五




 
「実家に行くっていうのはどうかな?」
「俺は幼児か?」
 那智の提案をばっさりと切り捨てる。那智の彼女を探している人がいる、と分かった時にそう言われる可能性も頭にあったのだが。相手は人間だからと言い張って回避してきたのだが。とうとう言われてしまった。
 牛乳を買いに行った間に、無駄な決断をしたものだ。
 オーブンの中でマドレーヌが焼き上がっていく様を眺めていた皓弥は、芳醇なバターの香りに期待を膨らませていたというのに。
 そして今まさにきつね色に焼けたマドレーヌの、香ばしくも柔らかなバターをたっぷりと味わっていた。
 元々が美味しいのは十分承知しているが、ほんのりと温かさを残している分だけ美味しさが更に増している。 
「過保護にもほどがあるだろう。何度も言うけど、相手は女の人だぞ」
「だけど度が外れている節がある。危害を加えられるかも知れない」
「危害を加えるかも知れないって。だからっておまえの実家に行けるかよ。大学に通うにも時間がかかるし」
 まだ平日は始まったばかり、講義は明日も明後日もある。ましていつ解決するかも分からない問題に生活拠点を変えるのは、抵抗感がある。
「大学へは送り迎えをするから」
「おまえも大学があるだろ。それにおまえの車に乗り降りしているところを見られる方が危険だって」
「俺じゃなくて春奈さんが送ってくれるから」
「余計に問題だろ」
「問題じゃない。俺のせいで皓弥に危険が及ぶかも知れないんだ。春奈さんだって動いてくれる。何も気にすることはない」
「いやいや、気になるから」
 自分の身は自分で守れると繰り返しても、那智は納得を示さない。目の前に居る人を何歳児だと思っているのか。
「証拠集めをして警察に相談するしかないと思うぞ。時間がかかるだろうけど」
「時間はかけたくないな」
「仕方がないだろう。ストーカーを直接説得するのは、刺激になってあまり良くないらしいし。第三者を挟むか?」
 他の誰かに相談する、ということ自体那智は嫌がりそうだと思ったが。案の定「それはない」と断言された。
「おまえの顔がいいばかりに大変なことになったな」
 中身は大変くせがある上に、主以外には関心を持たず目も向けないのではっきり言って彼氏には絶対にしたくない、出来ないタイプだろう。
 しかし人を惹き付けるには十分過ぎる容姿をしている。顔の出来は好みもあるだろうが極上と言っても差し支えはないはずだ。
 だからこそ那智に近寄っては幻滅して、もしくは絶望して去って行く女性はいるだろうと思ったが。ストーカーになるまで思い詰めるなんて、人の心は複雑で難解だ。
「顔がいい?」
「そうだろう」
「皓弥は、この顔が気に入っている?」
「……まあ、そうだな」
 那智に出逢うまで、男は自分の恋愛対象ではなかった。なので好みだの何だのと問われても首を傾げただろう。しかし那智と関係を持ってから、この男の顔を好みかどうかと尋ねられると首を縦に振るのに抵抗はなかった。
 整った顔であり、見ていて格好良いと思う時も多々ある。目を惹かれる造形なのだから、好みなのだろう。
「そう」
 返事は短いが、那智の顔面は完全に緩んでいた。機嫌を良くさせるために言ったわけではないのだが、お気に召したらしい。
「おまえの彼女なんて言われても、そもそも俺は性別が違うからバレないとは思うけど。それでもちゃんと気を付けてる。帰って来る時だって、あの人がいないか注意してるし、那智と一緒にいなければ大丈夫だ」
「俺がそばにいた方が問題になるなんて、納得出来ない」
「それが現実だ」
 自分がいることが皓弥にとっての一番の安全。
 那智はそう自負を持っていたのは、肌で感じていた。皓弥も似たような感覚だったので訂正しようと思ったこともない。
 けれど今はそれが通用しない。
 那智はもっと文句を言うだろうかと思ったけれど、腕を組んでは溜息をついた。目を閉じては眉根を寄せている。悩ましげなその様に、気の毒にはなるけれど慰める台詞が上手く思い付かなかった。



