八




 
 ごりごりと骨を噛み砕く音を聞きながら、春奈は溜息をついた。
「まさか斬りかかってくるなんて思わなかった」
 頬に手を当てて嘆く素振りを見せる春奈を鼻で笑った。
「よく言うよ。全部見えていたくせに」
 あの程度の動きなら、春奈とて十分に目で追える。遅いとすら感じていたはずだ。余裕で避けられたのにそれをしなかったのは、あの女に選ばせたからだ。
「血が入った袋を破らなければ、あんな目には遭わなかったのにね」
 那智は最初からあの女が襲いかかってくることは予想していた。そういう目つきをしていたからだ。
 けれど春奈はあの女を目の前にしていない。だから人間相手ということで、温情を多少はかけていたのだろう。
 その温情を、あの女は自ら包丁で切り裂いた。
 選び取った未来は、女の輪郭を消しつつあった。
「そろそろ綺麗に無くなる。早く帰ろう」
 那智は軽く手を振って己の刀を出現させる。冷え切った刃は街灯の光を反射しては、冴えた輝きを放った。
 血肉で醜く膨れた鬼の腹を裂けば、すぐに何もかもが灰になって消えていく。
「皓弥が待ってる」
 こうしている今も皓弥は一人、部屋で待っている。
 ストーカー女と対峙している那智をきっと心配してくれている。相手はただの人間だなんて言ったのに、刀の心配をするなんて奇妙だ。
 だがその優しさがくすぐったくて、胸が弾む。己の主はなんて情が深く、愛おしい存在なのだろう。
 そんな主の元に早く帰りたい。全部終わった、不安はどこにもないのだと伝えたい。
(そう、何もかも消した)
 女の存在も、女を喰い殺した鬼も、全部消してしまえば安心だ。心配の種は全て無くなる。
「私と一緒に話しかけることで説得に成功した。彼女は反省して帰って行った。もう那智に会いに来ることはない。それでいい?」
「ああ、いいよ。でも簡単に帰る感じじゃなかったから。春奈さんの説得にショックを受けた。春奈さんが精神的に叩き潰したから二度と俺の前には現れない。俺にすら恐怖を抱いている。って言った方が説得力がある」
「私の印象が悪くなるから嫌。おっとりした優しいお母さんでいたいの」
「猫を被ってるもんな」
 春奈は皓弥の前では喋り方も物腰もいつもよりずっと丁寧で穏やかだ。好感度を上げようとしているのが丸分かりだった。
 そして皓弥も猫を被っている春奈の本性には気付かず、あんな優しくて温和なお母さんからおまえみたいな息子が生まれたのが分からない、と首を捻っていた。
 まんまと騙されているのだ。
「那智に言われたくないわ。皓弥君に好かれたくて必死じゃない。別人どころか別の生物になってる」
「主の前では自分の姿も中身も変える。どんなものにだってなってみせるさ」
 主に必要とされるために、出来ないことなどない。
 断言する那智に春奈は目元を和らげた。
 皓弥に出逢うまで、春奈はこんな瞳で自分を見てくることはほぼなかった。いつもどこか切なげで、何かを言いたそうだった。
 だが問いかけても首を振るだけだった。
 満たされることがない那智を眺めているのが、春奈にとっては辛かったのかも知れない。
 皓弥の隣にいられるようになってからようやく、こうして誰かの心情を考えられるようになった。
 それまで那智にとって他人は、近しいと感じる春奈であっても自分の内側に入り込むことがない、影響を及ばさずに表面を流れ落ちていくものだった。
 今は肉親として、その情や熱を察することが出来る。
「貴方は、皓弥君の刀として生きている」
「そう。俺はそうして生きてる」
 それが至上の喜びだ。
「貴方が日々、幸せそうにしているのを見られて良かった。本当に良かった」
 たった二日だが、二人が暮らしていた部屋で生活をしたのが面白かったらしい。両手を祈るように合わせて、噛み締めるように告げた。
 そしてその手を開いた時に、春奈は自らの柄を握っていた。
 刀としての血が生み出す、研ぎ澄まされた刃だ。那智のものよりまろやかな波紋を持つ、優美な刀身は数年ぶりに目にするものだった。
「私、鬼の前に出るのは久しぶりなの。那智みたいにお仕事はしてないから。だから」
 食べるのも、久しぶり。
 そう告げた春奈の唇に壮絶なまでに艶やかな笑みが浮かんだ。那智ですらも視線を向けずにいられない魔的なものを宿した微笑みに、深く息を吐いては軽く手を振った。
 刀を生み出した時にもしたその動作で、今度は刀が飴細工のように溶けて消える。
 食事を譲った那智に、春奈は感謝を述べて一歩踏み出した。
 春奈が鬼に切っ先を向ける頃には、一人の人間の姿形は霞のように消えていた。



