七




 
 マンションのエレベータに乗ってドアを閉めると、狭い箱は分速約30メートルで落ちていく。やや遅い浮遊感に意識が次々切り替わる。
「こんな可愛らしいワンピースなんて何年ぶりでしょう」
 春奈が自身の格好を見下ろしては苦笑していた。アイボリーのワンピースはウエストが絞られ、スカート部分の生地をたっぷり使いふわりと裾が広がっている。Aラインを強調しているややガーリィな服装は春奈が好みそうもない。
「悪くないけど」
「そう?」
 春奈はシンプルな服装を選ぶけれど、可愛らしい服は似合わないどころかむしろ似合っているタイプだろう。ただ本人が纏っている雰囲気が、時折その本性と同様に酷く鋭利なものを含ませる場合があるので、その瞬間だけはあまりにもミスマッチになるだけだ。
 そして春奈もきっとその自覚があるのだろう。だから似合わないと思い込んでいる。
「遠くから見れば女子大生に見える?」
「たぶんな」
 自分の母親は若く見える。それは刀の特徴でもあるのだろう。
 ある程度若さを保ち、生命力が強い。それは主を守るためには老いて体力を落とすわけにはいかない、常に戦える肉体でなければいけないという役割のせいだろう。
 だからといって四十代の母が女子大生、年齢の半分近い女性を演じるのは、皓弥のように太鼓判を押す気持ちにはなれなかった。
 しかし本人が一番、複雑な心境らしい。眉尻を下げては「街灯の下は避けて通ってね」と注文を付けてきた。
 緩く巻いた髪の隙間からキラキラとスワロフスキーをたっぷり付けたピアスが揺れる。春奈が着けそうもないものだ。
 それにヘアスプレーの香りが強すぎる。
「匂いが気になる?」
「甘すぎる」
「私もそう思う。匂いも強いしね。だけど、これが相応しい」
 小さな合皮のショルダーバッグを肩に掛けて、春奈は笑む。
 残念ながら、いや当然ながら。艶やかな微笑みと眼差しは、服装には一切似合っていない。全身から香り立つような矜持の高さと闘争の本能はヘアスプレーの匂いとは比べものにならないほど甘美だ。
 どれほど可愛らしく無垢に飾り立てても、それは剥き出しの刃だ。
 マンションの入り口から出ると、春奈が腕を組んできた。皓弥より細い腕の感触は奇妙な心地だった。
 子どもの頃は母と手を繋いで歩いたらしい。那智にその記憶はない。五歳の時に刀として目覚めてから、それ以前の記憶は失っている。
 これがもし他の女ならば嫌悪感を覚えただろうが。母に対しては苛立たない。
 自分と似た生き物であると同時に、お互いを意識していないからだろう。
 神経が周囲に向いている。気配を探っているのだ。目標がいつ接触して来ても良いように、身構えている。
 隣にいて不足がない存在という実感を得られた。
 外に出てそれはほんの数分後だった。
 視線を感じた。そして着実にこちらへと近付いてくる。
 先ほどスマートフォンに着信を入れたのは調査員だ。目標が現れたという合図だった。そしてそれはちゃんと、こちらを見付けてくれたらしい。
「蓮城君」
 飛び出すように眼前に出てきた女の目は血走っていた。街灯に照らされた瞳はこれまでより色濃い憎悪と高揚感が宿っていた。ようやく、と聞くまでもなく語る双眸は、那智にとってはよく知るものだった。
「その人が彼女?」
「ああ」
 春奈は那智の肯定を後押しするように寄り添ってくる。全身で警戒と準備をしながらも甘えるような仕草を作り出していた。
「この人誰?」
 鼻にかかった、春奈らしくない喋り方だ。
 だが女の神経を逆撫でするにはとても効果的だったらしい。女の顔が鬼女の面を思わせるほど醜く歪む。
 憤怒に駆られた衝動のまま、女は鞄から何かを取り出しながら走ってくる。前屈みになったその姿勢は、全力でこちらにぶつかって来ようとしていた。その手には刃物、包丁が握られている。
 那智の目には女の動きの一つ一つが詳細に認識出来ていた。普段那智が刃を向けているものに比べれば圧倒的に遅い。
 避けようと思えば十分に避けられるもの。春奈にとっても似たような感覚だろう。
 しかし春奈はその刃物をバッグで受け止めた。合皮のバッグに深々と刺さったそれは春奈の肉体をかすめもしない。女は瞠目するが、すぐに包丁を引き抜いて再び春奈に襲いかかろうとした。
 包丁の表面がべったりと赤く濡れていることにも気が付いていないらしい。春奈だけを睨み付けて、息を荒げながら再び突進する。
 だが春奈はそれを許さなかった。ショルダーバッグの口を開けては、バケツの水をぶっかけるように、女へと中身をぶちまけた。
「はっ、え、何これ!」
 バッグの中から真っ赤な血が飛び散る。まるで肉体を、頸動脈を切り裂いたような出血量だ。けれど女が刺したのはバッグであり、春奈ではない。
 唖然とした女の顔や胸元が赤く染まる。しっかりと化粧をして作り上げただろう顔面も血で汚れて台なしだ。女は侮辱されたと思ったのか、わなわなと震え始める。
「なんなのよこれ!」
 怒鳴る女の足下に、春奈はバッグを捨てた。それも癪に障ったのだろう、女はそのバッグを踏みつけては「馬鹿にしてるの!?」と更に叫ぶ。
「こんなものぶっかけてきて!なによこれ!血!?どうせ作り物でしょう!?何の嫌がらせ!?」
「それは知らなくていいこと。これから貴方は、自分の血に染まるのだから」
「は?」
