四




 
 砥峰梨沙菜。女、二十一歳。文学部三年、現在休学中。現住所、電話番号、SNSのアカウント各種。これまでの経歴、家族構成、両親の出身地と軽い経歴、親しい友人関係。そして本人の顔写真が貼られた書類に目を通す。
 那智の記憶に引っかかるものは何一つなかった。そして女に関して特異な部分もない。どこにでもいる、この世に溢れかえったただの人間だ。
 那智、そして那智の彼女に執着する人物。もしかすると皓弥に辿り着こうとしているかも知れない者に関して、那智は鬼か、鬼に類する者ではないかと組織に話を通していた。
 あの女は何者なのか、一度洗って欲しいという要求に組織は早急に動いたらしい。
 思ったより早く、荻野目がこの書類を持ってきた。
「蓮城さんに告白をして、無下にされたことを随分怒っていたそうです。これまで自分は告白される側であり、告白した場合は決して振られるわけがないと思っていたらしく。蓮城さんに見向きもされなかったことにプライドが傷付いたようですね」
「知ったことではない」
「彼女にとっては大きなショックだったようです。私生活にも影響が出て、荒っぽくなったと語る友達もいたそうです」
 荻野目は淡々としていた。那智の交流関係も、誰に恨まれようが痴情のもつれで刺されようが構わないのだろう。
 親友の忘れ形見である皓弥が守られればそれで良い。
 そんな荻野目の分かり易く、必要なものとそうでないものを切り分ける性格は那智にとっては好ましいものだった。
「怒りに目が眩んで、俺の彼女という架空の存在を害そうとしている。大方そんなところか」
「蓮城さんが好きだったなら、ストーカーまがいの行為をしているのでは?貴方に振り向いて欲しいのでしょう」
「もしそうなら、彼女だけを躍起になって探しはしないだろう。あの女は俺にはさして関心がないらしい。もっぱら彼女だけが目的だ」
 過保護だと言われるほどに大切に扱い、甘やかしている存在が誰なのか知りたくて仕方がないのだ。
 それが蓮城那智の急所になり得るから。
「蓮城さんには接触してこないのですか?」
「俺への直接の積極は全くない。ストーカーにありがちな待ち伏せも電話もメールも、勿論手紙類もだ」
 那智と同じ大学なのだから、接触しようと思えばいつでも出来る。それらを一切行わないままだ。
「マンションの入り口でうろついていたのはベランダから一度見かけた。捕獲しようと下りた時には見当たらなかったが。相手が俺に気が付いた様子はなかったから、おそらく偶々だろう」
「この周囲をうろついているのが確認出来たなら、ストーカーとして警察に相談しますか?」
「相談するには材料が足りない。マンションの入り口で住人に声をかけたのが一度、見かけたのが一度。マンションの中には入ってこない。電話や手紙などの接触は一切無し。大学には姿を出していないそうだから、付き纏いとしては弱い。俺はまだ直線顔を見てもいないからな」
「ですが蓮城さんの彼女を捜し回っています。危機感を抱く理由にはなります」
「彼女を探している理由は金を返して欲しいからだと語ったらしい。そんな嘘でも、彼女を別人だと勘違いしていたと言われれば逃げられる。大体警察に頼るのも無駄が多いだろう。万が一にもこの周囲を見回って警戒しますとでも言われてみろ、俺たちの仕事の方が面倒になりかねない」
 深夜に周囲をうろつくのは、何もストーカーだけではない。
 鬼を始末してくれと言われれば、那智も皓弥も夜中に部屋を出て鬼がいそうなところをふらりと歩き回って気配を辿る。それが不審者だと指摘されれば面倒だ。
「……蓮城さん」
「皓弥からは穏便にして欲しいと言われている」
「その通りです。くれぐれもお願いします」
 皓弥の不利益にならないように、危険にならないように。そう念を押しているのだろう。
(言われるまでもない)
 それを誰より望んでいる。



