参




 
 部活が終わると、那岐と同じく寮に入っているという一つ上の先輩と帰っていた。
 寮から近いのは西門で、まだ大学に慣れていない那岐が先輩からあれこれ教えて貰っていた時だった。
 西門から出るとすぐ近くに人影があった。
 夕暮れも過ぎ、辺りはとても薄暗かった。なのですぐに誰かは分からなかった。ただ女だろうとは思ったけれど、嘉林塚にも女は山ほどいる。
 自分たちと同じく大学生なのだと認識しており、横を通り過ぎようとした。
 だが近付いた瞬間、見知った人の姿に見えて那岐は足を止めた。
「蓮城君……」
 まるで那岐が足を止めるのを待っていたかのように、野々村がはっと顔を上げてこちらを見た。
 少し痩せたようだった。ふっくらとしていた頬がやや削れ、その分大きな瞳が強調されていた。
 ぶれることなく那岐を見てくる。
 それしか映していないかのような視線だ。
 ぞくりとした。他の何も見ようとしないその執着は尋常ではない。
「嘉林塚にいるって聞いて、私」
 野々村は那岐に駆け寄ってくる。ようやく会えたと口元には笑みが浮かんでいた。だがそれに対する那岐は身体を硬直させて、鼓動を速めていた。
 緊張感と共に逃げなければ、という警告音が脳内に響き渡る。
「友達?」
 先輩はのんきに、むしろ女の子相手ということでからかおうとしているような、にやついた顔で尋ねてくる。
 その勘違いが恨めしい。
 そうやって那岐はこれまでも周囲に追い詰められてきたのだ。ここに来てまでまた、同じように苦しめられるというのか。
「……高校時代の……」
 苦さを噛み締めて、今すぐ消えて欲しいという気持ちで口にすると先輩はにやついた顔を止めた。那岐がこの状況を嫌がっていることに勘付いてくれたらしい。
「蓮城…?」
「なんで大学変えたこと言ってくれないの?携帯で連絡も取れないし」
 先輩が何か問いかけようとしているけれど、野々村がそれを許さない。那岐が他の人と喋るのを阻止しようとしているかのように、矢継ぎ早に話しかけてくる。
「すみません、先帰ってて下さい」
 これ以上先輩にいて貰っても不愉快な思いをさせるだけだろう。それに野々村がどんなことを言い出すのか分からない。
「いいけど……」
 先輩は那岐より一歩踏み出した後に、このままで良いのだろうかという躊躇いを見せた。きっと心配してくれているのだ。
 那岐と野々村が決して良い関係ではないことを察してくれたらしい。
 優しさに感謝したいところだが、関わって貰っても改善される部分なんてないだろう。
「大丈夫です」
 頷いて見せると先輩は「じゃあ」と言って離れていく。
 明日何かしら訊かれることだろう。
(何もないところから始めたかったのに)
 こんなことがあるなんて、誰も知らない状況から始めたかった。そして知らせることなく暮らしていきたかったのだが。あっさりと壊されてしまった。
「どうして携帯教えてくれなかったの?もしかして壊れちゃったの?だったらもう一回教えてよ」
 野々村は自分の都合の良い方向に思考を向ける。そして肩からかけていた鞄の中から携帯電話を取り出す。
 そして那岐が教えることを拒むなんて思いもしない笑顔を見せるのだ。これまで那岐は様々なことを拒絶してきたというのに、何一つ覚えていないとでも言うのだろうか。
「教えないから。おまえには」
「なんでそんなこと言うの?」
「俺言ったよな。おまえとは付き合えないし、そういうの無理だって」
 好きだと言われても、最初は驚いたけれど恋人になれるなんて想像も出来ず。また今以上の関係も望んでいなかった。たがら申し訳ないけれど断った。二度目からは困惑が、そして回数が増えるたびに遠慮と友達として向けていた親しさが欠けていった。
 代わりに増えたのは憂鬱と苛立ちだ。
 去年なら決して言わなかっただろうきつい台詞も、今は口にするようになってしまった。
「他の好きな人がいるわけでもないんでしょ?いないなら私でもいいじゃない」
「そういうのは嫌だって言ってるだろ」
 好きな人はいないと、最初に言ってしまった。
 いると言ってしまった方が楽だっただろうか、と後になって思ったのだが。現在の野々村を見ていると恋人と想定された人がどんな目に遭うのかと不安になる。
 自分以外に矛先を向けるのは危険だ。
(野々村は何をするか分からない)
 底知れない恐怖が今の野々村にはあった。
「もう俺のことは諦めろよ」
 那岐にばかりこだわっているけれど、他にも男は星の数ほどいる。何も那岐だけを見続ける必要なんてないはずだ。
 第一これだけ拒まれて、まだ迫ろうとする行動力が信じられない。もっと別の方向に持って行けばきっと大きなことを成せるだろうに。
「諦められたらこんなことしない!」
 那岐の一言が癇に障ったのか、野々村は突然激高して怒鳴った。
 先ほどの笑顔が嘘だったように、殺意すら感じるほどの目つきで睨んできた。
 那岐のことが好きなのか、憎んでいるのか。この目に晒されるといつも分からなくなる。
「悪いけど何度言われても無理だから。おまえのことは好きじゃない」