 那智と共に外を歩くわけにはいかない。だから常に別行動になる。
 休日の度に一人で出掛ける皓弥に、那智は渋い顔をした。周囲に気を付けるように、決して危ないところに行かないように。何かあればすぐに連絡をするように。なんだったら少しばかり離れた位置からぴったりくっついてくるという提案もあった。
(おまえがストーカーじゃねえか)
 散歩を禁止された犬のようと言えば良いのか。とにかく皓弥の行動を知りたがる。別に知られたところで支障はないので、素直に教えているのだが。そこまで心配されると出掛けにくい。
 そして日が落ちると鬼の動きが活発になるので、出掛けるのは明るいうちだけにして欲しいと懇願されてしまう。小学生以下のような扱いだ。
(本来なら俺が心配する側であるはずなんだが)
 ストーカー被害に遭っているのは那智だ。
 女の姿はあれから一度マンションの入り口で見かけた。物陰からしばらく観察したけれど誰に声をかけるわけでもなく、入り口の前でスマートフォンを弄っていた。
 管理人が気が付いて声をかけると、従兄弟と待ち合わせをしていると答えているのが聞こえた。実際その後従兄弟らしき男が来ては二人で去って行った。
 待ち合わせ場所としてマンションの入り口を指定しただけならば、咎めるのも難しいものかも知れない。
「良くない状況らしいですね」
 荻野目が久しぶりに家に来た。鬼の始末を依頼しに来たのかと思ったのだが。どうやら別であるらしい。
 那智から近況を聞いて、様子を見に来てくれたそうだ。
 仕事の合間に立ち寄ったのだと言ってはカステラを渡してくれる。那智が綺麗に切り分けてはほうじ茶と共に出してくれる。カステラは口の中の水分が奪われるイメージだが、しっとりとした生地は口の中で滑らかに溶けていくようだった。
 マドレーヌとは違った甘さと味わいだ。最近焼き菓子に恵まれている。
「人間のストーカーだなんて、困ったことになりましたね」
「どうにか出来ないかと悩んでます。人間相手は警察の領域になりますよね」
「そうですね。残念ながら私たちがどうこう出来るのは人間ではないものなので」
 二人してほうじ茶を飲み、ほうと息をつく。
 那智は黙って皓弥の隣に座っていた。分かり切った会話をただ聞き流しているのだろう。
「皓弥君は身の回りに気を付けて下さい。ここにいるのが危険だと思えばすぐに避難先は用意します。大学に通える範囲でホテルでもマンスリーマンションでも」
 その発想はおそらく那智にもあったはずだ。だがそれを那智は言わなかった。あくまでも避難先は自分の実家だった。
 ことごとく自分の手元に置いておきたいという欲があるらしい。その証拠にこちらの反応をじっと見詰めてくる。
「ありがとうございます。でも俺が彼女だなんてバレないと思うので、お気持ちだけ頂いておきます」
「それは分かりません。ですが無理にとも言いませんので、いつでも連絡を下さい」
 はいと返事をしながら荻野目に頭を下げる。
 こうして心配をしてくれる人が何人もいるというのは、有り難いことだ。隣の男は過保護過ぎるとも言えるけれど。
「それと、人間だけでなく最近鬼もうろついているそうです」
「仕事ですか?」
「まだ分かりません。ですが皓弥君は慎重に行動して下さい。蓮城さんと始終一緒にいられるわけではないのなら、尚更です。何より自分を大切にして下さい」
「分かってます」
 人間の女性相手ならばともかく。鬼相手となると油断は出来ない。うろついていると言われれば、那智も過敏になるだろう。
 益々行動に制限をかけてきそうでうんざりするが、こればかりは拒否出来ない。命が大事なのは当然の話だ。
 荻野目に感謝をしつつ、警戒を強めるだろう那智が暴走しないようにどう誘導しようかと頭を悩まさせていた翌日だ。
 突然の来訪者があった。
 荻野目以外にこの部屋を訪れる者は限られている。双方友人をここに招き入れるつもりは毛頭無い。一体誰かと思っていると、皓弥がある意味恐れていた人物がそこに立っていた。
「春奈さん!?」
「お久しぶりですね皓弥君。お邪魔します」
「まさか、俺のお守りに来たんじゃないですよね!?」
 実家に預けられないのならば、逆に母親を家に呼ぶ。まるでベビーシッターのような仕事を請け負ったのだろうか。
 そこまで幼児扱いされているのかとショックを受けていると、春奈は「違いますよ」ところころと笑った。
 那智の母親であるはずなのに、その様は可憐で相変わらず年齢が分からない。
「私は解決するために来ました」
「解決するため?」
「春奈さんに彼女の代わりをして貰おうと思ったんだ」
「ああ、なるほど。なるほど……?」
 那智が後ろから来てはそう説明をしてくれる。一瞬納得したのだが、母親が彼女の代わり?と思うと強烈な違和感に襲われる。
 那智の横に並んだ春奈は照れくさそうに頬に手をやる。
「大学生のフリはさすがに厳しいので、夜の暗がりに紛れて色々誤魔化そうと思ってます。無茶があるのは重々承知です」
「いや、いけるのでは?」
 先ほども可憐だと思った通り、春奈は成人男性の母親とは思えない若々しさを持っている。
 刀の母親であり、人間とは少し異なる生き物だからだろう。生命力が強いのか、老いるスピードが異なるのか。祖父である昇司も実年齢からは想像も付かないほど力強く矍鑠としているので、そういう血なのだろう。
 大学生に紛れても違和感はそう強くない。雰囲気が大人びている、落ち着いているという印象を受けるくらいではないだろうか。
(美人だから余計にそう感じるのか)
 顔立ちの良さが年齢を曖昧にしている部分もあるだろう。
「そうだと良いんですが。おばさんなのに大学生の女の子の真似をするのは恥ずかしいですね」
 少女のように照れる姿に今度は無意識のうちに頷いていた。
「なるほどな」
 自分では思い付かなかった手段だ。こう来たのか、と自分の母を呼んだ那智を見やると多少苦い顔だった。










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