七




 
 ゼミの飲み会だと言うと皓弥は少し笑った。それは那智がだだをこねることが分かっているからこその、苦笑いだ。
「行って来いよ。普段冷たいんだから、そういうのにも参加しとかないと」
 那智が大学のゼミ生たちに随分素っ気ない態度を取っていることを皓弥は垣間見ている。人付き合いが好きでない那智にとって飲み会なんてものは無駄でしかないものだ。それを周囲も分かっている。
 だが皓弥だけは、那智にもそういう集まりに参加して周囲とコミュニケーションを取ることも大事だと思っている節があった。それは世俗に生きる人間としては間違った認識ではない。
「たまになんだから」
 那智の表情が陰っているからだろう。皓弥は肩を叩いてはそう諭してきた。渋った態度を取ればもっと皓弥は那智に構ってくれるのかも知れないが。さすがに気が引ける。
「我慢して、頑張って来い」
 そう励ましてくれる皓弥に嬉しさと罪悪感が込み上げる。
 ゼミの飲み会というのは嘘だ。
 こうして嘘をつくことはたまにあった。それは那智単独の仕事が入った場合だ。
 皓弥と共に行う仕事は那智単独のものに比べるは難易度が下がる。那智が皓弥を守ることが十分に出来る範囲のものにすることを荻野目には約束させていた。
 荻野目にとっても皓弥を守る上でその約束は有り難いものだっただろう。
 双方の利益の元、皓弥には知らされていないが仕事の中身は選別されている。
 だがその条件から外れた仕事というものは当然ある。中でも人間には荷が重いとされるものが、時折那智の元に舞い込んできた。
 そんな時はこうして皓弥に黙って動いている。
 けれど今夜に限って仕事ではなかった。
「非常に不本意だけど行ってくるよ。皓弥は絶対に外に出ないで、鬼がうろついているかも知れないから」
  「分かってる。元々夜にふらふら出歩いたりしない」
 鬼は夜に活発に行動をする。なので那智に出逢うまで皓弥は夜には極力外には出ないように暮らしていたらしい。自身の安全を考えれば賢明な判断だ。
 それを知ってから、夜にコンビニに行こうかなと皓弥が口にすることが那智の喜びだった。那智に、一緒に行こうと誘ってくれていることに等しいことだと聞こえていた。
 事実その通りでもあったのだと思う。「俺も行くよ」と言った時の皓弥は昼間と違ってほっとしている印象だった。
 自分を頼ってくれている。安心に繋がると信じてくれる。そのことにいつも心は舞い上がる。
「俺のことは気にせず行って来いよ」
 背中を押してくれる人に、足取りは重くなる。ここから離れたくないという気持ちが沸き上がるけれど、行かなければいけない理由もまた皓弥のためなのだ。断腸の思いで玄関に立った。
「いってきます」
 そう告げると皓弥は少しばかり微笑んでくれる。
「いってらっししゃい。気を付けて」
 身を案じてくれる言葉に少し驚いた。案じるのは自分ばかりだと思っていたけれど、送り出す立場の者として、きっと皓弥は何気なく告げたことだろう。その証拠に驚いた那智に怪訝そうだった。
「ありがとう」
 感謝の言葉の意図を皓弥は理解はしないだろう。だからこそ、これから自分がすることは決して見せるわけにはいかなかった。
 


