あの男は何なのか。どうしてあんなに不思議な気配なのか。 そんな疑問はあるけれど、実際問題として野々村のことが優先されることは分かっていた。緊急を要する事態であることは明白だからだ。 そしてそれに対して自分は何が出来るのか。 殺すことは出来る。跡形もなく消すことが出来る。 だがそれは鬼に対してであって、友達と言えた相手までそうやって殺すのかと訊かれると言葉に詰まった。 那岐は人間ではない部分がある。だが大半は人間だ。そして人として生きることを望まれてもいる。出来ないとしても、人間としての道理を持っていたい。 その道理が、倫理観という縛りが、野々村を喰らうことに抵抗を示していた。 初めから鬼ならば喰い殺せる。それは駆除だ。 だが友達は、いくら鬼になったからといっても駆除だと割り切れない。 だってこの前まで人間として生きていたじゃないか!と叫びたくなる。 割り切ることが出来ないのだ。 (俺が本職たったら、そうしなきゃいけないのかも知れないけど) 鬼の始末は、そういう化け物だの霊体だのを取り扱っている組織からたまに依頼を回して貰うことがある。 何年も鬼を喰らわずに生活していると精神が触れてしまうからだ。なのでそう難しくない、蓮城の血があれば何がどうなっても始末出来るだろうと思う簡単な仕事を回して貰う。 それは母も同じで、蓮城では珍しくないことだ。 もしその仕事を本職としていたのならば、どんな鬼でも斬らなければならなかっただろう。私情に振り回されて仕事を疎かにすることは出来ない。 だが那岐はあくまでもたまに手を出す程度、本職どころかバイトとすら言えない頻度しか依頼を受けていない。 それなのに友達まで斬る覚悟なんてあるはずがない。 そして組織だって那岐にそこまでの意志は求めないだろう。 それなのに、依頼でもなく私生活でそんな羽目になるなんて。 だが一方ではこんなことになったのは自分のせいだと責任も感じていた。 野々村が崩壊したのは自分が野々村の気持ちを受け入れられなかったからだと。 だが何もかも遅い。 きっと野々村は次第に鬼として人を襲い始める。そして刀としての血を受け継いでいる那岐を恐れて、近寄らなくなるだろう。 何がしたかったのか、何を求めていたのか、野々村は混乱してどんどん壊れていく。鬼としても成立しないただの化け物になる。 (俺がそうさせた) どうするべきなのか、何が最も良い決断なのか。 那岐一人だけでは見付からず、鬼について話すに相応しい相手に電話をかけた。 『もしもし、那岐?どうしたの?』 おっとりとした声に、那岐は一人暮らしの部屋の中で崩れ落ちうずくまった。 一声聞いただけ、それなのに包み込まれるような安堵がある。 母親には敵わないという気持ちと共に、無性の安心を与えてくれる。蓮城の血が濃いという彼女に対してどんな事柄であっても勝てると思うほうが間違いであり、安心は人間ではない強さがあるせいだろうか。 「母さん……」 無性に泣き出したい気持ちを江押し殺して、吐き出すように呼ぶとそれだけで母は察したらしい。 『大丈夫よ』 何も話していない。 根拠のない、その場限りの台詞だ。 それなのに大丈夫という言葉に鼓動が落ち着いて、精神が凪いでいく。 いつもそうだ。どんな不安も恐怖も母親が全て制していく。これでは親離れの出来ない駄目な子どもだと思うのだが、母親の存在感の大きさは他の人間と比べることすら馬鹿馬鹿しいほどだった。 促され、那岐は今回起こったことを一通り話した。 自分のせいだと、抱えている気持ちも告げると母は唸った。 『だからといって友達を斬れる?』 那岐が悩んでいる、そして早急に決めなければならないのはその一点だった。それは母も分かっているのだろう。だから開口一番にそう尋ねてきた。 斬れるかどうか。 それが分かれば、決することが出来れば後は自動的に行動が決まってくる。 しかし那岐はその一歩が踏み出せないのだ。それが怖い。 「それは……分からない」 鬼ならば斬るべきだ。そんなことを少し前まで堂々と言っていた。どんな相手でも斬らなければいけないのだと。 なのにいざ自分がその立場になったら怖じ気づいているのだ。 所詮そんな、小さな志だった。 母はそんな那岐を嗤わなかった。 『そうね。そんな簡単に決められたら、もう貴方は斬っているわ』 母に電話するまでもない。寮に戻ることなく野々村を探し回っている。見付け次第切り捨てて喰ったことだろう。 だがそうしていないということは、迷いを示している。 「でも俺のせいなんだ。俺が付き合ってたらそうはならなかった……」 『どうかしら。鬼になる人は何がきっかけか分からない。そしてたとえ貴方と付き合っていたとしても、今後鬼にならなかったという保証はない。