壱




 
 ひんやりとした空気の中、大きな水槽を前に碧い世界を見上げていた。海をそのまま切り取ろうとしたかのよう空間では様々な大きさな魚が泳いでいる。小さなものはともかく、巨大な鮫などは窮屈そうにぐるぐると水槽を周回していた。
 魚の気持ちがどんなものであるのか、皓弥には想像も出来ない。八階建ての水族館の4階分をぶち抜いて作られている巨大な水槽とは言っても、本来の海の広さとは比べものにならない。
 やはり息苦しさを覚えるものだろうか。
 数日前にダイビングの本を読んで海の中に興味を覚えたが、泳ぎに行く積極性はない。ダイビングをするなんてましてことだ。
 けれど海に触れたいという気持ちはあったので、つい午前中に大学の講義が終わったその足で水族館に来ていた。
 那智はまだ大学の研究室に籠もっている時間だ。わざわざ呼び出して二人で行かなければいけない必要性はない。一人で行動が出来ない子どもでもないのだからと、遠慮せずにここを訪れた。
 平日の午後はやはり人が少ない。親子連れが数組いたけれど、はしゃぐ子どもに付き添って親もどんどん先へと歩いて行く。取り残されるように皓弥はのんびりとした歩調で回っていた。
 特にこの太平洋を意識して作られたらしい水槽は見応えがあるので、先ほどから足を止めて眺めていた。天井から降りそそぐ照明が水槽の中で乱反射して、本当の波が起きているのように水槽の表面が煌めくのが綺麗だ。魚が泳ぐとその光の角度も変わり、生き物の躍動感も伝わってくる。
(久しぶりに来たけど、ぼーっと眺めているだけでも楽しいな)
 日々に疲れているなどという感覚はないのだが、現実離れした場所を堪能することも精神を豊かにするためには有効なのだろう。
 鬼だの何だのとグロテスクで狂気と暴力と死が詰まったものを斬り殺す仕事などをしていると、自然と心も荒むものか。
 他人事のようにそう思っていると、不意に何かが皓弥の意識を引いた。それは服の端を軽く摘まれるような、小さな、けれど無視出来ないものだった。
 これまでの人生の中で、その小さな呼びかけのような感覚が何度も皓弥の危機を知らせた。鬼が来る予兆、もしくは別の何かが近付いてくる予告のようなものだ。
 反射的に意識を引かれた場所を見ると、一人の男が歩いてきていた。オールバックの髪型にすっきりとした顔立ち、身長は那智と同じくらいだろうか。麻の白いシャツに黒のスラックス。シンプルな服装だが、その分体格の良さが目立つ。
 男は手元の館内図を見ていたようだが、皓弥の視線に気が付いたのか顔を上げる。視線がぶつかると、目を細められた。
 探るような視線は冷たくうなじの辺りがざわめく。予兆が強まり、思わず鞄の中に入っている短刀を取り出したくなった。
(……こいつは、鬼とは違う)
 見たところ人間だ。鬼ではない。けれど奇妙な気配が纏わり付いている。決して見過ごすことは出来ない、異様なものだ。
 空気が次第に張り詰めていく。男は瞬きをするとにっこりと笑った。それは一見穏やかそうだけれど視線はまだ冷たいままであるせいか、胡散臭いとしか感じられない。
「その反応を見る限り、もしかして同業者でしょうか」
(同業者……ということは、斬る側か)
 鬼を始末する仕事を請け負っているとすれば、異様な空気を纏っていることに納得も出来る。何せ異形を殺す仕事だ、ただの人間が出来ることではない。特別な体質、才能、境遇が重なり合って初めてその仕事に就くことが出来る。
 一般人とは懸け離れた人間、もしくは生き方をしているせいで、皓弥に危機感を募らせるような雰囲気を持っていてもおかしくはない。
 しかし相手の言うことを勝手に都合良く解釈して理解するのは早計だ。返事もせずにいると、男は笑みを弱まらせた。
「そんなに怖い目で見ないで下さい。私はご覧の通りただの人間です。しかも丸腰ですよ。何も出来ない」
 見たところ男は館内見取り図以外は何も持っていない。鞄すらないのだ。
(ターゲットに物質はないのか?霊体専門っていうなら分かるが)
 霊体を目標としている同業者に会ったことがある。彼らは武器などを必要とはせず、身軽な姿で仕事をしていた。男もその類なのだろうか。
「不思議なものですね。たまたま立ち寄ったところで同業者にお会い出来るなんて。ところで本当に同業者ですよね?違った場合は私が一人でおかしなことを言っている変質者になってしまうのですが」
「……同業者だなんて、どうして思う」
 皓弥の視線の何が同業者だと決め付けたのか。
