参




 
  講義を大人しく受講した後、皓弥は携帯電話で那智を呼びだした。
 今は大学近くの人通りが少ない道路で待っているらしい。
 昨夜は結局しっかりと抱かれた。
 どこがあっさりなのか、ベッドに沈みながら問いつめると「ごめん、つい夢中で」と清々しい表情で返された。
 那智に対して本気で怒りを覚えたのは久しぶりだった。
 しかも中で出されたのでその後は風呂場で後始末とやらをされ、屈辱を味わう羽目になったのだ。
 京都では半分意識が吹っ飛んでいたので羞恥も消えていたのだが、昨夜はなまじ正気のままだっただけに、辛かった。
 痛みはないのだが、歩くたびに怠さで溜息をつきたくなる。
 到底自転車で通学出来るはずもなく、来る時も車で送ってもらった。
 もしかすると送迎したいがために腰に負担をかけられたのではないかと疑ってしまう。
 教えられた道に入ると、那智が車から出て立っていた。
 運転席側にもたれかかり、無表情で腕を組んでいる。
 冷たい雰囲気だと感じたが、きっとこれが常態なのだろう。それを冷たいと感じるのは、皓弥が暖かなものを向けられているからだ。
 声をかける前に那智はこちらに気が付いて、目元に緩ませた。
 それだけで空気ががらりと変わる。
 今ではもう慣れてしまったが、一抹の気恥ずかしさは残っている。
 特別扱いし過ぎなのだ。
「おかえり」
 まだ家にも帰っていないのにそう言われ、苦笑しながら「ただいま」と答える。
 その端から、妙な気配が漂ってきた。
 これだ、と皓弥が言うまでもなく、那智は「来たな」と呟く。
「帰ろう」
 皓弥はざらりとした不快感のある気配に、そう那智を促した。だが那智は動かない。
「待って」
「なんで」
 鬼が来てるのにどうして待たなければならないのか。
 こんなものに近付きたくなんてない。
 苛立つように言うと苦そうに微笑まれた。怯えてしまいそうだということを、見透かしているのだろう。
「会って顔晒しておかないと付きまとってくる」
「晒す?」
「皓弥の顔を見せておかないと、あれはきっと付きまとってくる。それに、俺の知らないところで皓弥に手を出されると困る」
 確かに、皓弥が那智の主だと知って手を出してこないというのなら、顔を見せておいたほうがいいのかも知れない。
 そうすれば一匹の鬼から安全が得られるというのなら。
 だが近寄ってくる気配に身体は逃げたがっている。
「毎日中に出すわけにいかないだろ」
「殺す気か」
 あんなことを毎晩やられれば、那智の顔を見るだけで腹が立って仕方がないだろう。
 今日も腰の怠さに少しむっしているのだ。
「嫌なら車の中で待っとく?」
「…いい」
 那智が車の外にいるのなら、きっと助手席よりこうして隣で立っていたほうが落ち着くだろう。
「京都より怖くないはずだよ。あの二人より随分劣るから」
 あれで随分劣るのか。
 京都では相当の恐怖にさらされ、那智がいなければ逃げることも出来なかったものだが。
「まだ子どもだ」
 しかしそうは言っても鬼だ。
 赤子であっても、人を喰うことに変わりはない。
 沈んでいく気分を察したのか、那智が手を繋いでくる。
 指を絡ませると、ざわついていた心臓が少しばかり音を潜めた。
「見た目も大きくない」
 那智は皓弥を見ては口元に笑みを浮かべる。睦言を囁いているような顔だ。
「子どもは好奇心が旺盛で、遊び回る生き物っていうのは鬼も同じらしい」
 そんな話をしている間に気配はごく近くまで寄ってきていた。
 そろそろ向こうの角を曲がってくるはずだ。
「始末、出来るか?」
「出来るよ。間違いなく」
 姐さんと呼んでる桔梗の時には濁したが、今日は断言している。
 そして那智は触れるだけの口付けをしてきた。
 すぐに離れたが、それが皓弥に安堵を与えると分かったのだろう。
 昨日散々欲しがったので、知られてしまったらしい。
 こんな状況でもなければ外でこんなことするな!と怒鳴っているところだが、今はありがたいとすら思ってしまう。
 鬼が、角を曲がって姿を現す。
(若い…)
 高校生と中学生の狭間のような年頃だ。茶色というより金に近いような髪の色に印象的な目。服装も大人しいとは言えないものだ。
 見たところちょっと派手な人だが、皓弥はそれがひどくいびつな存在に思えて仕方がなかった。
 京都で会った鬼よりも不安定だ。
 けれど仕事などで会う、人から鬼に成り果てた者たちよりかはずっと容姿も空気も端正に見える。
「久しぶり」
 見た目通り、少し中性的な声には京なまりがない。
 だが近寄ってくる顔をよく見ると、桔梗と睦に顔がどことなく似ている。
 あれほど視線を惹きつけて離さないほどの強さはなかったが。
「何をしに来た」
 那智は氷の棘を付け、鬼に対してそう言い放った。
 眼差しは侮蔑に近い。
 だが鬼は気分を害した様子もなく、意地悪そうに微笑んだ。
「顔を見に」
 予想通り、といったところだろう。
「姐さんから話は聞いたけど、顔見ておかないと間違って殺しちゃうかも知れないだろ」
 だから、と鬼が那智を見上げる。
 小柄な身体はきっと百六十ないだろう。
 二十センチの違いは大きい。
「家に帰れと言われなかったか」
「言われたかなぁ」
 聞いているのだろう。からかうようにして鬼は言う。
 そして皓弥をちらりと見ては、目を細めた。
