百八十二センチある那智より高い。
 目つきの悪さも更に磨きが掛かっている。というよりも。
(殺気立ってんな…)
 この血がそんなに欲しいか。と皓弥は内心嘲りたいような、責めたいような、暗い怒りを感じた。
 那智は皓弥のすぐ傍らに立ち、コンビニの袋を地面にそっと置いた。
 掌をいつでも合わせられるようにしたのだろう。
 菅野に刀で斬りかかるために。
「大学は嘉林塚だろ?今日、三村にたまたま会っておまえのこと聞いた」
「あいつ一限サボりやがって、何やってたんだ」
 三村は今日、一限しか講義がないためそれをサボって丸一日休みにしたのだ。
「普通にぶらついてたぞ」
「あっそ。んでおまえは、こんな所で何してる」
 菅野の家はここから電車で数時間かかるはずだ。ましてその家にも帰っていないと聞いている。
 用もなく、しかもこんな夜にこんなところを訪れるはずがない。
「探しにきた」
「探す?誰をだよ。おまえの方が探されてるって知ってんのか?」
「ああ。連絡切ってるからな。悪いとは思ってるが」
 菅野は表情を陰らせる。
 本気で申し訳ないと思っているのだろう。見た目に合わず、意外と人情などには厚い男なのだ。
「でも、話せることがねぇからさ……気を使わせるのもあれだし」
「それだろうけどな。心配するだろ」
 皓弥は普通に菅野と会話をしていることにほっとしていた。
 背筋には相変わらずぴりっと嫌な糸が張っては意識を尖らせるが。理性的な会話は成立している。
 同時にどうして菅野から鬼の気配が色濃く漂ってくるのかということが、気になる。
「もう、会わせる顔とかねぇし」
 菅野の呟きの意図が分からず、皓弥は眉を寄せた。
「どういうことだ?おまえ、誰を捜しに来たんだよ」
 問い掛けに菅野は神妙な面もちで口を開いた。
「おまえだよ、皓弥」
 は…?と短すぎる疑問の声を上げながら、皓弥は予感を感じた。
 良くないことになる。面倒なことになる。
 そんな曖昧なものだったが、その予感は外れたことがない。
「なんで、俺なんだよ」
 もうこれ以上は聞かない方がいい。頭の隅で冷静な部分が囁いた。
 だが菅野に救いを求めるような目を向けられ、振り払えなくなる。
 この男は、人にこんな目をするような奴じゃなかったのに。と記憶が告げるのだ。
「……絵理が…死んだのは知ってるか?」
「……ああ」
 脳天気な三村が、久しぶりに落ち込んだ様子を見せた時に言っていたことだ。
 重苦しさがのしかかってくる。
「自殺、だったんだ」
 なんで?とは聞けなかった。
 だがその言葉は表情に出たのだろう。菅野が小さく、自暴自棄になったように苦笑した。
「マワされて」
 皓弥は何のことだか理解できず首を傾げかけたが、その意味は後からじわりと冷気のように染み込んでくる。
 青ざめる様を見て、菅野は「輪姦」と露骨な単語を口にした。
「……それで」
 妹は自殺したというのか。
 納得出来る、だかそれは激痛を伴う理由だ。聞いているだけでも首を絞められたかのような気持ちになる。
 皓弥でそれなのだ、菅野の心境など想像もつかない。
「あいつ、珍しく夜中に帰ってきたと思ったら、顔に痣とかあって、服もぼろぼろで。後から気が付いたんだが、身体のあちこちにも殴られた痕があった。驚いてさ、あいつ俺と違って大人しいから、喧嘩に巻き込まれるなんてことなくて……どうしたんだって聞いたんだけど、泣き叫ぶだけで」
 半狂乱だった。と菅野は口元を歪めた。
「俺が触ろうしたら、すっげぇ嫌がって震えるんだ。察しはつくだろ。だから誰がやったんだって、何度聞いても答えねーんだよ。そのままあいつ塞ぎ込んで、部屋に引きこもって」
 冬の夜空に菅野が吐く白い息が掻き消える。
 寒さが内側から皓弥の身体を冷やしていく。
「それから数日して、夜中にうなされてたんだ。泣きながら。起こしてやろうって思って部屋に入った途端、名前が聞こえたんだ。松江って」
 そいつなぁ、と自嘲するように言う。
「俺の友達だった奴なんだよ」
 胃がぎゅっと引きつるような苦しみに皓弥は唇を噛んだ。
