壱




 
 大学から帰ってきて、丁度マンションの前で自転車を下りた時だった。
 それまでも妙な気配を感じてはいた。
 近くに鬼がいるかも知れないと思いながら、警戒はしていたのだが。
 寄ってくるそれに、ぞくりとした寒気を覚える。
 寒さなど感じる季節ではない。
 しかしそれは皓弥の背筋を這い上がってくる。
 まずい。
 そう強く感じて、皓弥は自転車を手早く駐輪場に片付けようとした。
 少しずつ近付いてくる鬼。
 野良犬や、野良猫が成り果てたものではない。もっと異質な、強い気配だ。
 刻々と迫るそれに、心臓がどくりどくりと音を立て始めた。
 カラカラと自転車が小さな音を立てるが、それより大きく心臓が鳴っている気がした。
 まだ遠いはずだ。
 走ってこられても逃げられるだけの距離があるはず。
 けれど、微かな気配だけでもその力の強さが感じられる。
(逃げたい)
 薄暗い駐輪場に自転車を片付け、早足でマンションの中へと入る。
 鬼が来る。そればかり感覚が訴えてきていた。
 早く逃れて、隠れてしまわなければ。
 恐怖が皓弥を急き立てる。
 鞄の中に短刀が入っていたことを頭では理解している。けれど丸腰に近い気分だ。
 那智に会うまではこれが皓弥を支えてくれていたけれど、今は違う。
 エレベータに乗り込み、ようやく息を吐いた。
 上昇していく箱の中で震える心臓を落ち着かせようとする。もう鬼の気配はしないというのに、恐怖が消えない。
 ここはまだ安全ではないかのようだ。
 指先が強張り、ぎゅっと力を込めて拳を握る。
 もう大丈夫。そう呟くが効果がない。
 エレベータが止まり、廊下で皓弥は足取りを緩めない。やや荒い動作で鍵を開け、ドアの中に滑り込んでようやく力が抜けた。
「…何だ、あれは」
 そんな気配、今朝まで感じなかった。
 ただの鬼ではないだろう。
 まだ姿も見ていない状態で、あれほど威圧されるなんて。
 もしあれで距離が縮まっていれば、鬼に見付かっていれば、皓弥は喰われていたかも知れない。
 それを思うと握った拳がなかなか開かない。
 部屋に入り鞄を下ろしてベッドに倒れ込む。
 自分以外の匂いが、そこにはあった。
 眠る時は大抵その匂いに包まれている。
 そのせいか少しばかり慰められているような気分だった。
 シーツの中に潜り込み、皓弥は背を丸めて怖がる身体を抱き締めた。
(こんなところまでは来ない。大丈夫)
 理性ではとうに理解しているはずのことを繰り返す。
 恐ろしさが薄まらないのだ。
 今にも鬼がやってきて、この身に牙を向けるのではないか。そんな想像が消えない。
 所詮喰われる側の、小さな生き物なのだと実感せざる得なかった。
 昔から鬼に襲われそうになったり、恐怖を感じると短刀を抱き締めて自分を落ち着かせた。
 しかし皓弥の刀はすでにそれではない。
 ベッドヘッドに置いてある目覚まし時計を見上げ、那智が帰ってくる時間を探る。
 もうじき帰ってくる時間ではある。けれど予定通りに帰宅するかどうかは、那智の気分次第だ。
 早く帰ってきて欲しい。そう思って、自分の弱さに情けなくなる。
 依存し過ぎている。
 ちょっと鬼の気配にあてられたくらいでこんなにも怯えるなんて、あまりにも脆弱だ。
 守られているだけの人間ではいたくないのに。
 こんな状態で眠れるはずもなく、かと言って本など読む心境でもない。
 ただベッドの中で気持ちが静まるのを待っていた。
 けれど一向の収まることのない心臓の震えに溜息をついていると、玄関に鍵が差し込まれる音がした。
 皓弥が帰宅してから十数分しか経っていない。
 帰ると言っていた時間よりも多少早いようだ。
 ドアが開かれ、人が入り込んでくる足音が聞こえた。それだけで皓弥はほっと溜息ではない息を吐く。
 那智の部屋を開け、閉めて、リビングに入り、水が流れる。
 見ていなくても那智がどうやって動いているのか、ありありと想像がついた。
 自分以外の人が近くにいるとほっとするなんて、母親以外には考えられなかったのに。
 心臓が怯えるのを止めた。
 那智がいるのならば大丈夫。
 自分で言い聞かせるよりもずっと、そう感じられた。
(…一人で生きていけると思ってた)
 まだ大丈夫。那智に頼っているけれど、けれどいつか自立出来る。
 依存しきって、いなければ生きていけないほど深くは寄りかかっていない。
 本当はとっくにそうなっているのに、事実から目を背けて、自分はまだ大丈夫と信じたかった。
 けれどあの男はその信じたかったことを崩していく。
 守られることが、包まれることが心地よいと教えては皓弥を溶かしていく。
 ここまで浸食されると、悔しいとしか思えない。
 部屋のドアがノックされても、答えなかった。
 眠っていると思って、そのまま出ていってくれて構わない。
 もう少しこうして落ち着けば、平然と顔を見せられるようになるから。
 だが那智は皓弥の期待を裏切って、静かにドアを開けた。
「寝てる?」
 睡眠の邪魔をしてはいけないと思っているらしく、声は小さい。
 目を閉じて眠っているふりをすればいい。そうすればこの情けなさも、那智を欲しがっていた気持ちも知らせずにすむ。
 けれど那智の姿を見たいという欲求もあった。
 そうすればもっと落ち着く、安心するはずだ。
 迷っている間に顔を覗き込まれた。
「眠い?」
