六




 
 切り裂かれた鬼の身体から血飛沫が上がることはなかった。
 さらさらと、まるで砂の固まりが崩れていくように血の代わりに灰が舞っていく。
 鬼の身体は灰で作られていたのだと錯覚しそうなほど、まるで生き物ではなく無機物であったかのように形を崩壊させて鬼は消えていく。
 しかしそれは那岐にとっては見慣れたことだった。
 そんなことよりも目の前で瞠目しているその人や、傍らにいる男に目を奪われた。
「皓弥、気を散らさない」
 上半身が灰になり、その場に膝を突いて脆く壊れていく鬼など見もせず。男はその人にそう告げた。
 注意しているのだろう。だがそこには保護する思いが込められていた。
 冷たさのない、幼い子どもを諭すような声だ。
 それに那岐は更に驚いた。
 この男がそんな風に誰かと話をするところなんて見たことがない。
 いや、それを言うのならばこの男のことなどろくに知りはしないのだが。それでも意外すぎて耳を疑った。
(なんで、兄貴がここに……)
「…悪い」
 皓弥と呼ばれた人は驚きを残しながらも兄にそう謝った。
 しかし困惑したように那岐と兄を交互に見ている。
 けれど兄は那岐など視界に入れもしなかった。存在していないかのようだ。
(兄貴はいつもそうだ)
 那岐に興味などない。見もしない。
 しかしそれはただの人間に対しては平等だったはずの態度だ。けれど皓弥には全く異なる反応を見せている。
(きっと人間じゃないんだ)
 少しだけ変わった気配を持っている人だ。きっと人間じゃない。
 兄が特別視するような者がただの人間であるはずがない。
 だって兄は人間ではないのだから。もっと別の、もっと強い生き物、刀なのだから。
(……まさか主か!?)
 刀、と思いふと気が付いた。刀が生まれてくる理由は主を守るためにある。刀にとって主は己の全てである。そう聞いていた。
 そしてそれは目の前にいる兄の接し方そのものではないかと思えた。
「少しの隙が命取りになる。分かってるだろ?」
 兄は身体ごと皓弥に向けて話をしている。ちゃんと聞いて欲しいと主張しているのだ。
「悪かった。でも……」
 謝罪しながら皓弥はちらちらとこちらを窺っている。兄がこちらを意識しない分、気になって仕方がないという様子だ。
 まして那岐も黙ったままで、どういうことなのか戸惑っていることだろう。
「弟さん、か?」
 我慢出来ずに尋ねた皓弥に、兄は「え?」と今更気が付いたようにこちらを見た。
(相変わらずだ)
 ひんやりと冷たい、平淡な視線だった。感情を見ることの出来ない瞳は、そこに感情そのものが込められていないからだ。
「ああ……」
 那岐を見て腑に落ちたように呟くけれど、だから何だと言いたげな表情に胃が縮む。
 自分は兄の背中を見て、兄の存在感に押し潰されるように生きてきた。周囲の誰もが兄を知っていて、比べられるようにして育った。だが兄は弟の存在など感じたこともないだろう。
 遙か後ろにいる人の気配を感じることはない、まして目に映ることなど有り得ない。
 兄は決して振り返りはしないから。
「……主、ですか?」
 那岐は兄の視線に晒されながらも、あえて皓弥に向かって尋ねた。
 問いかけても兄には無視される可能性があると思ったからだ。
 皓弥は自分に向けられた質問にやや違和感を覚えたらしく、兄をちらりと見たけれど口を閉ざしたままの兄に頷いた。
「そうです」
 分かり切っていたことだが、改めて肯定されると不思議な気持ちになる。
 ちゃんとこの世に主という存在はいたのだ。そして兄はこの人をちゃんと特別だと捉えるのだと。どんな生き物に対しても兄は素っ気ないものだと思い込んでいた。
「帰ろうか。仕事も終わったし」
 何か言いたげな皓弥に訊きたいことはあるけれど、どう切り出して良いのか迷っていた那岐を引き離すかのように、兄はそう告げた。
 もうここにも那岐にも用はないと言いたいのだ。
「え、だって、いいのか?」
 皓弥はそんな那智にびっくりしたようで、引き留めるようなことを言うのだが。それに対して兄は不可解そうだった。
「何が?」
「弟さん、このままって」
「別に。興味ないし」
 ばっさりと切り捨てるような兄の台詞に、皓弥が絶句した。
 傷付いたのではないかと那岐を心配したのだろう、はっとしたようにこちらを見たが肩をすくめてみせる。
(そんなの今更だ)
