そろそろ風呂に入って寝ようかと思っていたところだった。風を取り入れるために開けていた窓から珍しい音が聞こえてきた。 「夜泣きラーメンだ」 夜にラーメンを売り歩いているチャルメラの演奏が薄く流れてくる。 昭和の時代ならば大八車にラーメン屋台を乗せて街中を歩いていたらしいが。現代ではバンの中に小さな厨房を組み立ててラーメンを作っているタイプが増えたそうだ。それにしても耳にするのはかなり久しぶりだった。 (そういえば見笠がこの前見たって言ってたな) 大学の友人が、道端に突然現れた屋台を目撃してびっくりしたと言っていた。見笠は夜泣きラーメンを見たのは初めてだったらしい。 皓弥も小学生の頃に母親と一度食べたきりだ。 「珍しい。ここに来てから初めて聞いた」 那智も興味を引かれたのか窓の外に目をやっている。 「……食べに行くか?」 「いいよ」 晩飯はちゃんと食べたけれど、ふとチャルメラを聞いてラーメンが欲しくなった。夜食を求めることなんて滅多にない皓弥の提案に、那智は微笑みと共に頷いてくれる。 二人で部屋から出ては、チャルメラが聞こえた場所へと足を運ぶ。音は唐突に途切れていたけれど、あの辺りだろうと目星を付けた公園へと通じる広い道路には確かに屋台があった。 白い移動販売車の側にはご丁寧に丸い椅子が三つ置かれている。車には提灯が吊されており、簡易的な屋台になっていた。美味しそうなラーメンスープの香りは漂ってくるのだか、何故か車の近くにいた男が首を傾げては皓弥たちの方へと歩いてきた。 随分怪訝そうな顔をしている。 その理由は車に近付いて分かった。無人なのだ。 提灯も付いている、中には本格的なガスコンロ、近くには巨大なプロパンガスも鎮座していた。寸胴鍋などの調理器具もあり、スープの香りも漂っている。 営業している雰囲気はある。今にもどこからか店主が来ては、気軽に声をかけてきそうなものだが。周囲には誰も見当たらない。 忽然と消えてしまったかのようだ。 「どうしたんだろう」 奇妙な空気だった。 那智を振り返ると、明後日の方向を見ている。公園の近くに何かを見付けたかのようだが、街路樹に阻まれて何も見えないはずだ。 「……まさか」 那智が目を眇めた様に、予感がした。 そして少し遅れて背筋がざわめく。嫌な感覚が波のように漂って来ては皓弥に一つの可能性を抱かせる。 不快感に、警戒心が募っていく。那智は皓弥を見ては苦笑を浮かべた。その表情に自分が感じたことは正解なのだと分かる。 「……間に合う、だろうか」 「分からない。手遅れだと思った方がいいかも知れない」 「放置するのも俺は嫌だ」 「じゃあ行こう」 見て見ぬ振りをしたところで、近所ならばいつかは遭遇することだろう。それならば、もしかするとまだ店主は生きているかも知れないという淡い期待を抱きたい。 (鬼にまだ殺されていない、そう願いたいものだな) 那智は躊躇いなく公園へと歩いて行く。鬼がどこにいるのか、捕食者である那智はその気配に敏感だ。 自分の獲物に対して、捕食者のアンテナはとても鋭い。皓弥の血に鬼が反応するように。 公園を囲っている背の低い柵の足下に、それはあった。うち捨てられたのだろうボロボロの車に隠れるようにして、うずくまっていた。 ゴリゴリと聞こえてくる鈍い音は骨を咀嚼している音なのだと、気が付いた時には吐き気がこみ上げて来た。 那智か、もしくは皓弥の気配に気が付いたそれが振り返る。男だったと思われる鬼は、江戸時代の妖怪絵巻に描かれている鬼のように顔面が歪んでいた。飛び出た目玉、大きく裂けた口から人体の一部がだらりと垂れ下がっていた。 食事中らしい鬼は、皓弥と目が合った途端に口を開けた。ずるりと肉が口の端から滑ってはアスファルトの上に落下する。鋭い牙が見えては、荒々しい呼吸を響かせる。 自分が捕まえた人間より皓弥の方が美味そうに見えたのか、姿勢を低くして飛びかかろうとする。那智と手を合わせ、そこから刀を引き抜く。鬼の動きは遅く、牙を避けるのはあまりにも簡単だった。 「こんなことだろうとは思った」 予想が外れなかったことは残念だ。 