弐




 
「式神使い……ですか」
 それは主に小説や漫画、ファンタジーの中で耳にする単語だった。魔法のようなものに近く、目に見えない獣や人型を操る者ではなかったか。
「何を使役している?」
「そこまでは伝わって来ません。式神が何であるのかという情報は、使い手にとっては自分の手の内を明かすようなものです。多くの者は秘めています」
「それもそうか」
 那智は式神というものを普通に受け止めているようだった。皓弥と違い、家柄からして同業者とは関わりがあっただろう那智にとっては馴染みのあるものなのかも知れない。
(式神は、武器みたいなものか)
 自分の攻撃手段を公にしたくないということは、戦う者にとっては正しい判断かも知れない。事前に対策を練ることが出来ない、という点で優位に立てる。
(俺や那智みたいに大きな物を振り回していると、ぱっと見ただけで何か分かるから。隠しようもないけど)
 刀なんて目立つ、まして使い方が分かりやすいようなものは隠していたところで見た瞬間に対処が分かる。
 逆に言えば、式神使いという者はぱっと見ても分からないものを武器として使役としているのではないか。
「性別や年頃は?」
「男だそうです。年はまだ若いと」
 水族館で出会った男が頭を過ぎった。
(あの男……まさか)
 異様な気配を纏わせて同業者だと言っていた、まして鬼を探しているのではなかったか。荻野目が言う、鬼の情報を集めている同業者がそう何人もここに来ているとは思いがたい。
「どうしたの?」
「……もしかすると、その男に会ったかも知れない」
「いつどこで、何故?」
 那智の声音が低くなった。警戒と、何故黙っていたのだという抗議の気持ちも含まれているだろう。叱られているような気分になって、少しばかり居心地が悪いのだが仕方がない。
「今日の昼間だ。那智にも言おうと思ったけど、帰ってきてすぐに荻野目さんが来たから、言うタイミングを逃してた」
 あんな奇妙な男に会ったのだ、皓弥も気になっていた。那智に相談しようと思っていたのだが、話す前に荻野目が訪れたのだ。数分も間隔が空いてなかったので、さすがにこの件について喋ることが出来なかった。
 説明すると那智は「そう」と表情を緩めた。自分の身を守ることに関しては誰よりも、皓弥自身よりも厳しい男だ。
「時間が会ったので、水族館に行っていたんです。そこでおかしな気配の男に会いました」
「おかしな気配とは、どんなものですか。鬼のような危険な気配ではなかったんですか?」
 荻野目もまた那智と同様に心配そうな目をしてくれていた。案じてくれている人がいるということは、何度実感しても申し訳なさと微かな安堵を覚える。
「鬼の気配ではありませんでした。でも安全とも言い切れない、どちらかというと、たぶん危険な類でした。だから気が付いたんです」
「警戒心を刺激されたんですね」
「そうです。でも男は俺に対して何かをしてくることはありませんでした。俺が警戒するのを見て同業者だって分かったみたいで、俺に天然の鬼を知らないかと訊いてきました」
「天然の鬼?何故、そんなものを? 復讐でしょうか?」
「復讐ではないと言ってました。天然の鬼だったら、何でもいいらしいです」
 荻野目はとても怪訝そうな顔をした。それもそうだろう。皓弥もあの時同じ反応をしたはずだ。
「復讐でもないのに、天然の鬼を探すなんて妙ですね。天然の鬼にだけは会いたくないと避ける人はいますが」
 ただの鬼と違って天然の鬼は強さが格段に違う。並大抵の者では歯が立たないので、自分の技量を理解している者の中には天然の鬼に遭遇すれば死ぬだけと、回避する者も多くいるそうだ。
 ごく当然な選択だろう。いくら鬼を始末するのが仕事でも、命があってからこそ出来ることだ、死ねば意味がない。
「力試しの馬鹿か?」
「自分の実力を試したいだなんて理由じゃないって言ってたが」
 辛辣な台詞を否定すると、那智は眉を寄せては不可解そうな顔をした。三人とも視線を交わすけれど、誰の口からもそれらしい可能性が出てこない。
 だからこそ、あの男が一層不気味に思えて来た。
「天然の鬼を探す式神使い……どんな目的であったとしても関わらない方が良いと思います。その男が皓弥君のことを知っているかどうかは分かりませんが、その手の輩と関わって良いことは何もありません」
「随分その人に対して厳しいですね。相手は俺のことは知らないみたいだったので、大丈夫だとは思いますが」
「皓弥君は鬼にとっては格好の獲物です。天然の鬼を自力で探し出せないと思った時。皓弥君を利用しようとするかも知れません」
 贄の血で鬼たちをおびき寄せる。その中に天然が紛れ込むかも知れない。
 そんな浅はかな計画を考えつかないとは、言い切れない。
 荻野目の指摘に皓弥は苦いものを噛み締めた。鬼にとってだけでなく、人間にとってもそんな形で利用されるかも知れないというのは愉快な想像ではない。
(でも有り得ることだ)
 人を人とも思わない者がこの世にいることは知っている。目の当たりにもしてきたのだ。だからこそ、荻野目の語る想像に血が冷えていく。
「警戒するに越したことはないんです。何もかも警戒することが疲れることだとは分かりますが、お願いします」
 荻野目は皓弥の安全のために本人向かって頭を下げている。そんなお願いは荻野目がすることではないというのに、優しさがそうさせるのだろう。
「分かっています。油断することなく生きていくつもりです。仇を取るまで死ねませんから」
 母を殺された恨みを晴らすまでは、死んでも死にきれない。その決意だけは絶対に揺るがない。そのために出来ることならば、何でも出来る。
 ぐつりと腹の深くで煮えたぎり続ける憎悪が、皓弥の鼓動を強める。復讐を無意味なことだ、悲しいだけで何も生み出さないと美しい言葉を並べ立てる者はここにいない。
「その男については詳しく調べてみます。皓弥君は目撃しても接触はしないように、出来るだけ避けて下さい」
「分かりました」
 しかし避けると言っても行動範囲が分からない。出会った水族館とここでは電車で十数分の距離があるけれど、それは男にとっては足を運ぶ距離ではないと思うかどうか。
(来るんじゃないだろうか)
 鬼が出たと分かれば、水族館からここまでの距離程度ならば容易に訪れるだろう。まして次々目撃されているという組織の情報を耳にしているとすれば、すでにこの周囲にいるかも知れない。
 あの得体の知れない雰囲気、冷たい目、何を思い出しても良い印象はない。二度と会いたくはないというのが正直な感想だが、出会うのだろうというなという諦めのような気持ちもあった。



