四




 
 岸田は次の日、大学には来なかった。
 気にはなったけれど、メールをするのも抵抗感があり迷っていた。すると昼前に門戸からメールがあり、どうやら岸田は門戸にも連絡をしていないことが分かった。
 その時点で嫌な予感がした。
 昨日、様子のおかしかった野々村が頭を過ぎった。だがそんなことを話して、実のところただ風邪で寝込んでいるだけでした、となれば無闇に騒ぎを起こすのも良くない。
 だがべったりと汗ばむ背中に、那岐は言いようのない不安に襲われた。
『後で岸田の家に行ってみる。だから今日はサークルに行けない』
 その文面に、少なくともすぐに岸田の状態は知れるだろうと思う。
 しかし携帯電話に連絡しても、音沙汰がないというのは異常だ。電源が切られているということか。
(門戸に出ないなら、俺にだって出るわけないと思うけど)
 那岐は念のため、と昼休憩時に岸田に電話をかけることにした。だが数時間前、この携帯電話で繋がった先にいたのは野々村だと思うと憂鬱だ。
(まさか出たりしないだろ)
 あれから夜も明けている。野々村だって大学に行っているだろうし、そう何時間も人に携帯電話を貸すとも、奪われたままだとも思えない。
 第一野々村だって岸田の携帯電話など持っていても仕方がないだろう。
 通話を開始して、十数秒で電話が繋がった。
 驚きながらも「もしもし?岸田?」と話しかけると大きく息を吸った気配があった。
『なんで岸田さんばっかりなの!?』
 怒鳴りつけられた衝撃に那岐は凍り付く。
 野々村だ。まだ野々村の声がする。
「なんで……まだ」
『私からの電話は出ないのに、どうして岸田さんには電話したりするの!?やっぱり岸田さんは蓮城君に擦り寄ってたんでしょう!?好きな人が別にいるとか言って!』
 憤りのままに叫ぶ声を聞きながら、岸田はどこにいるのだという疑問と、そして野々村の声に違和感を覚える。
 狂気を感じるのはいつも通りだ、もうそこは諦めている。だが何かが違う。常人と決定的な違いがそこにある。
(甘い……?)
 怒鳴り声に甘さなどあるはずがない。
 それは刺々しく、聞いていると精神が逆撫でされるような不快感があるはずだ。現にこれまでは那岐もそれにうんざりしていた。
 だが今は違う。
 鼓動が早くなり、喉の奥がこくりと鳴った。犬歯が疼き、喰らい付けと囁きはじめる。
(……人間じゃない、人間じゃなくなってる!)
 そう気付いた瞬間、那岐はとっさに電源を切っていた。
 人間ではない血が那岐に「鬼だ」と教えていた。食い物がそこにいるだろうと笑っている。
 急激な喉の渇きに手が震えた。
(……野々村が、鬼)
 感情が高ぶり、常軌を逸した、自我を壊した者が鬼になる。それは知っている。そしてそんな鬼を斬って喰ったこともある。それは蓮城の宿命のようなもので、喰わなければ己が鬼に墜ちるかと思うほどの痛みと狂おしさに襲われるのだ。
 そして何より、鬼は美味い。
 人と似た形をしている、元々は人間だった鬼であっても躊躇いを捨てられるほどの味だった。
 連城の直系はそもそも人間であって人間ではない生き物であると教えられて、育ってきている。致し方ないことなのだと納得している部分もある。まして、鬼に人が喰われる方が不条理だと思っていた。
 なので自分と他人を守るために喰うのだと、そんな理由を付けてはたまに鬼を喰っていたのだが。
 自分の知っている者が鬼に墜ちたことなどなかった。
 だからだろう、人は鬼になると知っているくせに、膝が崩れ落ちるほどのショックを受けていた。心臓が酷くうるさく、痛いほどに脈打っている。
 これまで出会って来た鬼は、那岐が見た時にはもう異形の者だった。名前も顔も知らない鬼だ。人間だったなんて言いながら、心の中ではそれは元から鬼であったのだと思っていた。そういう風に自分の意識をすり替えていたのだ。
(墜ちた……)
 狂っていると思った。だが鬼になるほどの狂気だったなんて。そしてきっとそれを誘発したのは。
(俺だ……)
 急に眼前に映し出された現実に、那岐は言葉もなく打ちのめされた。



 鬼を止める方法なんてない。人は墜ちれば後はもう這い上がることは許されずにただ成り果てるだけだ。
 だがそんな人間は希少なのだ。大半の人間はどれほど憎悪に沈んでも、狂気を抱いたとしても人間のまま壊れていく。だからこそ自分の周囲の人間がそこまで墜ちるはずがないと思い込めたのだ。
 野々村の言動がどれほど異常でも、鬼と結びつけることはなかった。そんな認識は甘かったのだろうか。
 魂を抜かれたかのように、呆然としたまま残りの講義を受けて帰ろうとした。剣道部に顔を出す気分でもなく、野々村が鬼という事実をどう処理すればいいのか迷っていた。
 だが迷う那岐が正門に近付くと、ほのかな香りがした。
 甘い果実のような香り。一瞬花かと思った。だが正門に植わっているのは桜たちであり、瑞々しいその緑が香りを放つとも考えられない。
 怪訝に思いながら歩き、はっと我に帰った。
(……来て、る……?)
