とある本が欲しい、だが非常にマイナなのでこの辺りには売ってない。と言った皓弥に那智は車を出した。 「さすがにあったな」 この周辺では尤も規模の大きい書店に、皓弥の求めていた本はちゃんと置かれていた。 やはりこういうものは蔵書が豊富だろう大型店舗に行った方が良い。 「ネットで買えば?」と部屋の中で唸っていると那智は苦笑していたが、それは遠慮したかったのだ。 読みたいと思えば即座に動いて、自分の手に取り、その場で読み始めたい。 通販は届くのを今か今かと待っていなければいけないのだ。 皓弥はそれが出来なかった。 「妙なところで気が短いよなぁ」 「読書欲だけは貪欲なんだ」 「もっと他に欲を回せばいいと思うけど、均等になるように」 「それが出来れば人間はこんなに発達してない」 「それはどういう理論なんですか?」 「適当に思いついた」 意味が深そうなことをでっち上げ、最後にはいい加減でしたと発露するのはいつものことで。 皓弥がそういうことをするのは大概気分が悪くない時だと知っている那智は「そうですか」と笑って流していた。 「今日は何食べようか。ついでだからこのまま外食する?」 「それもいいかもな。おまえもたまには楽したいだろ」 食事は那智が作っていた。三食ちゃんと毎日、だ。 皓弥は自分に家事の才能、特に料理は全然駄目だということを知っているので、手伝いもしていない。 手伝いをすることで、明らかに仕事を増やしてしまうからだ。 「家事は苦じゃないから、楽がしたいなんて思ってないけどね」 一度は言ってみたい台詞だ。 (まぁ、俺が言ったところで真実味なんかかけらもないけどな) 自覚している分、空しさを感じていると携帯が震えた。 ジャケットのポケットで自己主張するそれの通話ボタンを押すと女の声が聞こえた。 『お疲れさまです』 「はい。お疲れさまです」 荻野目だ。昨夜片づけた鬼のことに関してだろう。 「持久走をさせられるとは思ってなかったので、筋肉痛です」 『現役高校生だったそうですからねぇ。マラソンをことごとくサボっていた皓弥君には辛かったでしょう』 「……密かに説教してますよね」 『いいえ、そんなことありませんよ』 電話の声は微笑みすら感じさせるが、明らかに『サボるからこういうところでツケを払う羽目になるんですよ』と教師のように教えているのだ。 『口座にはすでに振り込んでありますので、のちほど確認して下さいね』 「分かりました」 『怪我はありませんか?』 頬を少し切られたのだが、そう告げると荻野目は飛んできそうだった。 母親が亡くなってから、皓弥のことを気に掛けているのだ。 元々姉のような人ではあったのだが。 保護欲が一層強まったらしい。 「はぁ」 曖昧な返事しか返せず、皓弥は苦笑した。 『気を付けて下さいね』 もう一度「はぁ」と答える。 きっと電話の向こう側で荻野目も苦笑していることだろう。 『用件はそれだけなのですが』 荻野目の電話は短い。 必要なことだけ告げれば、無駄話などすることなく切ってしまうのだ。 一言置いてから話を続けるというのは、電話では珍しいことだった。 『最近、鬼が増えているようなので、気を付けて下さいね』 「増えているって」 まるで季節柄そういうものが出始めたというように聞こえて、違和感があった。 『うようよしてるらしいですから』 「うようよって、ゴキブリが繁殖してるみたいですね」 荻野目の真面目な顔から、うようよという擬音はあまりにも似合わなくて皓弥は吹き出しそうになった。 『あいつらはゴキブリみたいなものですよ』 嫌悪を隠しもせず、吐き捨てるように荻野目は言った。 鬼には個人的に恨みがあるのだ。といつだったか聞いたことがあった。 どんなものなのか、詳しいことは知らないが。 たぶん、荻野目は尋ねたところで教えてはくれないだろう。自分の内面に関しては伏せてしまう人だ。 「気を付けます」 『はい。それでは』 皓弥は通話を切り、ポケットに無造作に突っ込んだ。 そして那智がすでに運転席に座っている車の助手席のドアを開ける。 二人しか乗れないそれは、エンジンをかけると低く唸った。 「うようよしてるんだってよ」 「何が?」 車に乗っている時の那智は機嫌が良い。 運転することが好きなのだろうと皓弥は思っているが本人に聞いたことはない。 何やら車自体にもこだわりがあるらしいが、興味がないので詳しいことは知らない。 走ればとりあえずいいんじゃないか。というのが皓弥の車に対する意識だ。 「鬼だよ。荻野目が言ってた。うようよって、まるで繁殖してるみたいに言うからおもしろかった」 かこん、とギアを入れる音をさせながら車が走り始める。 「繁殖させてるやつがいるんだろうな」 「鬼を?」 まるで魚の養殖のように言われ、皓弥は読もうと袋から取り出した本を片手に笑う。 「皓弥は、どうやって鬼が出来るか知らない?」 