弐




 
 那智と同じゼミの人たちがうちの大学に紛れ込んでいた。しかも那智の彼女を探していた。
 それを那智に伝えるべきか。講義中はずっと悩んでいた。
 本来ならば知らせるべきかも知れない。だが「冷酷」「無慈悲」と周囲から言われているらしい那智に、そのまま教えてしまえば何かしら問題を起こしかねない。
 まして那智は、あまり考えたくないが主のことになると過敏に反応する。
 過保護過ぎる那智を下手に刺激したくない。後々の面倒になりそうだ。
 面倒事は出来るだけ回避したい。
(……まあ、いいか)
 今回は流してしまおう。
 講義が終わる頃にはそう結論づけていた。
 那智と同じゼミ生と思われる三人は大人しく講義を受けていた。特に男子二人は「文系の講義は久しぶりだ」と最初に呟いたきり、真剣に准教授の話に耳を傾けていた。
 不純な動機で潜り込んだ講義だ。いい加減な態度を取るだろうかと危惧していたのだが、聴講態度は他の生徒より真面目だったのではないかと思われる。
 だからこそ、そっとしておこうという気持ちになったのだが。教室を出て行く女子を観察して、那智の彼女を探し出そうとする視線は恐ろしかった。
 逃走中の容疑者を捜索している警察官のような目つきだった。
 絶対にバレないはずなのに、息を潜めてそそくさと退出したものだ。
 一度きりの挑戦、お遊びだろう。
 そう軽く流していたのだが。驚くことに翌週も、その姿を目撃する羽目になった。
 今度は女子一人だけだ。教室の後方、窓際に座っている。
 出入り口がよく見える。そう広くない教室に入ってくる人全員を注視しているようだった。
 ギラギラとデコレーションされたスマートフォンのケースと、目元のほくろ、耳にも三つのピアスがあるので、あの女子だと判断が出来た。
 何より習慣で皓弥も窓際の席に座ろうとしていたので、近くで顔が確認出来てしまった。
(今週も来たのかよ。そんなにあいつの彼女が気になるのか)
 執念を感じさせる行動だ。まさかあの男子二人もこれから合流するのだろうか、と思っていたのだが。講義が終わるまで、あの二人は来なかった。
 女子だけが単独でやって来たことに、嫌な予感がする。
 那智は人格に問題はあるけれど、顔だけは一級品だ。まして心許した相手には世話焼きにもなると、ゼミの人間ならば目にしてしまっている。
 彼女になりたい。
 そんな欲を掻き立てられたとしてもおかしくない、かも知れない。
(……そもそも二週連続で他校の講義に潜り込むってどうなんだ)
 女子は前回も、そして今回も講義内容に興味はないらしい。ずっとスマートフォンを弄っている。時間の無駄であることは明らかだ。
 こんな行為は止めた方がいい。だが忠告しようにも直接声をかけるわけにはいかない。
 どうして那智と同じゼミの人間だと察したのか、理由を話せないからだ。自分の立場など口が裂けても教えられない。
 だからといって那智に事態を話すのも抵抗がある。那智が過剰に反応してこの女子にどんな態度を取るのか予測出来ない。
 下手に刺激して、この女子が逆に躍起になってこの講義に通い詰めるなんて可能性もなきにしもあらずだ。
(……来週もまだいたら、にするか)
 もう一週間だけで猶予を、と決める。そもそもここに通い詰めても那智の彼女が自分だとバレるわけもなく、女子自身が時間の無駄に気が付いてくれることを祈った。
 だがその祈りは空しく、一週間後どころか、三日後に思ってもみなかった場所で女子に出会してしてまった。
(嘘だろ……!)