 猫、それよりもっと大きな肉食獣が獲物を見ている目つきにそっくりだ。
 肌に爪を立てられたように、ぞくりとした。
「主って人間なんだ」
 一歩皓弥へと踏み出したところで、那智がきつく睨み付け殺気を放った。
 空気がひんやりと温度を下げたかのような気がした。
「近寄るな。本来なら見せたくもない」
 不快感丸出しの声に、鬼が目を見開いた。
 那智の怒りに驚いたようだ。
「はあ…人は変わるって聞いたことあるけど、本当にこんなだけ変わるんだ。でも那智は人じゃないくせにねぇ」
 へぇ…と感心したように鬼がまじまじと那智を眺めている。
「主を持った刀って初めて見たけど、変わりすぎだろうこれは、凄いね」
 那智の過去を知っている者は、口を揃えてそう言う。
 変わった。
 そう言っては驚いている。
 昔の那智は、そんなに今と違っているのだろうか。他人に対する態度を見ていると確かに冷たいが、怒りを見せただけでこれほど意外に思われるほどだとは。
 どんな人間だったというのか。
「那智をこんなにするなんて、すごい人間」
 鬼は皓弥を見ては、好奇心に溢れた視線を向けてくる。
 子どものような感情が見えるが、相手の力が大きい場合はそんな好奇心は恐ろしさにしかならない。
「触ってみたい。妙な気配もするし」
 言われたことに皓弥は握っていた手に力を込めた。
 鬼に触られるなんて冗談じゃない。
 だが京都では睦という鬼に頬を触られた。まさか今日もそうするつもりではないだろうな。
 ちらりと那智を横目で見上げると苛立ったような眉を寄せている。
「断る」
 何の迷いもなく那智は鬼を退ける。
 どうやら今日は我慢を強いられることはないようだ。内心ほっとした。
 三歩ほどの距離がある今も、息苦しいのだ。これ以上の接近は止めて欲しい。心臓が押し潰しされる。
「睦は触ったんじゃないの?」
 鬼が不服そうに唇を尖らせる。子どもっぽい仕草が似合っていた。
「睦は別だ。人を喰わない」
「喰ってないだけで、それに危害をくわえるかどうかは分からなかっただろ?」
 不公平だと言いたいのだろう。
 だが皓弥の目からしても、睦と目の前の鬼は明らかに違う。
 睦からはまるで毒々しいまでの気配を感じなかった。喰われるという不快感はなかったのだ。
 圧倒的な力に対する畏怖に似た恐怖は感じたが。
「あれに牙はない。未だ純粋なままだ」
 人を喰うことを知らず、自然の中だけで生きていく鬼を純粋だと那智は言う。
 鬼なのに、鬼ではないかのような生き物だ。
「同じ鬼なのに」
 なんで駄目なんだよ、と鬼が不満を露わにした。
 全く同じではない。と文句が喉元まで迫り上がる。
「喰わないって」
 だからいいじゃん。と軽いノリでお願いされるが、那智の機嫌は下がっていく一方だった。
 ただでさえ殺気立っていた空気が、皓弥の肌にもぴりぴり刺さってくる。それを真っ向から受けている鬼はどんな神経の太さなのか。
 しかし誰にも限界はあるらしい、鬼は肩をすくめた。
「そんなに怒るか?」
「調子に乗ってると殺すぞ」
 脅しでも何でもなく本気でそう思ってるのだろう。
 那智はあまり脅迫などしない。実際に行うことを考えていることだけ、相手に告げる。
「姐さんにはもう言ってある。何かあれば殺すと」
「はあ、人間っぽくなったんだろうけど、こんな独占欲持たなくても」
 呆れ混じりに苦笑した。子どもっぽかった顔が少し老成して見える。
 殺気ばらまいて睨みつけている那智より、鬼のほうが人間味溢れる表情を見せている。
「記憶したならもういいだろう。この辺りで鬼をばらまくなよ」
 もともとは、この鬼が鴉を鬼して、それが大量に増えたことから始まった。
 京都に出向いたのも、本当はこの皐月という鬼が目的だったはずだ。
 それが今更会うことになるとは。
「分かってるよ」
 はいはい、とめんどくさそうに鬼が返事をしている。
 興ざめしたように溜息をつくと、皓弥をじろりと見上げた。
 観察するような見方ではなく、皓弥という存在そのものを値踏みしようとする視線だ。
 内側を逆立てられるような気がして、ぞくりと恐れが走る。
 視線が、牙そのものになっている。
「主ってさ、強いの?」
 声が僅かに下がった。
 からかっているような雰囲気からがらりと変わり、どこか真剣だ。
 けれどその本気が、皓弥に嫌な汗をかかせた。
 心臓が、悲鳴を上げる。
「人には限界がある」
 那智は淡々と、静かにそう答えた。
 人間である前に刀だと言う男は、それで皓弥の力を示した。
 どう足掻いても、刀である那智には辿り着くことは出来ないのだと。
 否定することは出来なかった。那智と皓弥の力が比べ者にならないことは、明らかなことだ。
「なんだ、つまらない」
 視線が外され、鬼は途端にまた子どもっぽい表情を見せる。
「本当につまらない」
 もし強いと言えば、鬼は皓弥に襲いかかってくるつもりだったのだろうか。
 弱い者にではなく強い者に襲いかかるなんて。随分自分に自信のある者のようだ。
「おまえの退屈しのぎに付き合わされる義理はない」
 那智は不愉快極まりないという様子で、そう吐き捨てた。



 


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