 皓弥からも異様な気配や雰囲気が漏れているのだろうか。これまで関わってきた人々から、警戒心が強い、人見知りだ、近寄りがたいとは言われたけれど。一目見て「異様」と言われたことはない。
 皓弥を特別であると判断するのは、鬼だけだ。鬼にとっては皓弥はとても美味しそうな「喰い物」になる。
 しかし喰い物を「同業者」とは判断しないだろう。
「私を見て明らかに警戒をしたからです。何かが纏わり付いているのに勘付いたのだと思いました。あの距離で敏感に察知出来るなんて、相当に鼻が利く。まして臨戦態勢に入った。一般人ではない、そして戦うということは同業者だろうと判断しました」
 皓弥が戦おうとしたところまでちゃんと察知していたらしい、よく見ているものだ。
「この辺りの人ですか?」
 自分のことを喋って良いものか悩んだ。相手を一切信用出来ないところからして、関わり合いにはなりたくない。
 同業者であったとしても、この雰囲気は絶対に相容れないものを感じる。
「そんなに睨まないで下さい。同業者です。鬼じゃないんですよ」
「……アンタは、鬼を始末するのか」
「そうです。奇遇ですよね。こんなところで因果な仕事をしている人ど出会うなんて。幸先がよいなぁ」
「ターゲットを探してるのか」
 この辺りは皓弥がメインで働いている場所からは離れている。けれど呼ばれれば駆け付ける範囲内ではある。もし男がここで仕事をするというのならば、もしかすると皓弥が関わることがあるのかも知れない。
「仕事ではありません。私用です。個人的に探している鬼がいるんです」
(恨みか?)
 皓弥も自分の母親を殺した鬼を探している。個人的に恨みが元でこの仕事を始めた。似たような境遇かと思ったのだが、男の顔が少しばかり歪んだ。
(えっ……)
 歪な笑いだった。愉悦を混ぜたようなそれに、鳥肌が一斉に立つ。
「天然を探しておりまして」
 二人の横を大きな鮫が泳ぎ、照明の光を遮っては男を陰らせた。男の発言に、目の前で一本の線が引かれたかのように足下に明暗がくっきりと別れた。
 そのたった一瞬に、言いようの無い恐れが走った。
「何でもいいんです。天然が見たい。ご存じないですか?」
「……天然の鬼が、そんなにいるわけがない。まして何でもいいとは、どういうことですか?復讐したい、という理由ならともかく」
 天然の鬼ならば自分も探している。母親の顔を奪った鬼が天然だった。男も天然に憎しみがあるのかと思ったのだが、何でもいい、という発言がそれを裏切る。
 得体の知れない空気が、男から漏れて出していた。
「復讐ではありません。ただ強い鬼を探してるんです。誤解なさらないで下さい、力比べがしたい、自分の実力を試したいだなんて、驕った理由ではありません」 「じゃあ、何のために」
「すみません」
 男はにこやかに謝った。それはこれ以上は言わないという拒絶だ。
 天然の鬼に会いたい理由なんて、ろくでもないに決まっている。そう思わずにはいられなかった。
「天然に関しては俺も知りません。この辺りに出たという情報もない」
「そうですか。私はこの周囲に出たと聞いてきたのですか」
 とっさにまだ子どもに近い鬼を思い出した。
 中学生くらいの見た目をした金髪の鬼。皐月と呼ばれていたあれが脳裏を過ぎっただけで、恐れが這い上がってくる。
 皓弥が住んでいる辺りをうろつくなと那智に警告され、あの鬼は移動を約束したはずだ。確かに皓弥の自宅からある程度距離はあるけれど、次はここに潜伏しているのだろうか。
「ご存じないなら残念です」
 少しも残念そうではない男に、もう少し問い詰めた方が良いのだろうかと思う。けれど関わりたくない気持ちも大きい。迷っていると携帯電話が音を立てた。静かな水族館の中でそれは思ったより大きく響く。
 二人の間にあった緊張が途切れると、男は会釈をして皓弥の横を擦り抜けていった。
 その背中が廊下の先を進むのを見詰めたまま携帯電話を取り出す。着信を告げる名前は荻野目のものだった。



「最近、周辺で鬼が目撃される回数が増えています。集まって来ているのではないかと、というのが組織の見解です」
 那智が大学から帰ってきた頃、荻野目は相変わらず黒のパンツスーツ姿で部屋にやってきた。いつも通り仏間で母に手を合わせてから話を始める。
 那智が紅茶を入れ、荻野目が持って来た焼き菓子が出された。仕事の依頼の場合はこういった手土産を荻野目は持って来ない。なので玄関で荻野目を出迎えた時には、今日の訪問が仕事の依頼であるかどうかが分かる。
 仕事ではないが、険しい表情をした荻野目に良い話ではないだろうと思っていたが、案の定皓弥にとっては嫌な情報だ。