襲いかかる鬼の首を斬り落としては、飛び散る血飛沫が灰に変わる様を見やる。 那智も刀を抜いていたが、何故か灰になって消えていく鬼ではなく公園の先を睨み付けていた。 「那智?」 警戒していることは全身から滲み出していた。鬼は始末したのに何を睨んでいるのかと思っていると、薄暗がりが動いた。 「あれ……あの男だ」 公園に植わっている大きな桜の木の下を通って、薄暗がりにいた者が街灯の下に現れる。白いワイシャツに黒のスラックス。皓弥が前に見た時とほぼ同じ格好をした男が、一人の少年を連れている。 その少年を見て、皓弥は言いようのない違和感に襲われては刀の柄を握り締める。 (なんだあれ) 見た目は中学生くらいの、ただの人間だ。表情はなく人形のように無機質な印象ではあるが歩いている動きにおかしな部分は見当たらない。なのに何かが決定的におかしいと感じる。 (気配が鬼に近い) あの少年から感じるものは、鬼に対して抱くものによく似ている。何故か分からないが、それは人間ではないと全身が訴えてくる。 「那智」 「あれは人間じゃない。近寄ってはいけない」 那智は皓弥より一歩前に出ては皓弥を庇うような体勢を取った。あの少年が何か分からないので、どんな行動を取られても皓弥に直接危害が加えられないようにと配慮したのだろう。 那智を盾にするような真似はしたくないと、隣に並ぼうとしても手で遮られる。 「鬼にとても近い、絶対に皓弥は接触しちゃいけない」 贄の血を嗅ぎ取らせるな、絶対に血を流すなと注意される。怪我でもすれば事態は一気に悪くなる。だから大人しくしろと言われて、渋々那智の後ろに控える羽目になった。 「こんばんは、またお会いしましたね」 男はゆったりと歩きながらそう声をかけてくる。あの時のように、やはり得体の知れない笑みを貼り付けていた。 (会うかも知れないとは思った) 鬼を探しているのならば、鬼を始末する仕事を請け負っている皓弥が出会うこともあるかも知れない。面倒なことだが、有り得ることだと覚悟はしていた。 けれど仕事でもないというのに遭遇してしまうのは正直不運だった。 「止まれ。おまえは何だ」 切り込むような冷たく尖りきった声で尋ねる那智に男は足を止めた。 「私は黒土と申します。こちらは私の式神です」 黒土はそれを式神だとあっさり口にした。式神について、使い手はあまり明かしたがらないとは聞いたのだが、ただの人間だとしらを切らないところを見ると知られても構わないと思っているのか。 (それにしてもよく似てる) 式神だと言われた少年はよく見ると黒土に似た顔立ちをしている。微笑めばきっとそっくりなのだろう。 しかし凍り付いたような表情は決して微笑むことはないのだと、何故か確信が持てるものだった。 「鬼のくせに鬼を喰っているな」 那智はいきなりそう言い放った。 鬼と指摘しただけならばそう驚きはしなかっただろうが、鬼を喰っていると断言したことに皓弥は耳を疑う。けど黒土は驚いた様子もなく首を縦に振った。 「さすがは蓮城さん同類だからそういうことも分かりますか」 (同類……) 那智は鬼を喰う。けれど目の前にいる人間のような鬼と同類と言われたことに胸の内にざらりとしたものが過ぎる。 そんなものと一緒にして欲しくはない。 「ここにはどんな同業者がいるのか、調べさせて頂きました。蓮城さんのお名前を見た時には感動しましたよ。私は貴方のような方をずっと探していた。いや、貴方を求めていたと言っても過言ではない」 黒土の声には熱がこもり始めた。那智を求めていたという台詞に、那智の背中を見詰める。だがそこからは何の感情も伝わってこない。 「おまえは天然を探していたのだろう」 「そうです。ですがそれも貴方がいればきっと必要はなかった」 黒土は自分の胸元に手を当てては軽く頭を下げる。恭しいと言えば良いのかも知れないが、胡散臭い印象のせいで、それは皓弥の神経に障る。 「おまえ、何なんだ」 「そうお怒りにならないで下さい真咲さん。まずは私の話を聞いて下さい。