那智がすっと手を離した。 恐怖で強張っている身体は、遠のく体温を追うように動く。 どうして離されたのか分からず、戸惑いながら那智を見上げると凍えるほど冷たかった視線が溶けている。 皓弥だけに向けられる温度だ。 「帰ろう」 そう促され、皓弥は頷いた。 動くのが躊躇われるほどの威圧感があるのだが、呼吸を整えて助手席側に回ろうとした。 もうこんな空気の中に立たされるのは嫌だ。 だが身じろぎをしただけで、鬼の眼差しが刺さる。 威嚇でもされている気分だった。 元々人の視線も好きではないのに、鬼になんて見られていたら気分が悪い。 唇を噛むと、鬼が笑う気配がした。 「主と刀って仲がいいって聞いたけど、身体もなんだ」 (身体?) 何のことか分からずにいると、鬼が皓弥の首周りを指さした。 「痕」 はっとして首周りに手を置く。 そこは昨夜那智が唇を落とした箇所だ。 鬱血が残されているのだろう。 「那智」 見えるようなところに痕をつけるなんて、とんでもないことだ。 抱くにあたって、それだけは守るように言ってきたのに。 睨み付けるが、那智は微笑んだままだった。 「大丈夫、そんな見えないって」 だがそこの鬼には確かに見えたのだ。 今日の講義で隣に座った三村には見えていただろうか。 何の反応もしていなかったが、見えていてもあえて言わないような性格でもある。 「そんなに執着するほど楽しい?」 鬼は物珍しそうに皓弥の首周りを見ている。 手で隠されているはずなのだが。 「何が」 質問の意図が分からず、那智が問う。すると鬼が難しそうな顔で首を傾げた。 「…恋?」 まるで耳にした外国語をそのまま口にしたかのように、頼りない発音だった。 「したことは」 「あるはずがない。人間相手だなんて」 鬼は人間を食い物としてしか見ていない。 なので目の前の鬼が鼻で嗤ったのも、皓弥は予測が出来ていた。 所詮捕食者が喰われる側のことを思うはずがない。 けれど那智はその答えに嘲笑を浮かべた。 「ガキだな」 嘲られたことに鬼が目を細める。怒気が滲み始めた。 那智よりずっと年を得ているらしいので、ガキと言われてプライドが傷付けられているのかも知れない。 「睦よりも幼い」 だが鬼にすごまれたからといって那智が怯むはずもなく、平然と鬼を馬鹿にした。 「人を喰ったこともない睦より幼い?」 おまえは何を言っている、と鬼が口元を歪めた。 「ああ」 「どういうことだ」 毛を逆立て、姿勢を低くする獣のように、鬼が苛立ち始める。 空気は冷たさではなく、鋭さを増しては皓弥を縛り付けた。決して動いてはいけない。そう本能が囁いている。 嫌な汗が滲んできた。 「おまえは本当の喰い方をしていないだろう。姐さんと同じ喰い方を」 喰う人間を恋愛感情に落として食い尽くしてしまう。そういうやり方を、あの天然の鬼はしているらしい。 自分の血肉となる人間ならば、愛おしいと思う者がいい。 そう考えているらしいのだ。 皓弥にしてみれば、同意は出来ない。愛おしいと思うのなら生きているほうがいい。 しかし那智の指摘は図星だったらしい。 ぐっと唇を噛んで、鬼は那智を睨み付けている。 そこにぎらりと宿っている怒りが、恐ろしくて直視出来ない。 「そうして本当の鬼になる。姐さんの眷属なら」 おまえは違う。 そう那智は鬼を突っぱねたのだ。 「睦も雛だが、おまえは卵の殻から頭を出したばかりに過ぎない」 鬼が舌打ちをする。 反論が出てこないと言うことは、自覚があるのだろうか。 ぴりぴりとした空気の中、那智が皓弥の手を再び掴んだ。 そしてそのまま助手席へと引っ張っていく。 自力で動けなくなっていることは、気が付いていたらしい。 こうして無力さを見せ付けられるのは嫌だが、動けないものはどうしようもなかった。助手席のドアを開き、中に促されてようやく皓弥はそこに落ち着くことが出来た。 「遊ぶより先に、やることがあるだろう」 そう那智は言い残し、運転席に収まった。 エンジンをかけると鬼をちらりとも見ずに車を走らせる。 残された鬼がどうしたのかは分からない。そちらを見る気力も好奇心もなかった。 「人と恋愛をしなければ、本物じゃないのか?」 遠ざかっていく気配に深く息を付いた。 那智が傍らにいることも、安心する要因だろう。 「さあ?でも姐さんはそう思っている節がある」 「好きになった奴を喰うのが本物なんて。人間にとっては迷惑でしかないだろ」 本気で好きになった相手が鬼で、好きになったせいで殺されるなんて。 あまりにも哀れだ。 