 好きだと言えれば、こんなことにはならなかったのだろう。だがもし妥協して野々村に好きだと言って付き合ったのならば、きっと恋人になった後も何かとこうして束縛されるはずだ。
 何もかも支配しようとする欲望が感じられる。
 到底そんな関係を許せるとは思えないのだ。
 自ら檻の中に入っていく愚行を犯すはずがない。
「好きになってよ」
 本来ならここで終わりになっているはずの台詞を告げても、野々村はまだ食い下がってくる。この努力と粘りが理解出来ない。
 絶望感がまた一つ増えていき、那岐は目の前が暗くなっていく感覚に襲われる。
(話が通じないって、マジで辛い)
 平行線の会話はただの言葉のぶつけ合いだ。妥協も何もあったものではない。
 疲労ばかりで精神が摩耗していくようだ。
「帰ってくれ。もう来るな」
 何度会っても、話をしても、やっぱり駄目なのだ。野々村は諦めない、理解もしない。那岐が折れれば良いと思っている。
 那岐が好きだと言いながら、決して那岐の気持ちを知ろうとはしないのだ。
(そんなので付き合えるわけないだろ!)
 だがこのことに関しても真面目に話したことがある。友達を交えて説得もした。
 それでも野々村は一切変化がなく、自分の要求を通すことだけに専念した。お手上げだったのだ。
 逃げる以外の選択肢が、那岐にはなかった。
 この時もそうだ。野々村をその場に置いて那岐は駆け出した。
 一度大学に戻り、その中をぐるりと回って今度は正反対の東門から出て近くのコンビニで時間を潰した。
 寮に住んでいると特定されることも嫌だった。何か変な郵便物を送られるのではないかという恐れがあった。
 そして二時間ほど経過して、周りに誰もいないこと、付いてきていないことを確認して寮に戻り、部屋に入ってどっと疲れた。
 だがそれで終わりではなく、次の日那岐と同じように疲れた顔をした岸田に会った。
「野々村さんと会ったの」
 睡眠不足なのかと尋ねる前に岸田はそう言った。
 疲弊している様と声の重さに、野々村が何かしたのだろうと予測は付いた。そしてそれはきっと那岐が追い返したせいなのだ。
(だから嫌なんだ……)
 周囲に影響を与えるから、野々村と接するのは嫌なのだ。
「変わったね、あの子」
「やっぱり、岸田もそう思うのか」
「思うよ!あんな子だと思わなかった!」
 夏の大会から会っていなかったはずの人は、再会した野々村に異変を強く感じたことだろう。そしてそれは決して良いものではなかったのだ。
 批難する声に那岐は溜息をつく。だが解決法が見付かっていないのだ。
「あの子、怖い……」
 正気ではない、そう誰だって感じる。だが口に出して言うには、憚られるのだろう。
 言い辛そうに目を逸らしている岸田に申し訳なさが込み上げる。
「もう連絡取らないほうがいい。あいつ、おかしいんだ」
「うん……」
 おかしいと言っても岸田は否定などせず、那岐の言ったことに返事をしてただ気まずそうに俯く。
 情報も連絡も絶ちきって、新しく開始するはずの生活に影を落とされて那岐は頭を抱えた。



 野々村は次の日も大学の門の前に立っていた。
 待ち伏せされるような予感はしたので、一端引き返して別の門から帰宅した。かなり遠回りになるので迷惑だったが、捕まるよりずっとましだった。
 それから大学に行く時も帰る時も門を気にして、野々村の姿を探した。
 いつどこから那岐が出てくるのかなど野々村は知らない。なので出会すことはそう多くなかった。
 やはり情報を流さないことが最も効果的なやり方なのだ。
 警戒しながらも野々村に見付かることなく、しばらく平和と呼んで良い日々が続いた。あの日野々村と話しているのを見られた先輩も、実は迷惑しているのだと話すと同じように警戒してくれるようになった。
 きちんと那岐の話を聞いてくれることにほっとし、周囲が責めてこない状況に胸を撫で下ろしていた。
 だがそんな中、夜中近くになって携帯電話が鳴った。
 高校時代なら携帯電話が鳴ると身構えてしまっていたが、今はそんなことはない。野々村はこの番号を知らないのだ。
 なので気軽に携帯電話を手に取り、ディスプレイを見て首を傾げた。
 岸田の名前がそこにあったのだ。
「なんかあったのか?」
 岸田から連絡、しかもメールではなく電話だ。
 何か急なことでも起こったのだろうか。
 だがあったとしても那岐ではなく、同じ高校出身で同じ剣道部の門戸に声を掛けそうなものだが。
 疑問も思いつつ通話ボタンを押して耳に押し当てる。
「もしもし?どうした?」
 スナック菓子片手に尋ねると、向こう側は沈黙だった。
 ちゃんと通じていないのだろうか。
「もしもーし。岸田?何かあったのか?聞こえてるか?」
 疑問を続けると、息を吸った音がした。ちゃんと繋がっているらしい。
 しかし次の瞬間、凍り付いた。
『出るんだ……』
 低く、恨めしそうな女の声。聞き間違えるはずがなかった。
「野々村………」
 どうして野々村が岸田の携帯電話を使っているのか。岸田は那岐の番号を教えないと約束してくれた。だから携帯電話を貸したとでも言うのだろうか。
(でも岸田ってそんなことするタイプか?)