私は貴方たちを害するものではないのです」 (そんなものを連れていて?) 鬼を喰うとは言っても、それは鬼だ。皓弥にとっては害でしかない。 目をやると式神は皓弥を見ていた。人間によく似ているのに、目が合うと強烈なまでの違和感に襲われる。 思わず視線を逸らしたのだが、意識はその式神に引っ張られてはいつ斬りかかるべきかと計ってしまう。 「私の家は代々鬼を感じ取る能力がありまして、鬼を退治することを生業にして参りました。しかし私たちは鬼を感知する能力はあっても、戦うことに関して才能はありません。一般人と変わらず、生身で戦えば簡単に鬼に殺されてしまいます。それはとても恐ろしい。なので私たちは血と共に受け継ぐもう一つの力を使い、安全に鬼を退治する術を得たのです」 「それが、式神か」 「はい。私どもは他者に暗示をかけることが出来るのです」 暗示、と言われて皓弥はぐっと身を固くした。こうして言葉を交わすことによって精神が乱されるのではないかと思ったのだ。 精神に左右するような術をどのようにして使うのか、それが分からない以上黒土の全てが警戒の対象になる。 「ご安心下さい。私どもの暗示は人間には利きません。知性のある者に対しては効果が薄いのです。動物のように知性のないものに対してのみ、効果があります。なので昔は犬やら猿やら、山に暮らしている者は熊などを使っていたそうです。けれど鬼に勝つにはやはり難しい。獣の力などはたかが知れています」 鬼に対抗するのに犬や猿、たとえ熊でも苦しいものがあるというのは本当だろう。肉を裂く牙と爪を持った人間というのは、意外と獣より強い。身体能力も人間の時よりも格段に上がっている。 まして血肉に飢えて見境もなく襲いかかり、中には多少の怪我ならばその場で治してしまう厄介なタイプもいるのだ。 「だから私たちは考えたのです。鬼に鬼をぶつけてみればどうだろうと。ご存じの通り鬼に知性はありません。求めるまま人を喰らいます。操れるのではないかと、私の先祖は気が付いた」 「あんなものを、よく使う気になったな」 「使えるものは何であっても使う、エコの精神です」 むしろエコロジーとはほど遠い精神であるとしか思えない。皓弥とってみれば狂気の沙汰だ。 「しかし暗示の力も絶対とは言えません。元々は知性のある人間だった上に、鬼の食欲というものは計り知れないものがありました。だから私たちは、鬼が生まれた時から暗示をかけ続けて完璧な洗脳をすることにしました」 鬼を喰う鬼を作る。その狂った方法を黒土は自慢げに語っている。 那智はどんな様子で聞いているのか分からないけれど、皓弥はずっと嫌悪感に苛まれていた。けれど黙れというには、その話を無視することが出来ない。 知るのも気持ちが悪いけれど、知らずにいるのも落ち着かない。まだこちらを見ているそれの正体を見極めたかった。 「鬼と戦い鬼を喰うことが自分の生き方なのだと、それ以外に生きることは出来ないのだと教え込む。他の世界を知らず、自分が本当は何であるのかも分からないのではあれば、それは私たちの思う通りになってくれる。実際これは私の手足になり、実に忠実に働いてくれます」 黒土は式神を見下ろしては微笑みかけている。けれど式神は黒土を見ない。自分の置かれている状況を知って、黒土の一切を拒んでいるようにも見えた。 「そいつが聞いているだろうに、そんな話をしていいのか」 自分が非道な扱いをされていることを、本人の隣で平然と語るなぞ愚行ではないのか。聞かれても大丈夫だと思うほど、その式神を侮っているのか。 「これは私の話は聞いておりません。私が名前を呼ぶまで何も聞かない。聞いても理解が出来ない。そもそも、これはそういう教育は受けておりません」 人の話を耳にしても、それが分からない。 人間の言葉が理解出来ないということか。それとも言われたことを頭の中で処理する能力がないのか。それを禁じられているのか。いずれにしても、倫理観からは遠く離れたやり方だ。 同業者とは言え二度しか会ったことがない人間に、それをごく普通に喋ることが出来る黒土が異質なものに見えて仕方がなかった。 次 |