「頭のやばい奴で、俺はすぐに離れたんだけどな。絵理にもちょっかい出してきたから。でも一年以上経った今更になって、んなことになるなんて思ってなかった」
 隣で那智が身じろぎをした。
 横顔を見上げると、気怠そうにしている。
「目の前が真っ赤になったみたいでさ。絵理を起こして問いつめた。松江がやったのかって、そしたら絵理が泣きながら言うんだ。松江さんと、他にもう四人いた」って。あんなに小柄な女の子相手に五人だぜ?考えられるか?」
 皓弥は首を振る。考えたくもないそんなことは。
「殺してやるって、絶対に殺すって俺は叫んでた。このままでいられるかって。そしたら絵理がやめろって言うんだ。松江にはとりまきみたいなのがいてな、いかれた奴らばっかで、薬はやるわ、ナイフ振り回すのは当たり前。だから俺が反対に殺されるって思っただろうな。お兄ちゃん止めて、私は我慢するから、忘れるから、だからお兄ちゃんはいいの、怪我なんてしないで、いなくならないで」
 菅野は泣きじゃくる妹の姿を思い出しているのだろう、何処か虚ろな目をしていた。
 虚ろな眼差しが痛みの深さを訴えるようだった。
「お兄ちゃん」と菅野を呼ぶ妹の声を、皓弥は覚えている。
 その時はまだ小学生だったが、あんな風に頼ってくれる子がいれば嬉しいだろう、と少し羨ましくもあった。
 全身で信頼を示してくれる、小さな妹。
 それが目の前で何度も繰り返し「忘れるから、だからお兄ちゃんは」と告げる。
 そんな言葉を菅野はそのまま受け取ったりしなかっただろう。
 悲鳴なのだから。
「明け方まで泣き続けて、それからようやく絵理が寝たから。俺は松江を刺すための刃物と、他の四人を調べに行ったよ。どうせ取り巻きだろうと思ったら案の定だ。絵理がぼろぼろで帰ってきた夜に、松江が誰といたか聞けばちゃんと名前も出てきた」
 友達だったというなら、調べるのも楽だったのだろう。
「警察へは?」
「言わないでくれって、頼まれてな。事情聴取とかされて、嫌なこと全部思い出して逮捕してもらっても罰なんて軽すぎるだろ……そのために絵理はずっと苦痛を味合わなきゃいけない。ほんと…理不尽過ぎる」
 だから泣き寝入りすると決めたのだろう。
 そうするしか、生きていく意志が保てなかったのか。
「松江の居場所が地元じゃなくてな、その日はそのまま家に帰ったんだ。そしたら絵理は」
 マンションの屋上から飛び降りてた。
 菅野は乾いた声で言った。
 飛び降り自殺は、助かる可能性が非常に低い。菅野の妹が何階から飛んだのかは知らないが、その死のうという意志は固かったのだろう。
「……それからしばらく記憶がないんだ。何をどうしたのかも全く分からず、気が付いたら葬式で、手配は母親が全部やってた。慰めようとしてくれる友達に相づちうちながら、必ず全員殺そうって決めたんだ。あいつらみんな殺してやるって。でも松江自身も空手かなんかの有段者で、いかれた頭の野郎だ。他の奴も似たり寄ったりの狂い気味で、俺一人じゃ全員殺せるか不安になった」
 危険な冷静さを、菅野は持ったのだろう。
 勢いだけで刃物片手に乗り込むのなら、まだ警察沙汰になるか、逮捕されるくらいだ。
 だがその冷静さゆえに、菅野はすでに人ですらない。
「それで……おまえは鬼になったのか」
 皓弥は無意識に呟いていた。
 鬼という、一般人にとっては現実には存在しているとは思えないだろう単語に、菅野は驚かなかった。表情一つ変えず、目を伏せた。
「……鬼、なんだろうな。もう人じゃないってことは自分でも分かってる」
(分かってしまうのか)
 自分が異形になることを菅野は認めてしまっている。受け入れることを自ら望んでいる節すらも感じられた。
 そんな姿に胸が軋む。
「なんで……鬼になんか」
「悩んでたんだ。どうしたらいいか、一人でも残すのは嫌だったから。街をぶらつきながら、すれ違いざまならしばらくは逮捕されないか、とか。そしたら、後ろから声かけられて」
「声?」
「そんなに力が欲しいなら、人なんか止めればいいだろうって」
 氷で頭を殴られた気分だった。
(本気で、人を鬼にする奴がいるのか!?)
