壱




 
 短距離は得意な方だったが、持久力がないために長距離は苦手だった。
 高校時代はそのため、マラソン大会というものには一度も参加せずにサボっていたというのに。
「くそったれ…」
 逃げる学生服の背中をすでに十数分は追いかけているだろう。
 深夜に抜き身の刀を握りながら、人気のない道を。
 どうやら通学路らしいが、現在そんなことはどうでもいい。
 ぽつりぽつりと情けのように立っている街灯に、刀は雪のような光を宿した。
「……鬼になった、途端に、底抜け体力、かよ…」
 途切れ途切れになった息で皓弥は文句を言っていた。
 肺には冷えた空気が入り込んでくる。
 体内と外気に温度差があるせいか鼻が痛い。
「んな根性、あんなら……苛めで死んでんじゃねぇ!」
 やけくそになって怒鳴ると、学生服を着た少年らしい者は立ち止まった。
 振り返ると、その手先から伸びている爪が異様に長く尖っているのが分かる。
 血に濡れているのも。
「のび太みたいな髪型しやがって…」
 皓弥も一定の距離を保って、走るのを止めた。
 ゆっくりと呼吸を整える。
「好きで……好きで死んだわけじゃない…」
 ぼそぼそと、それは呟いた。
 車が近くで通っていれば聞こえなかっただろう。それくらい小さな声量だ。しかも音は人の口から聞こえてきたとは思えないほど濁っていた。水を介した上にノイズを走らせているかのように不鮮明だ。
 鬼になっている今、声帯も人間のそれとは異なる形へと変化を始めたらしい。
「死ぬしか……なかったから」
「それで死んで、苛めた奴殺しにかかるなんて大した根性だろ」
 皓弥は刀の柄を改めてきつく握った。
 柄は答えてくれるかのように、確かな感触を与えてくれた。
「んだけの根性あるなら生きてる内にやっとけよ」
「そうすると、俺たちの仕事を減ってたよ?」
 皓弥の背後から、場に相応しくないのほほんとした声がする。
 長身の男は黒のロングコートに片手を突っ込んだ状態で近寄ってくる。
 もう片手には、氷のような刀身をはめた柄を持ちながら。
「御飯を毎日食べるために、仕事はしなきゃねぇ」
「長距離走らなくていい仕事がいい」
「それは荻野目に言ってくれよ」
 二人の視線は軽口を叩きながらも、前方に注がれていた。
 ふらりふらりと不安定に身体を揺らす、元人間。
 一歩、また一歩と踏み出すたびに爪が伸びていく。
 果物ナイフほどの長さになると、鬼は目に涙を溜めた。
「泣くくらいなら鬼になんな」
 皓弥は溜息を押し殺した。
 この鬼は自分を苛めたらしいクラスメイトをすでに二人殺している。
 それなのに、未だに自分がいじめを受けているかのような表情で泣いているのだ。
「ここまでしなきゃ、復讐出来ないのかおまえは」
 皓弥は刀を構えた。
「あんたに、俺の気持ちなんて分からない。毎日、毎日地獄みたいな日々が続いて」
「分かんねぇよ。死ぬくらいなら相手の喉に噛み付いて、殺すからな」
 鬼の言葉を遮るようにして吐き捨てた。
 特異な血が身体の中を流れている皓弥にとって、殺されることは日常に潜り込んでいる危険だ。けして遠いものではない。
 死ぬことと寄り添っている身としては、危害を加えられて黙っていること自体信じがたいことだった。
「もちろん、生きている内に、その場でな」
 手を出された瞬間に、そいつの首を掴んでやる。
 皓弥の台詞に、那智が小さく笑った。
「顔に似合わず凶暴だもんねぇ。皓弥は」
「うっさい」
 鬼は唸った。
「だ、そ、そんなの…ぼ、僕には」
 酷い吃音が入る。
 興奮するとそうなるのだろう。肩を震わせ、涙を落としながら、鬼は嗚咽をもらす。
「……どうも…調子が狂う…」
 ただ泣き続ける鬼と対峙したことがなく、皓弥は眉を寄せた。
 中学生だったらしい鬼は、あまりにも幼さを残しすぎている。
「……もう斬れば?帰ってポタージュを飲みたい。味見してないのに」
 那智は投げやりにそう言う。
 カボチャのポタージュが鍋の中で帰りを待っている、そのことを思い出すと皓弥は足を踏み出した。
「あったまりたい…」
 今年は暖冬だといっても、十二月の深夜は辛いのだ。