 スマートフォンが鳴った。那智が出る前にあっさりと切れたそれが合図だ。
 エプロンを脱いでは椅子の背にかけて、皓弥の部屋のドアを叩いた。
 皓弥はベッドに腰掛けてはハードカバーの本を読んでいた。のめり込むほど面白い本なのだろう。視線は那智を捕らえたのに一瞬ずれているような印象を受ける。
 気持ちが現実に戻るのにほんの少し時間がかかる。その間が時々じれったくなる。たった一瞬であっても掴み撮れない皓弥が存在というのが、惜しい。
「晩ご飯を仕込んでて買い忘れに気が付いたんだ。だけど今マドレーヌも焼いてて、オーブンを止めると失敗するから見ていて欲しい。皓弥は何もしなくていい、ただオーブンが確認出来る位置で本を読んでいるだけ。オーブンが爆発しない限り、手を出さなくていいから」
 読書を止めるのは気の毒だ。それに皓弥は料理が苦手で、本人もそれを自覚している。
 だから単純に監視するだけだと伝えると、皓弥は「分かった」と腰を上げてくれる。
「マドレーヌまで作るようになったのか。おまえはもう何でも作れるんじゃないか?」
「まだまだだよ。だけど皓弥が食べたいものは作れるようになるから、なんでも言って」
 自分が作ったものが皓弥の体内を満たしては、皓弥を生かす。
 それは那智にとっての充実感に直結していた。この身体で出来る最大限の力を持って、皓弥の心身の安寧を作り出すつもりだ。
「食べたいものはすでにおまえが作ってくれてる」
「それならいいけど」
 皓弥からの誉め言葉に、口元がどうしようもなく緩む。
 近所のスーパーに行ってくるという体で、玄関の鍵を閉めた。そしてきびすを返した途端に、那智の意識は冷えていく。主を抱きかかえあたため守るものから、主を害するものを消し去るものへと、精神の形を変える。
 マンションの入り口にその女はいた。
 書類に貼られていた顔が、出てきた那智に目を丸くした。ここで暮らしているのは理解しているくせに、何故驚くのか。
 黙って近寄ると女は赤く染めた唇で下手くそな笑顔を浮かべる。どろりと濁った眼差しに憎悪がたっぷり含まれていた。
(やはりそうだ)
 予感は的中していた。この女は那智を苦しませるために彼女なんて架空の存在を探していたのだ。
 ならば決して皓弥に会わせるわけにはいかない。
「俺のことを聞き回っていたのはおまえか」
「久しぶり」
「おまえなど知らない」
 憎悪を滲ませながらも女の口先だけは親しげに喋る。それを叩き落とすように吐き捨てると、女は顔を歪めた。
「ほんと、性格悪いよね」
「人のことを嗅ぎ回って、ストーカーのようにこんなところで待ち伏せているのは性格が悪くないのか?」
「別にストーカーじゃないし。この近くに従兄弟が住んでるから、その子と待ち合わせしてるの。たまたま近くに来た時に、そういえば蓮城君がここに住んでるなと思って、目に付いた人にちょっと声をかけたけど。それだって一回しかしてないし」
 従兄弟がこの近くに住んでいる、という情報までは入っていなかった。それだけ従兄弟とは最近会っていないはずだ。会っていれば調査員が情報を上げてくる。
(嘘か、本当か)
 どちらにせよ那智がここで断言出来る証拠はない。
「ここで何度もそう頻繁に待ち合わせをしているのか。その従兄弟とやらは来てないのに?」
「頻繁じゃないよ。なに、私がこの辺りをうろついてるのをよく見るっていうの?残念でした、そんなに毎日来てるわけないじゃん。てか私がどれだけ来てるかとか、蓮城君は把握してるの?してないでしょう?」
「三日前に姿を見た」
「たった三日前。間に二日も空いてる。その前はどこで見かけた?見かけてないよね?いつ?ストーカーなんて言ってさ、酷いよね。たまたまここにいただけなのに」
 こんなものはストーカーに入らない。
 従兄弟と待ち合わせをしているだけだ。
 言い訳を握っているせいで、女は勝ち誇ったように挑発してくる。人の神経を逆撫でするような言い方をわざとしている節がある。