 スマートフォンにそれの現在地が送られてくる。これまでそれが発見された場所から調査員が推測し、導き出した範囲内で現在移動しているという報告を受けて、那智も目的地へと車を走らせる。
 連絡を送ってくる調査員とは仕事を通じてやりとりしているのが主だけれど、今回は個人的に呼び出した形だ。那智の予想を伝えると快く動いてくれた。
 その働きも納得が出来るものだ。人選に間違いはなかったらしい。
 酒造会社の巨大な工場の裏に車を止める。夜になれば人通りはほとんどない。近く に小さめながらも駅があるというのに、住宅街の反対側に来れば閑散たる有様だ。
 高い建物に隠されて、圧迫感のある闇が道を覆っている。街灯の弱々しい光では閉塞感のある夜道を照らし出すことは難しいだろう。
 車が二台ぎりぎり通れる幅の道に出て、那智は静かに辺りを窺う。まだ寝静まるには早い時刻なのだが、人気がないせいか丑三つ時のような錯覚すらあった。
 調査員から送られて来た場所へと足を向けると、斜め前から淡く気配が感じられた。それは次第に那智に近付いてくる。双方から共に距離を詰めているせいで、出会うのにそう時間はかからなかった。
「どこ行くんだよ」
 数日前と同じように、皐月が軽く声をかけてくる。金髪だったのならばもう少し早い段階で姿が見えただろうが、黒髪になったせいで暗い夜道に紛れてよく見えない。
 だがその気配だけは数メートル離れていても、間近にいるかのように鮮明だった。
 生粋の鬼が放つ鮮烈な気配は夜の暗さなどには混ざらない。
「どこでもいいだろう」
「そんなこと言ってもな」
 気安く喋りかけてくる皐月の声を遮るように、スマートフォンに新しい通知が入る。調査員から送られて来た新しい現在地は、那智が立っているこの場所だ。
「なるほど、もういい」
「は?何が」
 不審そうな顔をした皐月を前に、右手を軽く振った。身の内から刀が一瞬で生み出されては、柄が掌に吸い付いてくる。皓弥に刀を渡すならばともかく、自身が振るう場合は、身体の一部を扱うようなものだ。
 刀を想像するだけでそれは掴み取ることが出来る。
 皐月が刀の存在を目視したかどうか、という段階で那智は一気に皐月と距離を詰めた。息を呑ませる間もなく、皐月を切りつけた。とっさに胸元を庇い、皐月は腕を胸の前で交差させた。刃に肉が切り込んでいく感触が伝わってくる。
「那智!てめえ!!」
 吠える皐月の牙が鋭く尖っているのが見えた。切りつけられたことにより、捕食の本能が刺激されたのだろう。肉を噛み千切るために歯が変化したのだ。
 鬼らしい変化に那智は斬りかかった時よりも早く、後ろへと飛び退いた。皐月の手が反射的に那智に伸びても届かない位置に足を付けて皐月を見ると、切りつけた左腕はまだ繋がっている。感触として刃は骨まで入っただろうが、斬り落とすまではいかなかったらしい。
「浅いか」
「はあ!?」
 生々しい肉の断面を晒しながら、皐月が右手で千切りそうな左手を支えようとすると、工場の植え込みから黒い影が飛び出して来た。
「うわっ、マジか!」
 黒土の式神が今にももげそうな腕の切り口に噛み付いていた。それは那智が初めて見た時のように、澄ました顔で立っていた少年のようなものではない。野犬と言ったほうがまだ近しいような、浅ましく醜い貪欲な獣だった。
「本気で出て来んのかよ!」
「まるで餓鬼だな」
 皐月は食い付いた式神の頭を掴んだ。爪がこめかみに食い込むのが見えるが、式神は肉に喰らい付いて離さない。目は真っ赤に染まり、両手でしっかり皐月の左腕を掴んでいる。
「こいつ、肉を噛み千切るつもりか!」
「頭を壊すなよ」
「めんどくさいこと言うんじゃねえ!」
 皐月が式神の頭を握り潰そうとしているのが見て取れて、制止をかけると文句が跳んでくる。そうしている間も式神は皐月の肉へ牙を埋め込んでいく。
「くっそ、こいつマジで離れねえ。ペットの分際で!」
 皐月は式神の顎を掴んだ。そしてその顎を引き下ろす。おそらく完全に外れたのだろう、式神が肉から牙を外したけれど、断面はかなりえぐれていた。どうやら肉の一部をしっかり食したらしい。
 滴り墜ちる血が式神の顎から下を濡らしていく。真っ赤に汚れたそれは、鬼以外の何物でもない。
 式神は顎が外されたというのに、それでも皐月に噛み付こうとしていた。食欲に支配された行動には、思考力などというものは残っていない。
『もういい!戻れ!』
 式神から黒土の声が響いた。音声が出る何かしらの小型の機械を持たせているのだろう。式神は黒土の命令にぐらりと頭を揺らした。迷いが一瞬出たようだ。
 皐月はそんな式神の首を掴んでは鬱陶しそうに腕から引き剥がした。人形のように軽々と持ち上げられては式神はアスファルトに投げつけられる。
 身体を叩き付けられて衝撃があっただろうに、式神はすぐさま立ち上がっては即座に消え去った。黒土の言う通り逃げ足は随分と早い。
 皐月は食い千切られた腕の断面を見ては舌打ちをする。
「くっそ、いきなり切りつけるやつがあるかよ!しかも俺の腕を切り落とすつもりだっただろう!」
「おまえにいちいち声なんてかければ警戒される可能性がある。それに腕の一本くらいあれにくれてやれば良かっただろう」
「ふざけんな!腕の一本生やすのにどれだけ時間がかかると思ってんだ!その間片手で生活しろってのか!」
「京都に帰れ」
 桔梗の元に戻れば不自由なく暮らせるはずだ。だがその分辛辣な説教を聞かされる羽目にもなるだろう。
 皐月は顰めっ面で左腕を元通りにしようと断面をくっつけている。えぐられた肉の部位だけが欠けているけれど、それもみるみる内に血が止まりかさぶたのようなものが作られていった。
 那智は皐月を喰らうつもりはなく、単純に切りつけただけなので、皐月もそう損傷を受けていないことだろう。喰らっていたのならば切りつけた腕の周辺は灰と化して、簡単に接着することも出来ない。
 さすがに本気で喰らうために斬り付けていたのならば、皐月もこうして那智とまともに会話することは出来ないはずだ。式神など放置して、殺し合いに発展する。
 本来ならばその方がずっと真っ当な関係だ。
「逃げたあれ、本当に面白いことになるんだろうな」
「さあな」
 式神が去った方向を見ながら、皐月が懐疑的な目をしている。投げやりな返事をしながらも、逃げ去った時の式神を思えば結末は分かりきっている。
「しかし、あんだけで逃げるとか。マジで何しに来たんだろうな」
 皐月はようやく繋がったらしい左腕を軽く回しながらそう口にする。違和感があるらしく顔を顰めて左腕を眺めている。
「すぐに分かる」
 どうせあれはそう待っていられない。服が自身の血で汚れていることに気が付いた皐月が「うわっ」と短い悲鳴を上げているのを無視して、那智は再び歩き出した。










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