五




 
 気持ちが悪い。
 鬼を孕ませるような人間も、生まれて来た鬼子に鬼を喰わせることも、それを式神として使うことも、全てが受け付けられない。
 鬼というものは皓弥にとって憎悪の対象だ。この世から根絶してしまいたいと願っている。あんなものが存在している限り、この心が完全に安まることはない。
 けれどその対象である鬼をあんな風に扱うことは、決して歓迎出来るものではない。憎しみはあるが、玩具のように扱われているそれを見て喜ぶような趣味は持っていない。
 そこまで性根が曲がってはいない、と思う。
(鬼に関わったり使ったりすることで、自分もそれらになってしまうのだとは思わないのか)
 鬼を道具にしている人間が真っ当と言えるのか。
 少なくとも皓弥にとってそれは、人間として胸を張って生きられることだとは思えない。
 むしろ鬼と同等のものに墜ちた気分にすらなるだろう。
 最低な気分を少しでもすっきりさせたいと思い、いつもより多少長めに風呂に入った。けれどやはりうんざりとした何かは身体の中に残ったまま、鬱々とした気分が晴れることはなかった。
 寝間着を着て脱衣所から出ると、那智がドライヤー片手に待ち構えていた。
「髪を乾かしてあげる」
「いらん」
「ほら、座って」
「人の話を聞く気がないな」
 いらないと言っているにもかかわらず、那智は皓弥をリビングのソファに座らせては背後からドライヤーで髪を乾かしてくる。
 母親に似せて長く伸ばした髪は、乾かすのが手間だ。那智に会うまでは面倒だからと濡れたままよく寝ていたのだが、那智と同居してからはそれも出来なくなった。
 濡れたまま放置していると必ず那智がドライヤーを構えるからだ。手間だと思うなら俺がやると言って聞かない。
 人に髪を乾かして貰うなんて、子どもみたいなことはさせられない。なのでいつもはちゃんと自分でやっているのだが、今日は気力が尽きてしまっているのを見抜かれたのかも知れない。
 黒土と話しただけで精神的に疲れていた。
(勘が鋭い)
 那智は皓弥のことをよく見ている。
 それに居心地の悪さを覚えることも多々あるのだが。有り難いと感じることが多いのもまた事実だ。
「関わらないように気を付けて、出来れば忘れてしまったほうがいい」
 那智はドライヤーを一つ弱めると、そう言った。一体何のことであるのか、尋ねるまでもない。
「分かっている」
 黒土の話など覚えていても何の利益もない。ただ気持ちが悪くなるだけだ。
 そう分かりながらも、あの薄気味悪い生き物は強烈なまでに皓弥に焼き付いてしまっている。
「排除出来ればいいんだけど、あれは厳密には鬼じゃない。あの男の式神として使われているから難しい」
「無理だろう。商売道具だと言われれば、同業者が式神を殺すわけにはいかない」
 鬼を殺すのが役割ではあるが、あれは同業者が持っている道具だ。いくら危険そうに見えても、下手に手を出せば余計な揉め事に繋がる。
 万が一、黒土に対する嫌がらせや嫉妬を疑われた日には目も当てられない。
「人間に危害を加えれば鬼としての始末は出来ると思うけど」
「でも俺が近寄っても襲ってこなかった。見ては来たけど、食欲はないようだな」
 ただの鬼ならば贄の血を感じれば即座に襲いかかってくるようなものだが。式神は皓弥を注視はするけれど、ぎらついた食欲は見せなかった。身動きもせずにじっと待機していたのだから、純粋に鬼というにはやはり異なるものなのだろう。
「半分人間だからかな。普通の鬼とはやっぱり違う。というか人間の鬼の間に子どもなんて」
「人間の女に鬼の子を産ませることは出来ないけど、鬼の女に子を産ませることは出来るからね」
「……考えたくもない」
「それが正しいよ」
 那智はドライヤーを止めては櫛で皓弥の髪をとかす。優しい手が髪を梳いてくれているのを感じていると、とろとろとした眠りがゆっくりと訪れる。
 夜食が欲しいなんて思い立ち、出掛けた先でろくでもない者に出会したせいで失念していたが。時間はとっくに深夜を回っている。いつもならば寝ているような時刻だ。
 欠伸をすると那智が髪を梳く手を止めた。
「もう寝ようか」
 そう声をかけられて振り返ると、柔い眼差しがあった。皓弥を包み込んでくれる感情がそこにはたくさん込められていた。
 黒土が羨ましいと言ったあの声に、そうだろうと返事をしてやりたくなる。今の自分は少し傲慢かも知れない。



 リベンジとして翌日の昼間にラーメン店へ足を運んだ。
 夜泣きラーメンを食べに行ったら店主が鬼に殺されていたなんて、トラウマになりそうなものなのだが。皓弥の人生にとって鬼に喰われた人や鬼に関わったことの全てをトラウマにしていれば生活など出来ない。