 嗅いだことのある香りだ。だが真昼にそれを感じることなんて、ましてこの日常の中で嗅ぐはずもないものに、それだと理解出来なかった。
 鬼がいる。そして、門の近くにいる鬼といえば。
 駆け足で那岐は正門から出た。
 これまでならば自ら望んで野々村がいる方向に行くはずがなかった。だが今は目で確かめたいと思った。自分の勘違いだと思いたかった。
 だが正門近くに立っていた女は、熟した果実のような香りを纏って立っていた。
 真っ白なブラウスにデニム。すっきりとした服装に髪はポニーテールに結われていた。野々村らしい格好。だがその気配はどす黒い。
 目に見えない雰囲気が、印象がまるで汚泥のように感じられる。
 なのに香りだけは食欲を刺激する甘さを含んでいる。
 鬼だ。
 間違うはずがない。この世のどんな現象を間違っても、これが鬼であることを迷うはずがないのだ。
 視線が絡みつき、絶望に包まれる。それなのに那岐は容易に一歩踏み出していた。
 そして手を伸ばそうとしてしまう。
 今すぐ野々村を掴み取り、その身体を裂いてしまおう。ここではまずいから、どこか人気のないところに連行して、そしてひと思いに潰すのだ。
 大丈夫。
(鬼は喰えば灰になって消える)
 だから例え誰かに微かに見られたとしても、証拠がなければ幻として処理される。
 久方ぶりの鬼に軽く意識が遠退いていく。喉がからからに渇く感覚に唇が自然と開かれた。
 いつもなら那岐を見た途端に機関銃のように喋る野々村は、その姿にひっと息を呑んだ。
 怯える態度に冷ややかな気持ちが湧いてきた。
(鬼だから俺が怖いのか)
 殺されると本能的に感じるのだ。この血が刀だから、怯える鬼がいる。力の差を感じてしまうタイプの鬼は那岐を見れば一目散に逃げ出す。どうやら野々村はそのタイプだったらしい。
 人間でいる時はあんなに人を追いかけていたのに。その苛立ちを思い出しては背中を向けて脱兎のごとく駆け出した野々村を追いかけようとした。
 だがその那岐をぴたりと止めた気配があった。
 物理的には何も触れていない。そしてそれは鬼の気配でもない。
 何か分からなかった。
 甘いわけではない、鬼のような食欲をそそる香りでもない。そもそも香りらしい香りはないのだ。だが全身を縛り付けられたのように動けなくなった。
(なんだろう)
 鬼を喰らうことで頭がいっぱいだったはずなのに、突然人間としての意識に戻される。欲望にまみれて理性を捨てた精神が冷たい清水を浴びて綺麗に洗われていくようだ。
 頭の天辺からすっと心が静まっていく。こんな感覚は初めてだった。
 清廉な、柔らかなものが込み上げくるのに合わせるようにして瞬きをし周りを見渡す。
 どこから来るのか、何が来るのか。
 常人より鋭い感覚が察したものは何なのか。心地良い、音でも匂いでもない気配。だが強く、はっきりと那岐を呼んでいるような気がする。
「なんだろう、これ」
 野々村を追うことに全力を尽くすはずだった身体は、まるでそんなことはなかったかのようにその気配を探る。そして首を傾げている那岐にそれは寄って来た。
 正門から出てきた一人の男。
 細身で、男だというのに長い髪を一つに括っている。
 少し神経質そうな目はきょろきょろと周りを窺っていた。那岐のように何かを探しているというより、警戒しているかのようだ。
 眉を寄せているのも、きっと違和感か何かを持っているからだろう。
(なんだ……この人)
 見た目が特別良いわけではない。髪が長いという珍しさを除けば大人しそうな容姿をしており、那岐が目を止めるほどの派手さなどない。
 それでも那岐の網膜にはその男が焼き付いた。
 心地良い、胸の内側を撫でてあたためるような気持ちを、その男が生み出している。