 そんな意地の悪い、ひっかけのようなことをするような人間だろうか。
 真面目な、ちゃんと人を思いやれる人間だと思ったのだが。
『なんで、なんで岸田さんの電話には出るの。私のは出ないのに、なんで』
「なんで野々村が岸田の携帯使ってんだよ」
 野々村の言っていることは相変わらず独りよがりで意味が分からない。答えられるはずもないので、一方的に那岐も喋る。
 いちいち聞いたところで無駄なのだ。冷たいようだが、他にやりようがない。
『だって、教えてくれないから』
 ぼそりと言い訳のように言われ、苛立ちが募る。
「俺が言わないでくれって頼んだんだよ。つか岸田は?」
 岸田の携帯を奪いでもしたのだろうか。岸田自身は何をしているのか。
 しかしそれに対して野々村は黙り込んだ。
「岸田を出せよ。おまえ勝手に人の携帯使ったんだろ。そういう身勝手なことするの止めろよ。どれだけ人に迷惑かけて」
『…したの』
「は?」
 何か言ったようだったが、野々村の声は半分しか聞こえなかった。まして自分が喋っている最中だったのだ。正しく聞き取れるはずもない。
『だって私何度も訊いたのに教えてくれなくて、それなのに蓮城君と同じ大学と剣道部だなんておかしいよ。きっとこの子も蓮城君のことが好きだったんだよ。だから私に意地悪して、何も教えてくれなかったんだ』
 何を言っているのだろうか。だが他の女の子が那岐のことを好きだなんて、それは聞き飽きたような台詞だったので怒りも何も湧いて来ない。ただ疲れるだけだった。
(岸田は門戸が好きなんだよ)
 本人がそう言っていた。告白しようかどうしようか相談までされたくらいだ。けれど野々村には言わない。どう利用されるか分からない。
『この子が悪いんだよ。この子、だから』
 だから…と言う声は震えて泣いているようだった。だが罪悪感も気まずさもない。もうこんなことも慣れてしまった。
『会いたいよ、ねぇ、会いたいの……』
 囁くような懇願に抵抗感と不快感だけが生まれてくる。
「無理だ」
 顔も見たくない。正直もう関わって欲しくないのだ。
 即答すると電話の向こうで野々村は息を呑んだようだった。けれど今更ではないか。
(何度だって俺は言ったのに)
 もっと酷いことだって言った。それでも野々村はまだ諦めないではないか。
 接触してこなくなるのならば、どんな冷酷なことだって言える。
 喋らずにいると嗚咽が聞こえてきた。だが野々村はそれ以上何も言わずに唐突に通話を切った。
「……何だ?」
 ツーツーと機械音を聞きながら、やや違和感があった。結局野々村は何が言いたくて電話を掛けてきたのか。会いたいと伝えたかったのか。
 そして岸田はどうしていたのか。
(そういえば何をしたって、言ってんだろう)
 会話の途中で野々村は何をしたと話していたのだろうか。
 気にはなるが確かめるために電話をかける勇気はない。数分野々村と電話しただけなのにずっしりとした疲れが肩にのし掛かっているのだ。
「明日、岸田に訊くか」
 野々村ではなく岸田に問えば良いのだ。この前のようにぐったりした顔をしているかも知れないが。
 今日はもう野々村のことなんて考えたくない、と携帯電話を放りだした。



 


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