 泣き崩れそうな鬼は、大人しく斬られてくれるだろうか。こんなに辛いならさっさと楽にしてやると言えば従ってくれるかもしれない。
「なぁ、あんた。もういいだろ」
 近寄ると、鬼は涙を腕で拭い始めた。
 頷いてくれることを祈りながら、出来るだけ優しい声を出す。
「もうこのままでも辛いだけなんだから、俺が一瞬で楽にしてやるよ」
 それが仕事だからな。と心の中で付け足す。
「痛くないって」
(斬られたことないから分からんが)
 鬼は深呼吸をして、かくんと頭を下げた。
 承諾したのかと思い皓弥がほっと息を吐いた瞬間。
「はぁ!?」
 鬼は背中を強く押されたかのように突然走り出した。
 皓弥に向かって。
 赤く染まった爪を掲げながら。
「往生際が悪いのか、引き際を知らないのか」
 きっと両方だな、と口元を歪めて皓弥は大きく振り上げられた爪を刀で止めた。
 カンと硬質の音がする。相当の強度を持った爪なのだろう。
(人体を引き裂いたんだから、当然か)
 片手を刀で止めたところで、鬼にはもう一本手がある。
 すぐに爪を払い、胴体を貫こうとしていた手から身体を退いて逃れる。
 ぎりぎりで届かない距離まで身体を離すと、真っ直ぐ伸ばされたその腕に刀を振り下ろした。
 爪とは違い、柔らかな肉は抵抗もなく斬り落とされる。
「っ…」
 ぎゃああああああ、と鼓膜を震わせる悲鳴と肉の感触。皓弥は背筋を逆撫でされたような不快感に唇を噛んだ。
 何度体験しても慣れることがない。
 ぼとりと鈍い落下音がする。
「……はぁ」
 鬼は失った腕の切断面を握りながら、うずくまった。
 うっ…うっ…と嗚咽が聞こえる。
 すすり泣く声に頭を振って、柄の持ち方を変える。
 くるりと刀身を真下に向けそのまま落とせるように。
 丸くなった背中に切っ先を埋めようとした。
「え……?」
 くいと鬼は顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃになった顔がにやりと笑う。
 危機感が身体を電流のように走った。
 後ずさろうと足を後ろに一歩下げた瞬間、しゃがんでいた鬼が立ち上がる。
 そこまでは予測出来たことだったのだが。
「はい!?」
 何か鋭い物が頬を掠め、ちりっとやけどをしたような痛みが生まれた。
 頬が切られたのだ。
 皓弥は目を見開き、投げられたそれを視界の中で探す。
「おまえ!自分の腕を投げるか!?普通!」
 襲いかかってくるナイフのような爪を払いながら、皓弥は叫ぶ。
 切断されたとは言え、自分の腕を無造作に投げられるとは思っていなかったのだ。
 さすがは鬼、考えることが違うな。と妙な感心をしながら爪と刀の交差を挟みながら鬼を睨みつめた。
 血走ったその瞳に、苦々しげな表情が写っている。
 鬼は焦点を震わせて、今にも狂気にかられるのではないかと思われた。
(俺の血で狂ったか。これだから怪我をするのは嫌なんだ…)
 鬼は皆、この贄の血を欲しがる。匂いを嗅げば飢えたケダモノになる。
 だから極力血を流さないように生きてきたのだ。
 仕事の際も。怪我らしい怪我をしたのは今回が初めてだった。
「くっそ……」
 これはある種、失敗だな。と皓弥が舌打ちすると。
 鬼の眉間に刀が刺さった。
「は…」
 皓弥の刀は鬼の爪を防いでいる。
 他に刀を持っているのは。
「ふざけるなよ」
 那智。と名を呼ぶ前に、那智は地を這うように声で毒づいた。
 聞いたこともない怒気を帯びたそれに、皓弥の肩はびくんと跳ねた。
 喉元を締めるような怒りが、背後から伝わってくる。
 鬼と向かい合うよりもずっと重い圧力だった。
「誰に傷付けてんだ、たかが鬼ごときがよ。なぁ」
 凍り付いたように動かなくなった鬼の眉間から抜いた刀を、那智は力任せに振り下ろした。
「調子に乗り過ぎだろ。黙って見てりゃ、ガキが」
 鬼の左肩から右脇腹にかけて、斜めに身体が斬られる。
「うっわ……」
 血が噴き出して、間近にいた皓弥は視界が赤く染まることを覚悟して目を閉じたが一向に血の感触は訪れない。
 代わりにふわりと布に包まれる感覚が与えられる。
「……那智?」
 黒のロングコートの内側に入れられたようだった。
 体温が微かに伝わってくる。
(なんで?)