「何故ですか?この辺りに鬼が集まる理由が?」
「……皓弥君を探しに来ているのではないかという意見が、出ています」
「俺を?」
「贄の血の匂いが、鬼たちの間でも噂になっているのかも知れません」
 自分の体内に流れているものが、鬼にとって渇望に等しい欲求を生み出すことは知っている。だがそれを求めて、わざわざ集まるのか。
(探し出そうとするのか、俺を)
 血の気が引いていくのが自分でもよく分かった。身体が冷えていく感覚に眩暈がする。
 傍らに座っている那智がテーブルの下で手を握ってくれる。その掌の熱さに、ぐらつく自我が少しばかり姿勢を正した。
「その情報は確かなものか?」
 那智が淡々とした声で尋ねる。それに荻野目は重々しく頷いて目を伏せた。
「目撃されている鬼の数、種類から導き出された結果です。別の要因による一時的なものである可能性もありますが、現在それらしい原因は見付かっていません」
「でも、これまでは鬼が集まるなんてことはなかったんです。俺は結構長い間ここにいますが」
「蓮城さんと出逢ってこの仕事を始めてから、派手に鬼を始末してきたでしょう。向こうも馬鹿じゃない、鬼は鬼同士で連携を取って情報も回すでしょう。あの地域は最近鬼が急激に殺されている、その理由にどうやら贄の血が関わっているらしい。刀がいるので手は出せないとしても、物珍しくなって見に来る鬼はいるかも知れない。そして狂う」
 好奇心で皓弥を見に来ては、食欲を刺激されては理性も失い鬼としての本性を剥き出しにする。それを斬ることによって、皓弥の噂は鬼の間でまた広がるのかも知れない。
「引っ越しなどは見当されませんか?大学の通学の問題はあると思いますが、安全は代えがたいものです」
「鬼が寄って来るということは『面喰い』が来ることも考えられませんか?」
 母の顔を奪った鬼が、噂を元にまたここに来るのではないか。
 母を殺したのならば、その血がただの人間とは異なっていたことも知っているだろう。その美味さをもう一度味わいと思い、舞い戻ることだって有り得ないことではない。
「……お気持ちは分かりますが、日々の暮らしが脅かされますよ。それでも、ですか?」
「あの鬼を殺すことが、俺の使命であり、生きる意味でもあります」
 それだけは迷ってはいけないことだ。
 断言すると荻野目は唇を噛んだ。母の友人である荻野目には随分世話になっている。母の代わりに皓弥を心配して、何かと気にかけてくれていることも感じているのだが。復讐を果たすのだという決意には、誰であっても邪魔をして欲しくなかった。
(それに貴方だって同じ気持ちであるはずだ)
『面喰い』に対する憎悪は荻野目にもある。だからこそ皓弥がこの仕事をしていることを止めることなく、サポートをしてくれているのだ。自ら鬼を殺すことが出来ない荻野目が出来る、精一杯の仕事をして、息子である皓弥に切望を托してくれている。
 一人でこの道を進んでいるわけではない。頼もしさと、儚さがあった。
「そうですか」
「何を犠牲にしてでも、成し遂げたいんです」
「犠牲にすることは何もない。俺がさせない」
 命を捨てても構わないと言いかけた皓弥を遮るようにして、那智が荻野目にそう告げる。だがそれは皓弥に対する主張でもあるのだろう。
 隣を見ると那智の目元が和らいだ。
「蓮城さんのお言葉を信じます」
 荻野目が深々と頭を下げる様に、皓弥は「そんなことはしなくていいです!」と止めたのだが荻野目は顔を上げなかった。そうして祈りを強く込めているかのようだった。
「鬼のことに通じてもう一つ。こちらは注意と言うよりお知らせになりますね。集まっている鬼を目当てに、どうやら同業者が来ているらしいです」
 同業者という言葉に、昼過ぎに水族館で見たあの男が思い出された。
「仕事の依頼でもないのにここに来ているのは奇妙だと噂されています。しかも鬼の情報を掻き集めている。何かを探しているようでもあるようです」
「何を探しているんでしょうか」
「それがまだ把握出来ていません」
「……その同業者は、どんな人なんですか?やはり鬼を斬るような仕事なんでしょうか」
「皓弥君のように斬るわけではないそうです。はっきりとしたことは分かりませんが、どうやら式神使いではないかと」
 聞き慣れない単語に自然と眉を寄せてしまう。同業者と言われても、自分と縁のあるようなものとは思えなかった。










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