 春奈の言葉を聞いていたわけでもないだろうに。近くの街路樹の上に何かが飛び移った。それは一見大きな猿のような獣だが、目をこらせば人間の形をしているのが分かっただろう。
 だが女はそれに気が付かない。気が付いたのは、それが街灯を蹴って、女の首の付け根に食らい付いた時だ。
「えっ、なに、なに!?」
 女は背後から首の付け根に噛み付かれて、取り乱しながら振り返ろうとした。鋭い歯が自分の肉に食い込む痛みは、少し遅れてやってくる。
 えぐり取られた肉は獣の喉にすぐさま流れ落ちては、再び大きく、まるでワニのように耳まで裂けた口は今度は振り返ろうとして硬直した女の喉に噛み付いた。
 悲鳴は上げられなかった。上げる声帯を噛み千切られたのだから到底無理だ。
 鮮血が飛び散っては女の身体を赤く染めていく。ドクドクと脈打つ度に滴り落ちる血は、春奈が汚した跡を上書きしていく。
 絶命した女の身体は膝から崩れ落ちてはアスファルトの上に倒れた。その身体を四つん這いになった鬼が貪り食っている。残飯を食いあさる犬のようだ。
 不快感を伴う光景だが、最後まで見届ける義務がある。
 早く終われば良い、と思っていると春奈が隣で溜息をついた。
「どれだけ若作りをしても、本物の若い子には負けるのね」
「狼が羊の皮を被っても、畜生の鼻は誤魔化せないんだろう」
 春奈の中に宿る刀の血が、鬼に警戒心を抱かせた。もしかすると人間とすら認識されていなかった可能性がある。
「わざわざこんな格好もしたのに」
 借り物の服の裾を摘まんでは戯けている。
「少し小さいかと思ったけど、ちゃんと入って良かったわ」
「体型が似ていて好都合だったよ」
「ターゲットは?」
「マンション横の駐車場で待機中。目くらましはちゃんと効いているな」
「勇気を振り絞って、ここまで誘き出してくれた甲斐はあったわね」
 春奈が着ている服は、とある女子大生のものだ。死んだ祖父が外法で鬼と契約をして、巨額の富を手に入れた。鬼との取引は代々の娘を差し出すこと。祖父は自分の娘を差し出し、そして次は年頃になった孫娘を要求された。
 けれど祖父の息子、孫娘の父親はそれに抵抗し鬼から娘を隠し続けた。
 だがそれも限界が訪れ、娘が逃げ回った末にここに潜り込んだ。
 鬼を殺す術を持つ者たちがいると、微かな噂を頼りに来たらしい。おそらく那智や千堂春日の噂だろう。
 孫娘の強運なところは、たまたま逃げ込んだ先がこのマンションに住む知人だったということだ。
 組織の調査員が那智の彼女に粘着する女を調べている内に、孫娘の存在に気が付いた。同じタイミングで孫娘の組織の存在を知って救いを求めてきた。
 孫娘を欲しがっている鬼には大した力もない、単純にこの近くに来たというだけで、小耳に入れられた話だ。常ならば片手間に仕事にするかどうか、皓弥が暇そうならば受けるかなという程度の、小さな仕事だった。
 だが那智はそれに目を付けた。
 身代わりにあの女を喰わせるかと。
 しかし組織もまさに無関係の人間を身代わりに差し出して、はい解決ですという筋書きは受け入れてくれなかった。被害など出ない方が良いに決まっている。
 まして那智どころか皓弥でもあっさりと切り捨てられるような脆弱な鬼だ。
 だが那智はとある理由を力説した。
「狙われている孫娘を囮にしなければ、鬼は出てこない。だが孫娘を囮にして、鬼の前に出すのは本人の精神が持たないだろう」
 孫娘は随分追い詰められていた。鬼を眼前にすれば気が狂うのではないかと思うほど、憔悴しきっていた。
 だが孫娘が遠くに隠れていると、あの鬼は姿を現さない。鬼もまた隠れるのは得意であるようだった。
 さっさと解決するためには、囮が必要だ。
 話を持って行くと春奈は快諾してくれた。自分が身代わりになって鬼を誘き出す。出てきたところを始末すればいい。
 その際、鬼が間違えて別の人間に襲いかかるかも知れない。
 それは不慮の事故だ。ターゲットに極力近付ける努力はするけれど、春奈は特殊な人間だから、別人だと気が付かれるかも知れない。そして別の人間を誤って襲ってもおかしくはない。
 その説明を組織は飲んだ。
 結局のところ組織にとっても那智の周囲を探り、那智の周辺の人間に害を及ぼすかも知れない人間が、目障りなのは間違いなかった。那智の機嫌を損ねて仕事を辞められることも、皓弥を伴って失踪するのも、避けたかったのだろう。
 鬼を誘き出すためと言って、孫娘からは服だけでなく血液も準備して貰った。かなりの負担がかかっただろうが、自分が表に出ることがなく、尚且つ確実に鬼を仕留めてくれるという条件付きで了承して貰った。
 鞄の中に入れていたそれは、鬼が春奈につられてくれるならば本来使わなくても良かったものだ。そしてあの女がこちらに危害を加えなければ、女にぶちまける予定もなかった。
 口だけでギャンギャンわめく、もしくは胸ぐらを掴むくらいの力業ならば目をつむると組織と約束していた。だがあの女はこちらを刺し殺そうとした。
 正当防衛が成立するだろうと思われるほどの暴力が行われた際、鬼に喰い殺させる手段を執る。それが那智が組織にした説明だ。
 結果的に女は別人の血にまみれ、身代わりとして喰い殺された。










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