少し意外そうに、那智が横目で見てきた。 「どうやってって……強すぎる憎悪などが引き金になって、変化するんだろう?本人の持って生まれて素質が大きく関わってくるらしいが」 どれほど大きく深い憎しみを抱いても、鬼になる人間となれない人間がいるのは、素質のせいらしい。 どんな素質ならは鬼に墜ちるのか、そんなことは誰にも分からないらしいが。 子どもの頃から嗜虐的であれば鬼になりやすい、思いやりの溢れる子なら鬼にはならない。ということは言えないようだった。 それは突如として内面で爆発するのだ。 憎しみをきっかけにして。 「そうだけど、それだけじゃ今まで普通に暮らしていた人間があんな異質な生き物になるって不思議じゃない?」 「まぁ……それはそうだけどなぁ」 言われてみればずっと疑問には思っていた。 同じ仕事をしていた母親に尋ねたこともあったが「魔が差すということがあるでしょ」と憂いを帯びた目で言われた。 「確かに憎悪や素質で鬼になる。それは間違いじゃないし、実際それだけでも鬼にはなるんだろうけどねぇ」 皓弥は会話が気になり、手にしていた本は表紙を開いたままでめくれずにいた。 「他に何が?」 「鬼との接触だよ」 「接触?」 「そう。鬼になりかけているという状態で、鬼と接触するともう完璧だね」 「接触って何?」 「言葉を交わす、目を合わせる、触れる、などなど」 「それが接触?」 目を合わせるなど、道ばたですれ違うだけの人間とだってありえる。 「なりかけている人間にしてみれば、それだけで墜ちていくんだよ」 「へぇ」 そういうものなのだろうか。 当然だが鬼になったことなどないので分からない。 「墜ちたいと願っているんだから、自然と言えば自然なんだけど」 「まぁな。でも鬼はなんで人間に接触するんだ?喰らわずに接触するだけなんだろ?」 「そうだね。喰らえば鬼になるどころじゃないからねぇ」 死体もなくなるし。と随分危険な内容を二人は淡々と喋っていた。 「見てると苛々するらしい。墜ちそうなのに墜ちないでうだうだしてる人間に」 「苛々するって」 「墜ちるならとっとと墜ちればいいだろ。ってつい声をかけるらしいね。もしくは目で訴える」 「わざわざ?暇なんだな」 鬼という全く別の生き物のくせに人間に自ら接触、しかも補食以外の目的だ、するなんて今までは想像もしなかった。 「バスとかでさぁ、次の駅で降りますってボタンあるでしょ」 「ああ。滅多に乗らないけどな」 バスを利用することなんで数年に一回ほどだ。 通学時に利用することがないからだ。 駅からも自宅はわりと近い。立地条件に恵まれているのだと、こういうときにふと分かる。 「あれを押そうと思って指を伸ばすくせに、迷ってるみたいにいつまでもそっと触ったり、かと思ったらまた指を引いたりしてたらどう思う?」 「ウザイ」 代わりに押してやろうかと、勝手に押してしまうかもしれない。 もしくは視線を逸らして、視界から消してしまうか。 「それを目の前でやられるんだ。気になるだろ?いっそ押せばいいだろうが!って怒鳴りたくない?」 「怒鳴る」 「でしょ?」 「おまえだったら無言で押してるだろ」 「鬱陶しいからね」 「そういう気持ちで、鬼は接触するのか」 「そう。後ろから背中を押すんだ」 いや、違うかな。と自分で言っておいて那智はふと口元を歪めた。 意地悪そうな笑い方をする。 「背後から蹴り入れるんだ。そして墜ちていくところに吐き捨てるんだよ『そんなに憎けりゃ、食い殺せ』ってね」 それが出来る力を、おまえはもう持ってるだろうが。 冷たい目で落とす鬼の姿を想像して、皓弥は苦い思いを味わった。 人間じみている。そういった気持ちを本当に鬼が抱くなら。 感情まで似ているとすればたちが悪すぎる生き物だ。鬼というものは。 元が人間というだけでも相当嫌な相手だというのに。 「しかし、鬼にした人間がいるみたいな言い方だな」 詳しさに、冗談めかして言うと那智は信号で車を止め「ああ」と肯定するような呟きをもらす。 「したのかよ!」 おまえ刀だろ!?鬼なのかよ!と出会ってすでに四ヶ月近くになるというのに初めて聞く爆弾発言に皓弥は持っていた本を投げつけかけた。 実行に移さなかったのは、せっかく手に入れた本が変型したから嫌だったからだ。 「いや、俺じゃなくて知り合いが」 「鬼の知り合い!?」 「蛇の道は蛇って言うだろ?」 「最近めっきり聞かなくなったことわざだな」 「ことわざ自体が聞かれてないんじゃ?」 脱線している会話に気が付き、那智は車を再び走らせながら「鬼のことは鬼に聞いたほうが的確だし」と内容を戻し始めた。 「でも、おまえ鬼食うんだろ?そんなんで知り合いになれるのかよ」 「ああ。天然だから」 「天然?」 鮎や鯛の上によく付く単語に皓弥は眉を寄せる。 