 横を向いたまま、皓弥は那智を見上げない。目を伏せて、なるべく感情を出さないようにした。
「いや…」
「疲れてる?」
 こうして皓弥がベッドにいるのはあまりないことだ。
 まして髪も解かずにこうしているのは、倒れ込むようにしてベッドに入った証拠だろう。
 どうやら心配をかけているらしい。
 目が合えば不安が悟られそうで、けれど心配させるのも本意ではないのでゆっくりと顔を見せた。
 柔らかい色をした瞳に見つめられ、もう大丈夫だ、何も怖いことなんてない。そう強く感じた。
 安堵出来ることは嬉しい。けれど那智を見ただけでほっとしたことが少し気恥ずかしかった。
 まるで、恋人の帰りを今か今かと待っているようだ。
 愛おしさが募って、焦がれているかのような。そんな錯覚に襲われる。
(俺はそんな人間じゃない)
 恋人の甘さに酔うような、蜜月を楽しむような人間じゃない。そんなの背筋がかゆくなる。それなのに。
「誘ってる?」
「え」
 那智は微笑み、唐突にそう言った。
「だってそういう顔をしてる」
「どういう顔だ」
 それが情事を示すことだ、すぐに分かった。
 誘ってなんかいない。確かに待ちわびていた。けれど欲情しているわけでは全くない。
 そもそも皓弥は那智に触られて欲情することはあっても、何もしていないのに欲情することは滅多にない。
 その辺りは非常に淡泊なのだ。
「欲しがってもらいたい顔」
 那智は微笑みをあやしい笑みを変えた。
 明らかに気分は情事に向かっている。
 夜になってから見ることはあっても、日が高い内から見るものではない。
 案の定、皓弥が逃げる前に身体がのし掛かってきた。
 体重が全てかかることがないように、顔の側で手を付かれる。
 見下ろされ、那智が穏やかだったはずの表情を変えていく。
 笑みを浮かべたまま、ぎらついた欲をはっきりと見せ付けてくるのだ。
 それを突き付けられると、蛇に睨まれた蛙のような気持ちになる。
 後は食われるしかない。という諦めがちらりとよぎった。
「待て、そんなつもりはない」
 落ち着けと皓弥は説得を試みる。無駄になることは半ば決定していた。
 分かりながらも足掻くのが人だ。
 肩を掴み、押す。
 どいてくれと態度で示しても、那智はびくともしない。
「あったでしょう」
「ない」
「あったよ」
 本人よりも皓弥のことをよく分かっているような顔で、そう言ってくる。
「そうじゃなきゃ、あんな顔しない」
 だからどんな顔なんだよ。と言いたい。
 しかし細かく説明なんかされた日には悶死したくなるだろう。どうもこの男は皓弥を甘やかし過ぎているのだ。可愛いと言われた日には殴りたくなってくるというのに、平然と連呼してくれる。
 ある意味精神的な攻撃だ。
「そんなこと言われても」
 誘う、誘わないなんて、皓弥には分からない。
 どんな顔がそうなのかすら。
 この男以外の人間と抱き合ったことがないからだ。
 人に触れられることを嫌がっていたせいで、女も抱いていない。
 全て一から那智に教えられた。
「じゃ、自覚してないだけだ」
 そんなもの自覚するも何もない。
 誘ったという事実を認めろと言わんばかりの言い方をして、那智は顔を寄せてくる。
「皓弥は身体の方が素直だから」
 それが卑猥な意味を込めていることは考えるまでもない。
 罵倒するより先に口付けられる。
 歯を食いしばることを予測していたのだろう、触れると同時に舌を入れてくる。
「っん…」
 普段は撫でるように絡めてくるはずのそれは、今日に限って性急だ。
 手早く抵抗を奪おうとしているのが分かる。
 身体で陥落させるなんて卑怯だ。
 そう思い手は那智の身体を引き剥がそうともがく。けれど舌は、絡み取れられてはなぞられているそれだけは那智を拒まない。
 熱が伝わってくることに安心して、舌が口内をなぞることをむしろ喜んでいるかのようだった。
 恐怖を奪い去ってくれるのは、那智だけと思っているような。
 癪ではあるのだが、それは皓弥にもすでに感じられたことだった。
 人の反応を誤解して襲ってくるような奴でも、那智が皓弥に安心を与えてくれる唯一無二の存在なのだ。
 恐ろしくて動けなくなりそうな場面であっても、那智がいればしっかりと立てる。
「ふ…っ…」
 角度を変えても止められない口付け。
 服の中に手が入ってきては、慣れた手つきで皮膚の薄いところを撫でる。
 もうどこが弱いのかなど、熟知しているだろう。
 抗おうとしていた手はすでに那智の肩を掴んだだけで、ひどく頼りない。
「ぁ…」
 胸の突起に爪を立てられ、声が零れたその瞬間を計っていたように唇が離される。
 呼吸に混ざった嬌声は、皓弥の耳に届いては強く羞恥を与える。
 嫌がっていたのに。
 上に乗っていた獣が喉でくつりと笑った。
 それは情事を受け入れる声以外の何でもない。
 口付けだけで、容易く陥落させられる。
 ここまで来て止めろとは言えなかった。
 かと言って促すわけにもいかず。
「皓弥、いい?」
 今更ながらに許可を求める男を睨みつけた。
 いいも悪いも、那智がそういう風に持ち込んだのだ。
「馬鹿野郎」
 小声で罵ると、それがまるで睦言であったかのように那智が目を細める。
 獣が舌なめずりしたような、そんな目だった。



 


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