 嫌なことがあったならば、出来るだけ別の出来事で上塗りしていく。それはさっくりと楽に生きていく術だ。色んなことに縛られていられる余力はない。
 とんこつラーメンが売りであるその店は休日ともあって混雑していた。二人が行った際にはまだ昼飯時には早かったので待つことはなかったのだが、席に案内されてすぐに外には列が出来始めていた。
 窓際のテーブル席に座り、注文したシンプルなとんこつラーメンがやってきた、その直後だった。箸を付けた皓弥の隣に誰かが突然腰を下ろした。
「春日」
 長い黒髪を背中の中程まで真っ直ぐ伸ばした少女がそこに座っていた。涼しげな鼻梁は人目を惹くには十分なものだが、勝ち気であることはその意志の強そうな瞳から感じ取れる。
 初めて会った時は女子高生だったが、進学して現在は女子大生か。服装も多少落ち着いたものになっており、白いブラウスに細身のデニムという格好だ。
「久しぶり。あ、注文お願いします。とんこつラーメン大盛り、あとデザートに杏仁豆腐」
「勝手にここに座るなよ」
「いいじゃない。お店混んでるのよ。あたしだって連れがいるからって入って来たのに」
 おそらく店の前を通った際に二人が見えたのだろう。相席するからという条件で待ち時間を短縮した春日はご機嫌だ。
 久しぶりとは言ったが、春日からはたまにメールが送られてくる。主に仕事に関する情報のやりとりがメインだ。
 同業者、年も近い上に那智とも面識がある。細く繋がっている分には問題のない相手だった。
「せめてこちら側に座れ」
「那智の隣とか怖いんだけど」
「そこにいるとずっと睨み付けられる羽目になるが?」
 まさに那智は春日をじろりと睨んでは顔を顰めている。春日が「うわ」と思わず言ってしまった心境もよく分かるほど、剣呑な雰囲気が漂っている。
 渋々という様子で春日は腰を上げて、那智の隣に移動はした。けれど隣を見ては嫌そうな表情で溜息をつく。
「威圧感がすごい。少しは控えてよ」
「嫌なら出て行け」
「そんなこと言っていいのー?今日は暇だから二人に会いに来たわけじゃないのよ」
 ふふんと春日は那智を鼻で笑った。しかし戯けた雰囲気があるせいか、それとも幼さの残る言動のせいか、その態度はどことなく可愛らしさのようなものを帯びていた。
「何かあったのか?」
「あったというか、この辺りに天然が出てるって知ってる?」
「なんだそれか。ちょっと前のことだろ」
 天然が出たという情報はすでに知っている。今更春日に言われるまでもないことであり、ましてそれは過ぎ去ったことだ。
 拍子抜けしていると春日は「違うわよ」と戯けた雰囲気を消した。
「前じゃない、まさに今よ。昨日の話なんだから」
「昨日?」
「見たって人がいるらしいの。天然だって察してすぐに逃げたから、詳しい特徴までは分からないけど、ぱっと見は男に見えたって」
(皐月とかいう、あの少年か?)
 天然の男と言われて真っ先に出て来るのが皐月だ。
 戻って来たというのか。
「皓弥も天然を探してるんでしょう?」
「俺が探しているのはたぶんそいつじゃない」
 皓弥が母親の敵討ちのために天然の鬼を探していることは春日にも伝えている。けれど面喰いは母親の顔をしているのだ。背格好もそれに合わせて変えることが出来るらしい面喰いは、一瞬見ただけで男だと分かる姿ではないだろう。
 母親はどちらかというと男顔ではあったけれど、それでも女性らしさは持っていた。男だと完全に分かる様では違和感があるはずだ。
「違うのか。天然なんてそうごろごろしてるものじゃないから、皓弥にも伝えたほうがいいかなって思ったんだけど。でも最近この辺り鬼が増えてるみたいじゃない。あたしもこっちに駆り出されることがあるし」
「春日もこっちに来てるのか」
「最近ね〜」
 担当している地区が違う者も引っ張って来なければならないほど、鬼が集まっているのか。
 考えるだけでぞっとする。それが自分のせいかも知れないと思えば、より一層だ。
「あ、来た来た」
 自分の体質を何度呪ったことか分からない。けれどやはり飽きることもなく同じ苦悩がこみ上げて来た皓弥の前で、春日はやってきたラーメンに目を輝かせた。
 箸を付けては盛大に麺をすすっては「美味しい!いけるじゃない!」と声を上げては美味しそうに食べている春日を見ていると、思い悩む気持ちも薄らいだ。
 ご満悦な人間を前にして、一人で落ち込むのも馬鹿馬鹿しい。