「生まれながらにして鬼の奴を、天然って言うんだよ」 「生まれながら……?」 鬼というものは、人間が変化してものだと教えられていた。 全ての鬼は元は人間なのだと。 「命を得た時にはすでに鬼なんだよ。皓弥が人間であるように、俺が刀であるように。天然は鬼として生まれるんだ」 「そんな生き物いるのか…?」 「いるよ。そいつは人間が鬼になった奴よりも強くてねぇ。味が良さそうだからって手を出せる相手じゃない。向こうも人間ならともかく刀なんて喰えないから、襲ってこない」 「強い……?」 「かなりね。比較するほうが馬鹿に思えるくらい」 皓弥はそれに嫌な予感がして、しばらく目の前を睨んだ。 走るように過ぎていく景色。一瞬しか視界に入らなかった、歩道を歩く人々の中に鬼はいただろうか。 「……面喰いは?」 「天然だよ」 「……そう」 予測が付いたことだった。 だが今まで面喰いが天然である、そんなことすら知らなかった自分に苛立った。 本当に、何も知らない。 きっと母は鬼に関することは何であっても、止めてしまっていたのだろう。 腕の中に抱いている息子を守るために。 開いた本を閉じて、皓弥は窓の外を眺めた。 胸の内に憂いばかり積もらせて。 平安末期に書かれた文章について語る講師などいないかのように、見笠は耳にイヤホンを入れて音楽を聴いている。 誰の歌か分かるほどの音量に隣に座っていた三村が頭を叩いた。 だが見笠はちらりと見ただけで、下を向いて腕を組む。 受講態度は最低だ。 「皓弥、こいつにノート貸さなくていいぞ」 「分かってる。一冊千円からだ」 「……俺にはタダだよな?」 「三百円で手を打ってやる」 三村は黙った。だが最終的には三百円を払うだろう。 時々眠ったまま講義の始めから終了までを過ごすからだ。 穴あきノートでは単位を取る自信がないらしい。 「なぁ、菅野って覚えてる?」 今日は起きているので真面目に板書しながらも、三村は口を開いた。 「ああ」 菅野は中学時代の同級生だ。三村と一緒になんだかんだとよく遊んでいた。 皓弥の苦手な理科関係が得意で、テスト前は菅野の家で勉強会らしきものをやっていた。 高校は別の所に行って、それからはあまり連絡を取っていない。 菅野が引っ越ししたというのもあって大学に入ってからは途絶えてしまった。 「菅野の妹、亡くなったらしい」 三村は前のホワイトボードから目を反らさない。だがルーズリーフに写さなければいけないはずなのに手は止まったままだ。 それが動揺を抑えているように見えた。 「なんで?」 「自殺だって」 どくん、と心臓が跳ねた。 勉強会をするたびに、菅野の妹には会っていた。 四つほど年の離れた妹で小学生の姿しかしらないが、長い髪を二つにくくっていたのを覚えている。 母子家庭で、常に仕事で家を空けている母親の代わりに菅野が髪を結っているのだと言っていた。 お兄ちゃん、お兄ちゃんと菅野の後ろを付いて回っていた印象が強く残っている。 そして菅野もまた、引っ付いてくる妹の手を引いて歩いていた。 兄弟がいない皓弥は、それを見てこういうものなのだろうかと思っていた。 後で菅野兄妹が特別仲がいいと知った。 「菅野、荒れたらしい」 「だろうな」 三村も兄妹がどれほど仲が良かったのか見ている。 複雑過ぎる心境だろう。 「なんで、自殺なんか…」 もう六年近く会っていない子が、何を思い命を絶ったかなんて分からない。 それ以前に菅野の妹がどんな人間かすらよく知らない。 だが、どうして、と思う気持ちは強かった。 側にいただろう兄を知っているだけに、なおさら。 「葬式とかも、済んだらしいんだけど。それから菅野がいなくなったって」 「いなくなった?」 「ああ、家にいないって。携帯に連絡したらたまに繋がるらしいんだけど、詳しいこと何も言ってくれないらしい」 相当、ダメージあるぞ。あいつ。 そう呟いて、三村はシャーペンをころんと投げるように机の上に置いた。 溜息をついた三村の横顔は痛ましさを覚えているものだった。 「俺もさぁ……あいつの携帯番号とか聞いて連絡取ろうかと思ったんだけど。でも実際どうしていいか分かんなくて」 「それは、そうだろうな」 「……どうしたらいいだろうな、俺達」 三村は途方に暮れたような、寂しげな目で皓弥を見た。 中学時代の懐かしい空気が一瞬蘇って胸が詰まった。 菅野の懐かしい顔を思い出すと、何かしてやりたいという気持ちはある。絶望を覚えているのではないかと思う菅野が、少しでも救われるように、気持ちに落ち着くように自分たちに出来ることは何かないかと考えたくなる。 けれど三村の問いに答えられず、皓弥はゆっくり首を振った。 どんな闇が菅野の妹の中に生まれたのだろう。 命を自ら絶つほどの思いが、何処から生まれたのだろう。 憎しみは人を鬼にして。 悲しみは人に命を絶たせる。 やるせない気持ちに、目を閉じた。 次 |