「迷惑だなんて思えなくなっているさ」 滑らかに走る車は、大通りに出ては自宅と違う方向に走り始める。 どこに行くのかと思ったが、止めなかった。 家に帰ってもしばらくは心が安らぎそうもない。 それならこうして見慣れない景色の中でぼんやりとしているほうがいいような気がした。 「天然の鬼は綺麗だろう?その上気に入った相手にはとことん甘く、優しい。だから人間は虜になる」 京都にいた鬼は、綺麗だった。 さっき会った奴もそうだ。 人の中にいれば、間違いなく際立っている。 そんな存在に甘やかされて、優しくされればどうなるか。皓弥は身をもって体験していた。 墜ちるしかない。 「鬼に喰われて、その身体の一部になるのなら幸せだ。その手に殺されるのなら本望だ。そう思えるほど、鬼は人を魅了する」 それは狂気に近い感情ではないのか。 皓弥はまだそこまでは思えない。 そして那智も喰い殺すことを目的とはしていないようだ。 けれどもし、いつの日か喰いたいと言われたのなら。 皓弥は嫌だと即答出来ないかも知れない。 すでにこれだけ依存してしまっているのだから。 「時間、手間、愛情、全てをそそいで人を好きになり。心も身体も結ばれて幸せに溺れた後。鬼はそれを食い尽くす」 「鬼にとっては、食い尽くすことが幸せの絶頂なのか?」 人間であるならば、結ばれた時点が最も幸せだと思うだろう。 けれどその時点に達してから人を喰うのなら、鬼にとっては喰うことが至上の幸福ということなのか。 「食い尽くすことが鬼の幸せかどうかは、俺には分からない。鬼じゃないから」 那智は刀だ。 人ではないが、鬼でもない。 「だが…あそこは情が深い。きっと目に見える、触れられる形を失ったことは、酷く切ないことなんじゃないかな」 憶測だけど、と那智は付け加えた。 好きだから喰う。けれど喰っては失うことになる。 それはある意味悲しいことなのかも知れない。 鬼に感情などあるものか、そう思っていたというのに。こうして鬼の心情を探っているのも妙な気分だ。 「…大和、だったか?春日の叔父さんって」 「うん」 「あの人は、大丈夫なのか?」 睦の傍らにいた人間。 石段の上で気まずそうにしていたのを思い出す。 春日の叔父らしいが、あの人は前代の千堂の当主らしいのできっと鬼も斬るのだろう。 それなのにぴったりと寄り添うようにしてそこにいた。 斬るつもりは毛頭ないだろう。 むしろ睦を保護しているかのように見えた。 家で待っている人がいるのに、帰ろうともせず。 あれは睦に捕らわれているということではないのだろうか。それなら、近い内にあの大和も喰われるのでは。 春日の顔を思い出しては、気が塞ぐ。 「睦は人の喰い方を知らない。当分生きてるだろ」 あくまでも、当分だ。 絶対という保証はないらしい。 「あの、桔梗って鬼が喰うってことは?」 近くにいるのだから、睦ではなく桔梗と恋愛関係になってもおかしくない。 そしてそのまま喰われても。 けれど那智は他愛ないことのように小さく笑った。 「人のものには手を出さない」 「そういう決まり?」 「たぶん。あれは睦が気に入っている。姐さんは睦を悲しませるようなことはしない」 「そんなに睦っていうのが大切なのか?」 鬼にも親愛の情というものがあるのだろうか。 持っている感情は人と似ているのか。 「溺愛に近いもんがあるね」 「姉弟か何か?」 「さあ。そこまでは。近い存在だっていうのは知ってるけど」 詳しくは、と言葉を濁される。 那智の情報にも限界はあるようだ。 「…あの鬼」 流れていく光景を眺めながら、皓弥は少年のような鬼が見せた表情を思い出す。 不快感を露わにした那智に、目を見開いたことを。 信じられないものを見たようだった。 皓弥の方が驚いてしまうほどだ。 「おまえを見て、随分変わったって言ってた」 「変わったからね」 当然のことのように、那智が言う。 周囲が驚いている様は、本人とって不思議ではないことのようだ。 「見る影もなく?」 「別人のように」 大袈裟な表現をしたのに、那智は微笑みながら同意する。 この男が昔どんな顔で生きていたのか興味を引かれる。 春日も驚いていたのだ、京都で出逢った人も。 主に、皓弥に会って変わったと。 変えられた自覚はあっても那智を変えたつもりはない。出逢った時からこんな男だった。 (…どんな人間、だったのか) 自分の知らないことを知りたいと思う。 現在だけでなく、過ぎ去ってしまった過去まで知りたくなるとは。欲が深くなったものだ。 他人のことなんて興味はなかったのに。 次 |