そして貴方が壊れていた可能性だって高いのよ』 自己犠牲の上に成り立つ生活に、那岐がどこまで耐えられるのか。 そう長くは保たなかっただろう。結局野々村は鬼に墜ちるしかなかったのだろうか。 『それに斬ると決めてもいざその時になって躊躇わないとは限らない。もし躊躇ったら、良くないことになる』 鬼は人の力を超える。那岐は人間から逸脱した部分があるけれど、鬼を目の前にして躊躇出来るほどの力の差を持っているわけではない。 もしその躊躇した隙に、命を脅かされることがないと断言は出来ない。 『もう人を殺しているのなら、きっとすぐに次々手を出し始めるわ。だから早く始末した方がいい』 「母さん……俺」 『鬼になったきっかけは貴方のせいかも知れない。でも鬼になることを選んだのは、その方向に自ら向かったのは本人なのよ。貴方が無理矢理その道に押し出したわけじゃない』 那岐の心の憂いや惑いを見透かして、母は喋っていた。 『人はね、誰かに強制されて鬼になったりしないの。鬼になるのはそれが自分の望みだからよ』 自分で願ったからなのよ。 そう言う母の声は那岐を慰めてくれる。そしてそれは那岐を落ち着かせるためだけの台詞であって、真偽も定か出来ないことだった。鬼に墜ちた人がまともに会話をするはずがないのだから。 『那岐。他の人に頼っていいのよ』 それは母が出した、那岐が選ぶべき答えなのだろう。 深く息を吐き、那岐は目をきつく閉じた。 鬼に成り果てた野々村はまだ人間の姿と何ら変わりがなかった。その身体を無残に切り捨てられる自信など、どこにもない。そしてこれ以上野々村が変わってしまうのも、野々村に人を殺させるのも非情だ。 『鬼の専門の人がそこに近くにいるから。その人に話しておくわ』 黙っている間に、事が進んで行く。母はきっとすでに誰にこの依頼を持っていくのか、そしてどんな早さで始末されるのか計算しているはずだ。 那岐がこれでいいのかと自問している間に現実は過ぎていく。 『そのお友達は、お友達だった姿のまま、そのままの状態で留めておくのも優しさなのよ』 最後の姿が鬼で、自分で斬ってしまった。 そんな記憶で終結させることはないだろうと、情のある言葉に那岐は小さく「はい……」と返事をしていた。 母はそれに納得したようで、那岐にあまり落ち込まないように、週末にでも家に帰ってきて気分転換でもしなさいと言って電話を切った。 通話を終えた携帯電話を握り締め、那岐はようやく目を開けた。 だがそこには開放感も決断も、そして諦めすら浮かんでいなかった。 迷いはそれでも、断ち切れていなかった。 眠れぬ夜を過ごして、次の日にすっきりしない頭で大学に出席した。 その頃はもう鬼のことは人に任せようと思った。専門家ならばあっさりと片付けてくれるだろう。野々村はもうこれ以上誰も傷付けずに済む。 それに鬼に墜ちたのは野々村自身の責任。那岐に押しつけられても困る。 そう割り切って昼間を過ごした。明るい間はあまり鬼は出てこない。 まして人の姿から外れれば外れるほど、人から鬼になり果てた時間が長ければ長いほど夜の闇に紛れるようになる。 きっと野々村は真昼に出歩くことはなくなる。 だから今は安全であるはずだ。 大学は昼過ぎで終わり、サークルはまだ暗い雰囲気であり原因を知っているだけに那岐はまだ足を運べずにいた。このままサークルを抜けるのもありかも知れないと思いながら寮に戻り大人しく部屋に引きこもっていた。 これでいい、これが正しい。 (俺に出来ることなんてない) 部屋の中でそう何度も思い、口に出し、夜を迎えて。 「……駄目だ」 そう吐き出した途端に立ち上がっていた。 何もかもが駄目だと思った。 自分が関わり、自分が引き金を引き、そして事態を終わらせることの出来る力を持っているのにただ待っているだけだなんて。 部外者として安穏としているだけなんて、卑怯だ。 上着を羽織り、持つべきものを仕込み、玄関を出る。 その瞬間、これまでになかった力が腹の奥から湧いてくるのが分かった。 母に専門家に任せろと言われた後には決して得られなかった開放感が、那岐の背中を押していた。 たとえそれが、そのまま食欲にすり替えられるとしても。じっとしているよりずっと気持ちが良かった。 (結局、生き物は快楽に従うんだ) それが倫理的理由であれ、ただの欲望であれ。快楽を得るために動くことはこんなにも身体が軽い。 愚かしさを噛み締めながら、那岐はまず野々村の実家に向かった。高校時代野々村は実家から通ってきており、どの辺りに住んでいたのかは教えてくれていた。 電車で移動し、高校近くの駅に下りると二ヶ月ほど前まで那岐もここに住んでいたのに、懐かしさを覚えた。 