「ねえ、彼女ってどんな人?」
「おまえには関係ない」
「気になるじゃない。私とは付き合わないのに、彼女が出来てから蓮城君は人が変わったって噂だよ。貴方を変えられた人がいるなんて、どんな子なのか見てみたい」
 女は那智を眺めながらゆっくりと近寄ってくる。
「きっとすっごく美人なんでしょうね。あ、それとも可愛い小動物みたいな子?蓮城君がお世話をしたくなるような子だもんね。保護欲を掻き立てられるタイプなんでしょう?」
「何度も同じことを言わせるな。そして二度と俺に関わる話をするな。彼女を探るのも止めろ。迷惑だ」
「探ってないし。ここにいるのはたまたまだってさっき言ったじゃない。今後も、たとえこの辺りをうろついていたとしても、それは従兄弟に会うため」
 無駄に言い訳をつらつらと述べる女は、那智を眺めては目を弓なりにした。
「気に食わないって顔してるね。警察に相談してもいいよ。何も出来ないけど。貴方にも、ましてまだ誰とも知れない貴方の彼女のストーカーなんてしてないもの。何の迷惑行為にもなってない」
「失せろ」
「なんで貴方の言うことを聞かなきゃいけないの?貴方に命令される筋合いなんてない。何様のつもり?」
 ねえ?と蔑むように那智を見やる。憤りを煽っているのは明らかだ。
 それに舌打ちをしたい気持ちにはなるが、実際にそうするのも苛立ちが募る。
「怒って暴力でもふるう?それとも何か脅迫してくる?そうすれば貴方の方が警察のお世話になるんじゃない?私は何もしていないのに」
 上機嫌で女はくるりと身体を一回転させた。スカートがふわりと広がる。
「殴ってもいいよ?すぐに警察に通報するけど。そうなると困るよね?彼女にも幻滅されるかも。女に暴力ふるうような男ってサイテー」
 くすくすと笑い声が零れてくる。
 この女は那智を痛めつけたいのだ。精神的な苦痛を味合わせて、地獄にでも突き落としたいのだろう。
 だから那智本人ではなく、彼女に接触しようとしている。その方が那智には効果的だと察した。
(その着眼点だけは正解だ)
 けれどその正解は、決して選び取ってはならないものだった。
 それは逆鱗とも呼ばれているものだ。
「どうしても引かないつもりか」
「引くもなにもないでしょう?私は何もしていない、何も」
「覚悟の上だな」
「何それ、脅し?」
 必要のない会話をしている。
 相手が人間だからだろう。さすがに鬼や化け物相手とはやや勝手が異なる。
 けれど結末は大体どれも似たようなものだ。
 選択は決まった。考えもそれに伴いすぐにまとまっていく。
 女から視線を外してはその横を通りすぎる。牛乳を買うためにスーパーに行かなければ。出来るだけ早く帰らなければマドレーヌが焼き上がって皓弥がそわそわすることだろう。
 焼きたてのマドレーヌに興味津々になっているだろう皓弥を想像するだけで浮き足だってしまう。
「え、どこに行くの?ねえ。彼女は部屋にいる?誰かに中に入れて貰おうかな。今なら蓮城君の部屋を探し当てて、突撃しちゃうかも知れない」
 煽る女を無視して、足は目的地に向かう。
 たとえその女がマンションンの中に入り込んで、ポストから部屋番号を探し当てたとする。けれど皓弥は決してあの女を部屋に招いたりしない。
 元々知らない誰かを家に上げる、という発想がない人だ。アポなしの場合、門前払いしてくれるだろう。
 そもそも那智の彼女が探されている現状、居留守を使う確率の方が高い。
 それでもこの状況を確認しているだろう調査員の姿を目で探す。発見したそれに無言で頷いた。引き続き女を監視するはずだ。
(これから)
 どう処理していくのか。
 幾つもの可能性を思い浮かべながら「穏便に」と呟いていた。










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