 話が終わり、帰って行く荻野目の背中が見えなくなってすぐだった。玄関のドアを閉めた那智は隣にいる皓弥に身体ごと向き合った。
「同業者だという男の目的がはっきりして、ここから立ち去るまでは俺を持たずに単独で行動するのは控えて欲しい」
 言われるだろうなと思ったことを、那智は案の定口にした。皓弥が一人で水族館に行ったという時も、多少悩んだような表情を見せたくらいだ。
 那智は常日頃から皓弥に付き添いたいと言っていた。どこにでも持って行って欲しいのだと。けれど子どもではないのだから、そこまで過保護になるのは止めろと突っぱねていたのだ。
 那智の時間や自由を奪うのは本意ではない。きっと那智が聞けば気にするなと言われるのだろうが。それでもお互い始終一緒にいるというのも、息苦しくなるかも知れないと思ったのだ。
 けれど近くに危険がある、となればそんな配慮は度外視される。それは皓弥も理解していた。
「ああ。それは分かってる」
「俺はどこにでも付いて行く。何度も言ってるけど、俺に気遣いは無用だから」
「分かった分かった」
 耳にたこが出来る。
 ついでにその続きには「俺は皓弥の刀なんだから」と来るはずだ。
「……なあ」
 部屋に戻ろうと廊下を歩く那智に声をかけると、くるりと綺麗にきびすを返してくれる。振り返ったその表情は荻野目と向かい合っていた時とは比べものにならないほど穏やかだ。
 皓弥が出来るだけ那智の側にいると約束したからだろうか。もしそうなら、本当にこの男の思考回路は自分に満たされすぎていて気の毒になってくる。
「皐月とかいうあの天然の鬼は、もう近くにはいないんだよな」
「いないよ。俺も警告したし、姐さんからも叱られている」
 京都で出会った天然の鬼であるあの女を思い出しては心臓が縮こまる。
 頭の中に浮かべただけでも冷や汗が出るような相手だ。それは同胞にとっても恐ろしいものであるのか、金髪の鬼もあれには逆らえないらしい。
(あの女に比べれば、まだあの鬼は恐ろしくはなかったからな)
 あくまでもあの女に比べれば、という限定だ。他の鬼に比べればあの金髪の鬼もおぞましいものであるには変わりがない。
 天然、なのだから。
「でも同業者だって言ったあのおかしな男は、天然の鬼が近くにいるって聞いてきたらしいぞ」
「古い情報じゃないかな。以前に出たことは、確かに出たわけだし」
 那智が警告する前のことをあの男は遅れて知り、その上でやって来ただけなのか。
「気になるならまた確かめてみるよ」
「どうやって?京都にまた行くのか?」
「直接足を運ばなくても知ることは出来るよ。何度も会いたいようなものじゃないだろう」
「出来れば、二度とごめんだ」
 命を素手で握られるような恐怖を何度も味わいたいとは思わない。
 あの鬼はどれほど美しくとも、人間は無闇に喰わないと言われても、鬼は鬼だ。殺すべき対象であり、殺せないのならば関わってはいけない。
「そうだね。俺の気配を染み込ませるのも、皓弥にとっては大変だったみたいだから」
「思い出したくもないな」
 刀の匂いをつけるため、そうして鬼から主を守るため。そう言われて皓弥は京都の鬼に会う前に那智に抱かれた。普段ならば直接精を注がれることはないというのに、あの時だけは幾度も中に出された。
 普段は大抵一度で終わる性行為が複数回になったこともあって、皓弥は京都の鬼に会う前夜の時点で体力が底を尽きていたものだ。
 その上、山登りだ。延々と続く階段を上がっていく内に段々腰と足が悲鳴を上げて結局は那智の世話になったことは、大変苦い思い出だ。二度と行くものかと心に誓った。
「……復讐でも実力を試したいわけでもないのに、天然に会いたい理由って何だろうな」
「さあ。ただ賢明でないことだけは分かる」
「そうだな」
 百害あって一利なし。そんな言葉が浮かんで来ては、あの男のことは深く考えまいとした。
「今日の晩ご飯を考えている方が、まだ有益かも知れないな」
「俺もそう思うよ。これから買い物に行くけど食べたいものはある?」
「一緒に行ってから考える」
 たまには荷物持ちでもしよう、そう思ったのは心配をかけてしまった後ろめたさからだった。きっと那智もそれに勘付いていることだろう。苦笑しながら、エコバッグをキッチンから引っ張り出して来た。










TOP