 人から見れば酷い態度、弟に接するには冷酷な様に見えるかも知れない。だが兄にとってはこれが自然なのことなのだ。
 そして那岐はそれに慣れてしまっていた。
 痛みすら覚えない。
「久しぶりなんじゃないのか?」
「そうだね。でも話すことなんてないよ」
 食い下がる皓弥に、兄は淡々と応じている。
 そしてやはり那岐を視界に入れることはない。
「これまで話なんてしてこなかったし。必要じゃない」
 兄にとってはただの事実であり、那岐にとっては棘のように突き刺さる過去だ。
 祖父の傍らで見た兄は遠い相手だった。壁の見える相手だった。
 自分とは立場も生き方も違う何かだったのだ。話しかけられるとも思えなかった。
(俺はこれまで兄貴に、一言だってまともに声を掛けたことなんてなかった)
 かけてはいけない相手だったのだ。
 禁じられていたわけではない。母などは那岐と兄を切り離すようなことはなかったし、那岐に対する態度と兄に対する態度に大差はなかった。
 それでも生き物は、無意識に己より圧倒的に強い生き物に対して怯えを抱く。人とは異なる部分があるが故に、那岐はその辺りを敏感に察していた。
 なので話しかけない接しないというのはある意味那岐の保身だった。
 だが兄に守られているらしい主はそんな那岐の感覚は想像も出来ないのだろう。兄の言葉に唖然としていた。
 けれどこれが自分たちである。
「家族って…そんなもんなのか?」
 皓弥は理解出来ないというような目で兄を見ていた。だがこちらにしてみれば、家族という単語に違和感がある。
(兄は、家族じゃない)
 母や父は那岐の家族だ。幼い頃から一緒に暮らし、大切に育てて貰った。愛情を貰い、慈しまれ、時には叱られ、ごく平凡な家庭によく似た雰囲気の家族だ。
 だが兄はそこにはいない。そして兄自身もそこに入ろうとは思わないことだろう。
 それを求める気持ちも兄にはないのだ。
「俺は人間じゃないけど、弟は人だからね」
 兄も那岐と同じ気持ちなのだろう。
 生き物が違うのだから、家族だの何だと言われても戸惑うだけだ。
「世界が違うんですよ」
 皓弥は那岐に対して気遣うような視線をくれたので、別に自分は傷付いてないのだと示すためにあえてそう告げた。
 ひねくれているわけでも、皮肉でも何でもない。ただの現実である。
 苦笑して見せると皓弥はそれでも物言いたげな表情だった。
(きっと優しい人なんだろう)
 冷え切った関係の兄弟に心配するくらい、人のことを思いやれる人なのだろう。
 そんな人が兄の横に立っているというのが不思議だった。兄はそういうものを倦厭すると思っていた。
 しかしよく見れば皓弥は何かを握っている。こちらからは身体を斜めにして立っている姿勢なのでよく見えなかったのだが、それは刀身であるようだった。
 氷のように冴え、鋭く輝く刀だ。
 美しく清らかなその光の刃はきっと兄のものなのだろう。
(刀、だから)
 那岐が見たことのない刀を皓弥が握っている。皓弥に握らせている。
 兄の特別な人。だがその気持ちが分かるような気がした。
 遠いだけの兄に共感するところがあるなんて信じられないような思いだが、皓弥に関してだけは理解出来た。
(こういう人だから、兄は主にしたのか?)
 庇護したくなる。そして近くに控えていたくなる。
 危害を加えるようなものがあれば全て排除したい、という奇妙な衝動にかられる。まして皓弥が思いやりのある、情のある人だと分かれば守りたいと願うのも無理はない。
(真咲とは、みんなそうなのだろうか)
 実際に真咲の人間に会うのが初めてなので、この感覚が皓弥に対するものなのか。それとも蓮城が真咲に対して抱くものなのか判断は付かなかった。
 しかし兄が羨ましいと、分別の付かない子どもの頃以来思ったことのない気持ちが湧いた。
「……それじゃあ……俺は、これで」
 兄はもうここに用はないとばかりに気怠そうに黙って立っている。皓弥はそれを注意するべきか放置するべきか悩んでいるようだった。
 那岐がここにいてもずっとこの状態が続くだけだ。
 皓弥が途方に暮れる前に、締まりのない台詞を口にして背中を向けた。
「あ……」と引き留めるのか、もしくはまだ何か訊きたかったのか。皓弥が一声零したけれどそれ以上声を聞くことはなく、那岐は振り返りたい自分を心の中で押し殺した。



 


TOP