 まさかのマンションの入り口にいた。
 那智の住所を知っているのはおかしくない、ゼミの中で住所の話題も出てしまうだろう。だからといってこんなところまでやってくるのはマナー違反だ。
 まして皓弥の目の前で、一人の女性に突然声をかけ始めた。同年代と思われる気弱そうな女性を捕まえては「訊きたいことがあるんですけど」と軽い口調で一方的に喋っている。
「蓮城さんって方を知ってますか?ここに住んでて、彼女と同棲しているらしいんですけど」
 ここに来てまでそれを訊くのか。
 髪の長い女性は当然困惑している。このマンションは十階建てで、総戸数は百を優に超えている。同じマンションに住んでいるからといって、住人全てを把握しているのは管理人くらいのものだろう。
 しや、管理人も把握しているかどうか怪しいものだ。
 まして現代社会では隣に住んでいる人の顔も知らないのが珍しくない。皓弥は隣くらいなら知っているが、その横になるとさっぱりだった。
「知りません。あの……通して下さい」
「じゃあ、ちょっと中に入れて貰えますか?蓮城って人に用があるんです」
「え……でも、あの、それはちょっと」
 女性と一緒にマンションのオートロックを抜けようとする女子に、皓弥はつい割って入っていた。
「その人、迷惑がってるじゃないですか。止めて下さい」
 皓弥が割り込むと女性は明らかにほっとしたようだった。しかし女子は反対に目尻を釣り上げて、明らかに鬱陶しそうだった。
「このマンションの住人じゃないですよね。ここで何をされているんですか?」
 女子と距離を詰めては、女性が逃げやすいようにマンションの入り口へとそっと背中を押した。
 すると彼女は頭を下げて中へと入っていく。身体を縮めるような姿勢に、気の弱さが窺える。
「人を探してるんです。蓮城って人と同棲している彼女なんですけど」
「その人に何か用ですか?」
「彼女をご存じなんですか?」
 女子の目が光る。あの女性の代わりに皓弥から情報を取ろうと意識を切り替えたのだろう。まさか本人であるとも思わずに。
「知りませんけど。用があるなら直接連絡を取ったらいいんじゃないですか?こんなところで無関係の他人に突然声をかけるより、その方が確実でしょう」
「連絡が取れないんです。私は貸したお金を返して欲しいだけなのに」
(借りた覚えなんてないが?そもそもおまえは誰だ?)
 勝手に皓弥を借金持ちにした女子は強気な表情を一変させては、不安そうな顔で皓弥を見上げてくる。
 貸したお金を返して欲しくて必死になっている。それがなければ今度は私がとても困ってしまう。だから仕方なくここに来ている。
 そんなストーリーを作り出そうとしているのかも知れない。しかし真実が見えている皓弥にとってみれば、実に薄っぺらい嘘だ。
 鼻で笑い飛ばしたくなる気持ちを抑えながら、腕を組んだ。
「お金が返して欲しいからって、ここで張り付いててもマンションの人たちにとってはただの不審者です。まして声をかけるなんて迷惑行為だ。警察を呼びますよ」
「呼んでどうするんですか?別に私は違法なことなんて何もしてない。たった一人、すがるような気持ちで声をかけただけです。それが警察を呼ばれるほどの迷惑なんですか?そんなの大袈裟過ぎるし、警察だって取り合ってくれませんよ。人を探して一人に声をかけただけなのに」
 警察を呼ぶ、というのが女子の神経に障ったらしい。
 憤りも露わに早口でまくし立てるように皓弥を非難してくる。肩を怒らせて威嚇するような彼女の声は次第に大きくなっていく。
 怒鳴りつけてくる声量が耳に痛い。口を挟む隙も与えない女子にうんざりしていると、マンションから人が出てきた。
 先ほど逃がした女性が、管理人を連れて来てくれたらしい。
 四十代の体格の良い管理人は、女子が怒鳴る光景にも気後れをしない。このマンションの管理人になってから、十数年経っていると聞いた。その間に様々な人間関係のトラブルにも巻き込まれてきたのだろう。
 本職のお出ましと言える。
「ここで何をなさっているんですか?」
 管理人は丁寧な口調ではあるけれど、明らかに威圧感がある。
 女子は管理人の登場に怯んだようだが、管理人を連れてきてくれた女性が状況の説明を始めてしまい、逃げるタイミングを完全に失っている。