 鍵が開けられる音が聞こえて、皓弥はすぐに椅子から立ち上がった。早く帰って来るという言葉を信じて、自室にも戻れずキッチンでスマートフォンを握っていた。
 早足で玄関に向かうと、二人は「ただいま」とのんびりとした口調で告げる。同じタイミングで言うのは親子だからだろうか。
「春奈さん!それ!」
「ああ、これはまがい物です。私の血ではありません」
 アイボリーのワンピースの裾にべったりと赤いものが付着している。流血だと青ざめる皓弥を安心させるためだろう、春奈は裾をめくり上げる。太腿までも露わになり、ぎょっとさせられる。
 直視してはいけないと、とっさに目をそらしてしまう。だが「見て下さい」と春奈に促されては、視線を戻した。
 白く滑らかな太腿には傷一つない。もちろんその下も、見事な脚線美が麗しいだけで、血が滲んでいる部分など見当たらなかった。
「ちょっとびっくりさせるために、血のようなものを使って脅したんです」
 にっこりと微笑む春奈に、一体何をしたのだろうかと思う。しかし生々しい真っ赤な血のようなものを、どう使ってストーカーと話し合ったのか。
(あまり穏便とはいかなかったんじゃ?)
「ちゃんと解決したよ」
「本当に?」
「ああ。勿論俺たちは殴ったり、蹴ったりなんて、そんな暴力もふるっていない」
「逆にふるわれそうになったくらいです」
「大丈夫だったんですか?まさかこれも、そのせいで?」
 そうだ、那智だけでなく春奈もあの女の標的にされたのだ。那智ならばその身体が逞しいと知っているけれど、細身の春奈ならばいくら同性でも暴力に対抗出来るかどうか分からない。
「平気です。私だって那智のお母さんです。ただの人間の暴力なんて、簡単に避けられます。でもそれを逆手にとって、相手をびっくりさせましたけど」
 そういえば家を出る際に持っていた鞄を持っていない。もしかするとあの中に血に見える絵の具のようなものを入れていたのかも知れない。それを使って何かしら相手にショックを与えては主導権を握ってコントロールしたのだろうか。
「ね、那智」
「ああ」
 視線を交わした親子は、よく似ていた。
 冴え冴えとした眼差しや、近寄りがたさすら漂わせる美しい姿勢。研ぎ澄まされた存在だ。造形だけでなく、纏っている雰囲気も同類だと感じさせる。
「春奈さん、風呂の準備するから入ってきなよ」
「そうですね。お先に頂いてもいいですか?」
「はい。勿論。気が利かなくてすみません。すぐに」
 留守番をしている間に、気を利かせて風呂の用意くらいするべきだった。しかも動き出す前に、那智が先回りをしてしまう。
 役立たずだ。情けなさを覚えていると、春奈が皓弥の肩に手を置いた。
「もう大丈夫です。彼女も、二度と那智には近寄りません。安心して下さいね」
「はい、ありがとうございます。俺は結局何も出来なくて」
「いいえ、皓弥君がいてくれることが那智の支えであり、生きる意味です。それに今回の役割は私が適任でした。あの人は完全に彼女、那智にとって親しい女性を探していた。男性では端っから恋人だなんて思わなかったでしょう。真実を知れば私の時よりずっと逆上して厄介だったと思います」
 ストーカーは同性間の恋愛に偏見を持っていそうなタイプの女性だったのかも知れない。思い込みが激しいタイプでなければ、こんな行動も取らないだろう。
 事が大きく派手にならないためには、自分より春奈の方が適任ではあるのだろう。しかし何の手助けも出来なかったのは事実だ。
「あれは顔だけはいいので、もしかするとこの先も似たようなことがあるかも知れません。気が付いた時に、いつでも呼んで下さい。私、頑張りますから。若作りのテクも覚えておきます」
 ぐっと拳を握って気合いを入れる春奈に苦笑する。確かに那智の顔は最高級品なので、引き寄せられる女性も、もしかすると男性もこれから先出てくるだろう。
「……お気持ちは嬉しいです。でも俺も頑張ります。だって、那智と付き合ってるのは、俺、なので」
 主と刀というだけではない関係を結んでいる。自ら望んで手を繋いでいる。
 だから春奈に頼るだけではなく、自分でも解決する手段、力を持たなければいけない。那智だけの問題ではなく、自分の問題でもあるのだから。
「そうですか。ありがとうございます、あの子とちゃんとお付き合いしてくれる人がいるなんて、奇跡ですから」
 春奈に手を取られ、感謝される。
 微笑みには切なさが混じっているように見えた。
 特殊なものとして生まれた子に対する愛情と、切望が含まれていると思うのは大袈裟だろうか。
「春奈さん、用意出来たよ」
「ありがとう。ではお先に失礼します」
 春奈が着替えを持って風呂場に行くのを見送るが、那智は皓弥の手を取っては動かなくなった。春奈に触られていた手だ。
 まさか母が触ったのが気に食わないなんて言い出すつもりなのか。心配になっていると、急に目尻にキスをされた。
「なんだよ」
「俺と付き合っているって春奈さんに言ってくれたことに、感動してる」
「聞いてたのか」
「耳だけはいいんだ」
「耳だけじゃないだろ」
「顔も?」
「自分で言われるとなんか腹が立つな」
 事実だが、自慢げでもなくさらりと言われると少し癪だ。見た目が恵まれていない人間のひがみだろうか。
「顔がいいと、これからも大変かも知れない」
「皓弥の面倒にならないように気を付けるよ。細心の注意を払って、少しの不安も残さないようにする」
「いやいや、俺も頑張るって言ったばかりなんだが?」
 それも聞いていたはずではないのか。
「うん。皓弥にも協力して貰うかも知れないけど」
「その口ぶりは、協力して貰うつもりがないだろう。まあ俺がおまえの彼女だなんて思うやつなんていないから、春奈さんみたいな協力は出来ないだろうが」
「分かるよ。分かる人が見れば必ず分かる」
 だから見逃せないんだ。
 そう呟いた那智に、この男の心配性は治る気がしないと思った。
 










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