 春日につられるようにして、残り少なくなっていたラーメンをさっさと食べ終わる。少し伸びてしまっているが十分に美味しいと感じられた。トラウマ払拭のために来たのだが、十分に価値があった。
「天然を探している同業者については聞いたか?」
 春日がラーメンを半分食べて、お冷やに手を付けたところでそう切り出した。
「鬼を探している同業者なら聞いたわ」
「探している鬼は天然らしい。式神使いらしいんだが。その式神が、鬼なんだ」
 再びラーメンに箸を付けた春日が止まった。そしてあからさまに眉を寄せては不快感を示してくる。
「なんでそんなもの」
「人間と鬼の子どもらしい。それを式神として教育して、使っているんだとよ」
 春日は鬼と人間の子どもだと聞いて盛大に顔を顰めた。清楚そうに見える容貌に険が立つ。
「悪趣味。よくそんな不安定なものを使うわね」
「不安定か」
「そりゃそうでしょ」
「鬼だから、いつ裏切るか分からない?」
 人間に支配されるなんてもっぱらごめんだ。人間は食い物じゃないかと、半分はあるだろう鬼の本能で思っているのではないか。
 そんな疑問が皓弥の中にはずっと渦を巻いている。
「そう、鬼なんて手元に置くべきものじゃないわ」
 春日の意見は皓弥のものと同じらしい。それにちょっとほっとしてしまった。
 自分が神経質なのだろうかとも思ってしまったからだ。那智が泰然としているだけに自分が小心者で怖がりなのかも知れないなんて、少し情けなくなっていた。
「二人は会ったの?その式神使いに」
「会った。まだ若い、二十歳過ぎの男だった。式神は中学生くらいの少年に見えた。普通の人間みたいで、だからこそ気味が悪い」
「ふぅん、しかも天然の鬼を探しているわけか。何のために?力比べ?」
「そんなところだ」
 まさか天然を式神に喰わせるためだとは言いづらい。
 生理的嫌悪を抱くだろう話を、自分から伝えるのは気が進まなかった。まして食事中にこれ以上不愉快な思いをさせると食欲も減退してしまう。
 第一春日がそこまで知る必要もないことだとも思う。
「よくやるわ。死ぬだけじゃない」
「そうだな」
 それが正しい判断だ。理性的、正常な答え。
 いくら死んでも良いと思っている式神であったとしても、無駄死にさせることに意味なんてないだろう。
 春日がラーメンを食べ終わるとデザートの杏仁豆腐が運ばれてきた。四角い真っ白なそれはテーブルに置かれる際にぷるんと震えた。相当柔らかいのだろう。
「んー!美味しい!何これ、すっごく美味しい!ラーメンを超えたかも」
「へえ」
 皓弥にとっては美味しいラーメンだったのだが、それを超える味がする杏仁豆腐であるらしい。春日の味覚の好みにもよるだろうが、そこまでかと少し興味が沸いてしまった。
 それを感じ取られたのかも知れない。春日がスプーンで杏仁豆腐を一口すくっては皓弥へと突き付けてくる。
「食べる?」
「いや、いいよ」
「美味しいわよ。一口くらい食べてみたら?」
 片手で数えられるほどしか会っていない異性に対する態度として、春日のやっていることは許容範囲に入ることなのだろうか。
 年の近い女性との関わりがあまりない皓弥にとって、春日との距離の計り方はよく分からない。親しくしようとしてくれていることは分かるのだが、一つの食べ物を分け合うのは常識に外れているのかいないのか。
 戸惑っていると、那智が片手を上げた。
「すみません、杏仁豆腐一つ」
 通りかかった店員を呼び止めては杏仁豆腐を注文する那智に、春日が目を丸くした。
「那智、それは俺の分か?でもちゃんと一つ食べられるかどうか」
「食べられなかったら残りは俺が食べるよ」
 ラーメンで腹は膨れている。元からそれほど食欲が旺盛ではない皓弥にとってデザートまで綺麗に平らげられるかは不安があった。
 残りは食べると言われても、他人の食べかけを引き継ぐ行為は、それもそれで果たして常識の内に入る行為なのか。
(那智に対してそんなことを気にすること自体、もはや無駄かも知れないけど)
「あたしが杏仁豆腐を一口あげることも許せないってわけね。そんな真顔で拗ねるの止めたら?」
 春日が心底呆れたという様子で言うのだが、那智は完全に無視している。けれどその澄ました様子も、拗ねていると言われればそんな気がする。
 何より否定せずに明後日の方向を見ているところからして、図星なのかも知れない。
「那智ってこんなやつだったっけ?」
 首を捻った春日にそう問いかけられるのだが、皓弥には上手く答えることが出来なかった。










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