野々村の家は一軒家ですぐに見付かったのだが人の気配はなかった。それどころか郵便受けには新聞紙が数日分詰め込まれており、二階の窓が一部割れているようだった。 鬼の気配も、残滓すらない。 (帰ってないか) そうは思いながらも見知った土地をふらふら歩き、一時間後、二時間後にまた野々村の家を見たけれど変化はなかった。 終電まで粘るわけにはいかず、また粘ったところで帰ってくるとも思えず、那岐はいったん打ち切って再び電車に乗って戻った。 どこにいるだろうか。 大学の周りをうろついていたのはきっと那岐を探すためだ。だが那岐を危険だと判断した後はどこに行ったのか。それともまだ人間の記憶を引き摺り、同じ場所にいるか。 深夜になっても眠気どころか、意識は冴える一方で。那岐は寮や大学の周辺を歩き回った。 そして那岐がいる寮とは正反対の場所にある、もう一つの寮の近くで急激に瞳孔が開くような感覚を得た。 鬼がいる。 頭より先に脊髄反射のように走り出していた。 シザーバックに入れていた物を握り締め、気配がする方向へ急ぐ。 そこには野々村が立っていた。 こちらに気付かず、じっと何かを凝視している。 野々村、と声を掛けようとした。だがこちらに気付かれればまた逃げられるかも知れない。 不意打ちで斬り殺すのも憚られるけれど、せめてある程度距離を詰めようとした。 声を掛けても何が言いたいのかは分からない。だが無言で斬り殺すのも嫌だった。 だがそんな甘さが徒になった。 野々村は那岐に気付かなかった。しかし凝視していた方向に何かを発見したようで、いきなり姿勢を低くした。 そして街路樹に飛び乗る。 (獣だ……) 木の上に乗った野々村は猫のように四つ足で身体を支えていた。そこに人間としての理性は薄い。 無表情の横顔は思考が読み取れず、むしろそんなものは失ってしまったのだと表してるようだ。 (何をするつもりだ) まさか人に襲いかかるつもりなのか。 口を開いた野々村は、鋭い牙を見せる。浅い息は欲を掻き乱しているせいだろうか。 しかしそれは那岐とて大差がない。こくりと鳴った喉は野々村から香ってくる甘さを味わいたいと渇望していた。 何かもかもが野蛮で、浅ましい。 しかしそんな貪欲さに憂いを感じている場合ではない。これ以上野々村が何かする前に始末してしまわなければ。 唇を噛んで那岐は握っていたものを軽く上下に振った。 ガシャンと金属音を響かせたそれは携帯警棒だった。 三段階に長さを調節出来るそれはシザーバックに入れていれば人目に付かず、重さもさしてない。最悪見付かったとしても刀を携帯しているよりずっとましだろう。 しかし那岐が持てば鬼を斬る刀になる。 息を止めて、アスファルトを蹴った。木の上など常人ならば届くはずのない高さだ。だが那岐ならば力を込めてしまえば辿り着けるだろう。 野々村に向かって疾走すると、野々村はそれを避けるように街路樹を次々飛び乗って移動し始めた。 黒い服は夜の暗がりに紛れそうだ。だが香りは誤魔化せない。 どこに行くのかと焦れながらも追いかけていると、野々村は突然木から下りて道路を走った。人間で四つ足で、しかも猛スピードで走る姿は異様すぎて戦慄が走る。 だがもっと恐ろしいのは、そんな野々村が目指した先に人がいたということだ。 まして、それは。 (あの人!) 大学の正門で会った長髪の男だ。 (なんでこんな時間に!) 深夜に、コンビニもないこんなところで何をしているのか。 焦って那岐はもつれそうな足を更に急かした。野々村に食い付かれるその人を想像して、血が凍り付く。 絶対にあってはならないことだ。 思考はそこで切断された。ものを考えることすら出来なくなっていたのだ。 鬼を斬る、その人を殺されるわけにはいかないから。 簡潔な行動力のみで那岐は動いていた。 だが目が合い、その人もまた驚いたように「あ」と呟いた瞬間。 ぱちりと眼窩の奥で光が弾けるような錯覚に襲われた。 だが身体はきちんと野々村を肩から斬り付けていた。 そのまま肉をえぐり、骨まで砕くことだろう。 だが警棒が野々村の肩に当たった時には、影が一つ視界に生まれた。 集中している時の那岐の意識は人間の領域を超えている。それでもはっきりと認識出来ないほどの速さだった。 何が生まれたのかと思うと、野々村の背中に氷が突き刺さっていた。 よく見るとそれは刀の切っ先であり、前方から野々村を突き刺したようであった。 刀はそこから斜めに身体を切り裂き、野々村の胸部から左脇腹までを断ち切る。 そうしている間にも那岐が叩き付けた警棒は力に従い、野々村の右肩をえぐっていた。 「……あ…にき…?」 その人をかばうように傍らに立ち、野々村を睨み付けていたのは自分によく似た顔の男だった。 次 |