 皓弥の跳ねる心臓など、菅野が気にするはずもなく。
 疲れたように、気怠げさを滲ませながら喋り続ける。
「そこで気付いたんだ。ああ、人間だから駄目なんだって。人間じゃなくなればいいんだって。変だろ、普通そんなこと思わない。でもその時俺はなんでこんな簡単なことを忘れてたんだろって思ったんだ。そして、身体が変わった」
 力があるんだ。
 菅野は胸の前で拳を握って見せた。
 その手はきっとコンクリートを叩き潰すことも出来るだろう。
 鬼であるなら、それくらい容易だ。
「でも、俺はまだ完全じゃない」
「どうして」
「……人を、喰ってないんだ。一度も」
 菅野は拳を力無く落とした。
「これでも力はあるって分かるけど、あいつらもいい加減無駄に強いから。もっと確実に力をつけたい。だからって、人を襲って喰うのは……なんか…出来なくて」
 戸惑う菅野に皓弥は安堵してしまった。
 それが、当たり前なのだと、囁くように呟いた。
 人付き合いの悪い自分を構っては、嫌な思いもさせずに笑わせてくれた。泣きたくなったときには、大丈夫かよ。と軽い口調でそれでも優しい響きで尋ねてくれた。
 あの菅野はまだ消えていない。
「……それで、真咲を思い出したんだ。おまえ、自分は普通じゃないって言ってただろ?人とは違う血が流れてるって」
(忘れてくれなかったのか)
 中学生だった頃は自分の出自を悲観することもあった。特別な血を厭って、自棄になりそうな時にふと隣にいてくれたのが菅野だった。
 穏やかなその人柄に、言わなくても良いこと、言わずにいるべきだったことがぽろりと一度だけ零れた。
「あの時はよく分からなかったけど、今は」
 記憶の奥にあったはずの言葉は、鬼になって時に鮮明に蘇ったのだろうか。
 それとも、皓弥の気配を覚えていて、それが鬼になった途端に欲しくなったのか。
「それで……」
 苦味を噛みしめたような気持ちで、皓弥は問う。
「血をくれないか。少しでいい!!おまえを喰おうなんて思わない!頼む!その血はきっと特別で、ただの人よりずっと強い力をくれるはずなんだ!!」
 そんなことは知っている。と皓弥は言いかけた。
 だから鬼はこの身体を狙ってくるのだ。
 隙が有れば首を噛み千切ってやろうと。
「…出来ない」
「お願いだ!俺はどうしても!」
「そいつらを殺してくれって、絵理ちゃんが頼んだのかよ。止めてくれって言われたんじゃないのか」
「妹をあんな目に遭わせた奴らを俺は生かしておけないんだよ!!生きていると思うだけで虫酸が走る!あいつらが存在している限り俺はずっと絵理の泣き顔を忘れられないままだ!殺さずにいられないんだよ!」
 叫ぶ菅野の姿に、皓弥は目をそらせずにいた。
 それは自分の姿と全く同じだったからだ。
 母を殺され、その相手を見付け出して始末したいと切望としている自分と、何も変わらない。
「……母さんはどうする。おまえが鬼になって人殺したなんて聞いたら、辛いんじゃないのか」
 我ながら白々しいことを言う、と皓弥は苦笑した。
 菅野の母親は、菅野にも妹にも興味を示していないようだった。
 家にはいつも二人しかおらず、母親は夜中に帰ってきては寝るだけ。会話を交わさない日がずっと続くこともよくあることだと聞いていた。
 仕事があり、恋人も出来て再婚したいんだとよ。だから俺たち邪魔らしい。
 中学生らしくない冷めた口調で菅野はそう言っていた。
「絵理の葬式が終わった次の日から男の所から帰って来ない女が?」
 菅野は鼻で嗤った。
 母親に関心を示されないからこそ、兄妹はより強く寄り添っていた。
 その喪失は、計り知れない。
「失うものは、もう何もないんだ」
 菅野はその場に膝をついた。
 冷たい歩道だ。しかもいつ人が通るかも分からない。
「頼むる皓弥。少しだけでいい」
 菅野は躊躇いもなく土下座をした。
 プライドのない男ではなかった。むしろ高い部類に入る。
 そのことを知っている皓弥は、その光景に眩暈のようなものを感じた。
 友人が自分に土下座をしてまで、頼み込んでいる。
(けど……この血は)
 与えれば、身体を喰らいたいと願うだろう。
 菅野に襲われれば、きっと立ち直れない。
(でも……)
 無下にするのは、辛かった。
 真咲、と笑う菅野に助けられたことが何度もあったのだから。
「……少しで、おまえは満足するのか」
「皓弥!」
 今まで黙っていた那智が声を荒らげる。
「それでおまえは望みを果たして、満足するのか。それでいいのか」
「他に願いなんてない」
 顔を上げた菅野は、鬼のくせに、と皓弥が思うほど真っ直ぐで迷いがない。
 きっと自分も母親を殺した鬼を始末するためにはこれくらいやる。
「皓弥!鬼を信用するな。こいつらはおまえの血を喰らうためなら何だってやる」
 那智は両手を合わせる。
「今斬り捨てるのが最善だ。皓弥が出来ないのなら俺がやる」
「やめろ!」
 掌から柄を生み出す那智に、厳しい声音で皓弥が制する。
「友達ならその身体を捧げるのか!?」
「そんなことは言ってない!」
「現にこいつはそのつもりだ!」
「俺はただ、少しの血だけでいいんだ!あいつらを殺せる程度の血で!」
 懇願する菅野を見下ろし、那智は顰めっ面をする。
「言っていた人間だけでなく、何の関係もない人間もすぐに殺すようになる。鬼は人を殺さずには生きていけない。そして最も美味かった相手を欲しがるようになる」
 吐き捨てる那智の腕を掴み、皓弥は「ごめん」と呟いた。
「俺……やっぱりやれない。俺の血はおかしいから」
 やりたいけど。と零し、皓弥は那智の腕を引いて菅野の隣をすり抜けた。
 一歩遠ざかるたびに、罪悪感に後ろ髪を引かれるが振り返りはしなかった。
 ただ土下座した菅野の姿が焼き付いて離れなかった。



 


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