 今すぐ声を掛けて、不安そうにも見える男に安堵を与えて守らなければと思う。名前も知らない、会って数秒の相手にそんなことを思うのがおかしいと、まして実行すればただの不審者であることも理解しながらも。そんな希望が膨らんでいく。
(誰だ、この人。同じ大学か?同い年かな)
 知りたいことが次々浮かんでくる。今すぐ全ての答えを得たいと思う。
 こんな急激な興味は初めてのことだ。
 自分でも驚いていると、その男は那岐を見て目を点にした。
 驚愕、と表すのが正しいだろう反応にこちらまで驚いてしまう。
 那岐が感じたような感覚をこの男も味わっているのだろうか。自分の心の柔らかな部分をぎゅっと握られたような歓びと切なさを感じているのか。
 それとも全く別の感情なのか。
 だがこの男も何かしらの刺激を受けたのは間違いないだろう。でなければそんな風に驚くことはないはずだ。
「あ、の」
 どう話しかけて良いものかと迷っていると、その男は先ほどの野々村のように弾かれるように背を向けて駆け出した。
 逃げたのだ。
(な…なんでだ?俺まだ何もしてないだろ)
 見ただけで分かるほどの不審者だというのか。だが少し前まで普通に講義を受けていたのだ。見た目がおかしいのならば誰かしらに指摘されているだろう。
 なのにまるで化け物を見たような反応ではないか。
(……そんなに嫌がらなくても……)
 危害を加えるつもりなんてかけらもないのだ。ただ知りたいと思っただけだ。
 小動物のように去っていった人の背中を思い出しながら肩を落とした。
 しかしこの大学から出てきたのだから、通い続ければいつか会えるのではないか。
 この曜日のこの時間の正門。そう頭の中に刻みつけていると、携帯電話が震えた。
 その振動にふと野々村のことを思い出し愕然とした。
 あの男を見た瞬間にそればかり頭にあって、あれほど衝撃を受けたはずの野々村のことが一端全部思案の外に出ていたのだ。
 いくら違和感を覚えても、気になっても、鬼になった野々村のことを忘れるほどのことではなかったはずなのに。どうしてこんなにも綺麗に意識から排除出来たのか。
 自分の理性を疑いながらも携帯電話を見ると門戸からだった。
 岸田の家に行ってみると言っていたが、その結果を教えてくれるのだろう。しかし鬼を見た後では恐怖の方が先立った。
「……もしもし?」
 しかし後回しにしても結局は向かい合うはずだ。恐る恐る通話をすると、門戸の声は震えていた。どうやら泣いているらしい。
『れ、れんじょ』
「どうした?岸田は?」
 きっと良くないことに、酷いことになっているのだ。もう分かってしまった。それでも否定が欲しくて尋ねてしまう。
 それに門戸は嗚咽を零した。
 ああ……と那岐は声にならない声を零した。
『し、しんだ。殺された、んだ!』
 そうだろうな、と言いたくなった。野々村が殺したのだ。
 あの鬼が岸田を殺したのだ。もしかすると昨夜の時点で殺していたのかも知れない。
(あの時、殺したって野々村は言ったんだ)
 だが那岐の耳には聞こえなかった。
 そして聞こえていたとしてもこの事態は変えられなかったことだろう。
『か、かぞ、くも。みんな』
 皆殺しにしたのだろう。家に押し入ったのか。
(鬼になったんだ)
 那岐の感覚だけでなく、世界は野々村を鬼だと認識した。
 それだけのことをしてしまった。
 だが那岐の中では去年までの、明るく世話焼きの同級生の面影ばかり蘇る。
 数分前に逃げていった背中はいつの間にかあの名前も知らない髪の長い男にすり替わってしまったのだ。



 


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