 それから管理人の説教が始まり、女子は投げやりな謝罪と共に退散していった。
 反省の色は見えないけれど、このマンションには厄介な管理人がいて、住人に声をかけるのは得策ではない、と理解は出来たはずだ。それだけでもひとまずはほっとした。



 帰宅するとキッチンで那智がぬか床を混ぜていた。
 顔が良い男がするとそんな動作ですらも絵になる。同時にとても脱力してしまい、溜息をついてはついキッチンの椅子に腰掛けてしまった。
 自室に荷物を置きに行くこともせずに目の前の椅子に座った皓弥に那智は目を丸くした。
「話がある」
 どうしたと尋ねられる前にそう切り出すと、那智は「ちょっと待って」と言ってぬか床から手を引き抜いた。ぬかで汚れた手を洗い、エプロンを外しては紅茶の準備をする。
 ティーバッグで良いだろうに、ちゃんとポット、しかもお湯を沸騰させた上でポットを温めるのも忘れない。
 流れるような手際の良さだ。腰を落ち着けて話を聞く体勢を、完璧に整えている。
 一方で身構える時間の猶予を作ったようにも見えた。皓弥がこうして改めて話をしたがることなど、そうないからだ。
 何が飛び出してくるのか、頭をフル回転させているかも知れない。
「それで、話とは?」
 お互いのマグカップを紅茶で満たし、一口飲んでから那智が問うてきた。隣に座る真剣な眼差しに、皓弥は意識して息を整えた。
「おまえと同じゼミの人間が嘉林塚に来ていた。しかも俺が出席している講義に出て、おまえの彼女を探していた」
「どうしてそれが分かったの?」
「俺の隣に座って、おまえの話をしていたからだ」
 それに那智の顔色が変わった。一気に剣呑になった目つきに「待て」と、即座に殺気にも似た気配を制していた。
「俺のことは何もバレてない。俺の隣に座ったのは完全に偶々だ。すごい偶然だと思うけど、男子たちは美人で可愛い年下の女の子を探しに来ていたんだから。俺を見付けられるわけがない。それはいい。いや、いいかどうかは微妙だけど、放置しておいた」
「それが正解だよ。でもなんで俺に言わなかったの?」
「言ったらおまえがその人たちと問題を起こしそうだったから。それにそんな馬鹿なこと、一回で終わるだろうと思ったんだ」
「終わらなかったわけか。そもそもどうして皓弥がその講義を受けているって分かったんだ」
「あの人たちが那智の電話を盗み聞きしたみたいだけど」
「……マナー違反だ」
 低く呟いた声に憤りが色濃く含まれている。あの男子たちが明日もきちんと生き残れることを祈る。
「それで翌週もそいつらは現れたわけだ?」
「現れたのは女子が一人だけ。その上さっきマンションの入り口でおまえの彼女を探しているといってマンションの住人に声をかけてた。明らかに迷惑行為だ、さすがにそれは放置出来なくて止めさせたけど」
「女に何かされなかった?」
「何も。すぐに絡まれていた女性が管理人さんを呼んできてくれたから、引き渡しただけだ」
「……どいつだ」
 那智は皓弥から視線を外しては、そんな行動を取りそうな人物を考えているのだろう。意外と思い当たるゼミ生がいないらしく、眉を寄せている。
 そんな非常識な真似をするなんて、普段の生活からは予測も出来ないような人なのかも知れない。
「目元にほくろがあって、ピアスは左だけで三つ着けていた。小柄で、髪は肩より長いくらいかな、今日はふわっとしたスカートをはいてて、いかにも可愛い感じの服が好きなそうなタイプだったな」
 小動物系というのだろうか。可愛さに力を入れているのが見た目と雰囲気から漂ってくる。
「おまえの彼女を知りたい好奇心か、おまえそのものが好きなのかは分からないけど。家にまで押しかけてくるのは非常識だし、ましてマンションの人に声をかけるなんて不審者だ。ここまでくると黙っていられない。おまえから直接注意して欲しいんだけど」
 度が過ぎる。那智を怒らせるのはまずい、なんて生温い判断は出来ない段階になってきた。
 那智は憤りを強めて、分かったと納得してくれるだろう。
 そう思い込んでいた。
 だが予想に反して那智は黙りこんだまま、眉間のしわを深くした。
「……那智?」
「うちのゼミに、そんな女はいない」










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