 急にこんな激しい怒りを那智が見せたことは今までなかった。
 仕事で、鬼を直接始末したのも。
 経験の浅い皓弥のために、あえて自分はあまり動かずサポートに徹していたはずなのに。
「大丈夫?」
 そっと皓弥を包んでいたコートを払い、那智が囁く。
 すでに怒りはなく、あるのは心配そうな瞳と声音だけだった。
「キレてたんじゃ、ないのか?」
 萎縮した神経はまだ強張ったまま、向けられる柔らかな眼差しに皓弥は戸惑いを隠せなかった。
「あー、ごめん。手は出さずにいようと思ったんだけどねぇ」
 那智は刀を持っていた手を無造作に振った。
 ぐにゃりと刀身が歪み、柄ごと存在しなかったもののように掻き消える。
(何度見ても、変な光景だな)
 慣れてしまってはいるが。
 那智の掌は皓弥の頬に添えられた。
 ぴりっと微妙な違和感のある場所を避けて。
「切れてる、やっぱり……」
 那智は顔を寄せてそこを眺めているようだった。
「ちょっとだけだろ?」
 痛いというよりかゆいような感覚に、皓弥は苦笑する。
 そんなに大げさに眺めるようなものじゃない。
 だが那智は舌打ちをしては溜息をついた。
「俺がいたのに」
「いや、仕事なんだからこんな傷一つくらい仕方ないって」
「それでも俺は嫌なんだよ」
 皓弥が傷付くのは嫌だ。と那智は目をわずかに伏せて苦笑のような笑みを浮かべた。
「俺は、おまえに守られたいとは思ってない」
「分かってる」
 那智はそう頷くと、皓弥の頬に口付けた。
 ふわりとした唇の感触。
 驚いて押しのけようとするにはあまりにも優しい触れ方に、皓弥は文句を呟くだけだった。
「ひっ」
 だがそれもしばしの間だけ、温かくぬめりのあるものが傷口を舐める。
 びくんと身体は硬直し、にぶい痛覚が走った。
「那智!舐めるな!」
「血を流したままにしておくは鬼が寄ってくる」
「舐めたらいつまで経っても傷が塞がらないだろうが!このボケ!」
 自分より幾分が高い頭を、ばしぃとはたくとようやく那智は舐めるのを止める。
 それでも離れる際、名残惜しそうにちぅと音を立てて頬にキスを落としたが。
「おまえは何を考えてんだ…」
 男の理解不能な言動はいつものことだが、これは突飛すぎる。
(犬でもあるまいし)
「皓弥のことを」
 にっこり笑顔で答える那智の腹に、拳を繰り出した。
 ぐは、と身体を二つに折る姿を見下ろしながら皓弥は深く息を吐いた。
 大切にされ過ぎている。
 それは身体全てを包み込み視界さえ遮るようなくるみではなく、腕の中でゆるく抱かれているようだった。
 拘束がほとんどない。そのくせ寄り添っている、見守られているという安心感があってたちが悪いほど心地良いのだ。
「甘やかすな」
「誰を?」
「俺を」
 自分が那智に寄りかかって、守られているような気がして、皓弥は苦い思いで口にした。
 だが男はそっと微笑んで「甘やかしているのは皓弥だろう?」と告げる。
「なんで俺なんだよ」
 おまえだろうが、明らかに。そう言っても那智は否定する。分かってないなぁという顔をして。
「なんなんだよ」
「嫌?」
 那智の問い掛けに、皓弥は「もういい」と話を断ち切った。
 嫌じゃないから、困っているのだ。
 懐かれるのも、そっと触れられるのも、側にいてくれることも。
 安心するからこそどうしていいのか分からない。
「それより俺はさっさと帰りたいんだよ。死体も消えたことだし」
 鬼の死体はすでに灰になって溶け消えている。
 皓弥は刀を那智に差し出し、顰めっ面で「早くしろ」と命じた。
「はいはい」
 那智は両手を広げて、皓弥を腰を抱いた。
「ウザイ!そんなに密着すんな!そして一瞬で終わらせろ!」
「注文が多いなぁ」
 楽しげな男の頬を皓弥は力一杯つねる。だがにやにや笑いは消えない。
(何が嬉しいんだ、男にキスして!!)
 理解出来ん!と怒鳴る皓弥だったが、ぬくもりあるその唇を重ねるのは嫌ではなかった。
(キスされるのも、嫌じゃない。だから)
 だから困っている。
 那智をどう思っているのか。男相手に嫌悪を感じない自分は何なのか。
 どんな感情を抱いているのか。
 分からないから。



 


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