壱




 
 専攻している学部に関係なく、どの学部でも自由に履修できる一般教養の講義を受けるために講義室の端、窓際に座っていた。
 この講義は一人で受講していたため、友達はいない。そのためいつも通り本を読んでいるとスマートフォンがメッセージの着信を告げる。
 講義が始まる前にミュートにしなければいけない。ついでにメッセージの中身を確認していると、那智から「今日のおやつ」という文章と画像が貼られていた。
 それは半分に切られた食パンだ。何やら液体に漬け込んでいるらしい。おそらくフレンチトーストだ、以前にもこれを見たことがある。
 今日の那智は休みなので、皓弥が大学に行っている間に仕込んでいるのだろう。
 そして皓弥が帰宅すると、このフレンチトーストを焼いてはにこにこと上機嫌で提供してくれるのだろう。
 そう、皓弥はこれを焼くことすらしない。甲斐甲斐しく世話を焼きたがる那智のおかげで、せいとも言えるが、食事に関しては一切合切任せきりだ。
(最近は炊飯器じゃなくて土鍋でご飯を炊き始めたからな)
 洗った米をセットしてスイッチを押せば、後は文明の利器がほかほかのご飯を炊いてくれるというのに。那智はわざわざ土鍋で米を炊く。
 この時代に何故土鍋という原始的な方法を選ぶのか。
 那智は「その方が美味しいから」と平然と口にしていた。
 言う通り土鍋で炊いたご飯は白く艶々で、米粒の一つ一つに甘さが詰まっているようで美味しい。しかし手間も時間もかかるというのに、そこまで白いご飯の美味しさにこだわる感覚が皓弥には分からない。
 炊飯器で炊いたご飯もまずいわけではない。あれもちゃんと美味しい。土鍋に比べるとほんの少し劣るというだけだ。
 しかしその少しを、那智は気にしているのだろう。
(あいつはどこまでいくんだ)
 料理人にでもなりたいのだろうか。だが他の誰かに料理を振る舞うつもりはないと断言しているので、商売っ気は皆無だ。
 皓弥のため、と言う那智の顔が思い浮かんではありがたさと呆れが半分ずつ込み上げてくる。
「蓮城の彼女って誰だろ」
 講義室が半分以上埋まり始めると、隣に男子が座った。それ自体は何も珍しいことではない。だが聞こえて来た単語に、返信しようとしていた指が止まる。
(蓮城?まさか)
 聞き間違いかと思い視線だけで隣を見る。何千人という生徒が在学している大学、しかも一般教養の講義なんて約束でもしていない限り顔見知りを見付ける方が困難だ。
 なので知らないのは当然として、耳を澄ませて次の台詞を待った。
「あの蓮城が夢中になってる彼女だろ?」
「電話の相手、従兄弟って言ってるけど絶対に彼女だよな」
 痩せてひょろりと背の高い男子と、黒縁眼鏡の男子は間違いなく蓮城と言っている上に、従兄弟という単語に確信した。
 那智は周囲に皓弥のことを、同居している従兄弟だと言っているらしい。
 血の繋がりでもなければ、通っている大学も違うのに同居している理由が思い付かなかったからだ。
「蓮城は電話で従兄弟と喋っている時だけは態度が違う」なんて指摘をされている、と那智本人から以前笑い話として聞いていた。
 興味のない他人に接する際の、那智の冷たさは自分に対するものとは真逆だ。氷点下の冷淡さばかり見ている人たちにとっては、皓弥と電話をする那智の姿はまさに別人なのだろう。
(この人たち、那智とどんな関係なんだ?)
 普段の那智を知っている人が、何故ここにいるのか。
「毎朝低血圧の彼女を起こして、飯作って食わせてるんだろう?出掛ける時はあの車を出して足になってるらしいじゃん」
「あいつがそんなことしてるなんて信じられない」
「でも引っ越ししてから、雰囲気変わったもんな。ちょっと冷たさがましになったっていうか。それまで人間味なんてなかったのにさ。今は人間味が多少はあるもんな」
「多少はな」
「恋は人を変えるんだな」
 皓弥は人間味がなかった頃の那智を知らない。けれど那智を知っている人は口々に那智は変わった変わったと教えてくれる。
 那智自身も、生まれ変わったかのように語る。
 自身が他人を変えられるような存在だとは思わない。けれど那智に対してだけは、どうやら出逢っただけで変えてしまったらしいとは思っていた。
(だからって、こんなところで聞きたくなかった)
 不意打ち過ぎるだろう。
 しかも自分がその彼女だとバレていない状態で盗み聞きをしているのだ。居心地が悪い。
「彼女がどんな人なのか滅茶苦茶気になるのは分かるけど。だからってわざわざ他校に忍び込む俺たちってどうかと思うけどな」
(他校!ということはこの人たちもしかして)
「だって見てみたいだろ。この講義を受けてるってデレデレした顔で電話してたって聞いた時から、気になって気になって!」
(やっぱり那智と同じゼミの人だ!)
 普段那智と関わりのある人なんてごく限られている、その内の最たる人々が同じゼミの院生たちだ。
 他校と聞いた時にまさかとは思ったが、彼女を探しにわざわざ近くないこの嘉林塚まで来たらしい。
 間違いなく物好きだ。
「俺はデレデレした顔で喋ってる蓮城が見たかったな」
「俺も!目を疑う光景だったらしいぞ!」 
 それは俺も気になるな、と内心思ったけれど。見慣れている那智の顔だった時、更に居たたまれなくなる予感がしたので諦める。
「へー」と男子二人の横から微かな相槌が聞こえて来た。
(あれ?)
 男子二人だけで来たのかと思ったのだが、女子も一人いたらしい。
 肩より少し長い髪は器用に編み込まれていた。ピアスを三つ、その内の一つは大ぶりな物を着けている。目元のほくろが幼げな顔立ちにアクセントを加えているようだった。
 男子の隣に座ってはいるけれど、一人で黙ってスマートフォンを弄っていたので無関係かと思っていた。
「今度デレデレしてる時の蓮城の動画撮れよ。拡散してやれ」
 喋る隣の男子に、女子はうんうんと頷いている。視線はギラギラにデコレーションされたスマートフォンに固定されたままで会話には入らないが、耳はこちらに傾けているのだろう。
(よくそんな不純な動機で三人も来たな。スマホ弄ってるってことは女子は興味薄いのかも知れないけど)
 こういう話題は女子の方が食い付くのかと思ったのだが、男子二人に無理に連れて来られたのか。
(もしくは実況みたいに誰かと連絡を取ってるのか)
 蓮城の彼女がどんな人なのか。リアルタイムで誰かとメッセージアプリなどで喋っているのかも知れない。
 恐ろしい想像に自然と身を縮めてしまう。
「彼女の特徴とか知らないのか?」
「美人な年下」
「ここにいるやつ大抵年下だろ」
「それはそう」
「髪は長くて真っ直ぐだ。色は茶色っぽかったな。蓮城の服に付いてた」
「誰だよそんなの見付けた目敏い奴」
 黒縁眼鏡の男子が小さく手を上げる。きりっと顔を引き締める様に、もう片方が「おまえなぁ」と呆れていた。
「そんなことばっかやってんのか」
「だって気になるから。だけどこっからは後ろ姿ばっかだな」
 教室の後ろの方に座っているので、女子を探そうにも背中ばかりだ。
 スマートフォンを弄っていた女子も、手を止めて髪の長い彼女を探している。
 どうやら那智の彼女が見たい気持ちはあるらしい。
「美人は後ろ姿だけでも分かるだろ」
「わかんねえよ」
「きっと守ってあげたくなるくらいに小柄で可愛い美人なんだろうな。あの蓮城が過保護になるくらいなんだから」
 あの蓮城が!と再び強調する。
(……男性の平均身長で可愛くも美人でもない、平々凡々な男だよ)
 そう伝えたならば、三人は驚愕するだろう。いや、そもそも信じないか。
 ゼミ生の中で那智の彼女がどんな人なのか想像が膨らんでいる、という状況がこうして耳に流れ込んでくる彼らのやりとりで察しが付く。
 おそらく儚く可憐な美少女か、目を奪うほどの美女か。どのようなタイプであったとしても、特別な容姿の女性を思い描いているのは間違いない。
 その時点で決して真実に辿り着くことはなく、また辿り着いて欲しくもないと祈るばかりだ。
 フレンチトーストが美味しそうだと那智に送ったメッセージの返信が届き、画面へと視線を戻す。
 そこには『苺もつけるね』と書かれてある。
(苺かぁ…隣の三人にこの画面を見せたらどうなるんだろう……)
「彼女を見付けたら、蓮城の弱みを聞くのにな」
「それな!そのために来たようなもんだよ!」
 普段この人たちは那智にどんな目に遭わされているのだろうか。
 揉めていないことを願うばかりだ。
 どうしてそんなに弱みを握りたがるのか。ちらりと横を見ると女子が真剣な目で頷いた。
「弱みね」
(いや、本当に。あいつは何をしてるんだ)
 女子の声があまりに真剣だったせいだろう。男子二人が女子に顔を向ける。
 まさか那智とトラブルを抱えているなんて言わないだろうな、もしそうなら止めてくれ。と心の中で祈る。
 男子に何か語ろうとした女子を止めるかのように、講師が教室に入ってくる。
 聞きたかったような、聞きたくなかったような。複雑な気持ちで彼らから視線を外した。
 賑やかだった室内が次第に静かになっていく。
(三村と見笠がいなくて良かった)
 もし二人がいたなら、三人の会話を聞いて必ず皓弥を見ただろう。それどころか彼らが想像する彼女と懸け離れた現実に噴き出していたかも知れない。
 それによって芋づる式に皓弥が彼女だとばれてしまう危険性もあったはずだ。
 一人で良かったと、胸を撫で下ろしながらも、この気まずさを誰とも共有出来ないもどかしさがあった。










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