弐




 
 嘉林塚には無事に合格した。
 受験すると決めた後、必死になって勉強したおかげだ。
 机の前に向かい続けて、尻から根が生えるのではないかと思った。
 それほど勉強する那岐に周囲は、そこまで努力するのは何故だと首を傾げていたのだが答えは教えられなかった。
 ただこのまま付属の大学には行けない。それだけが事実だった。
 そしてこれは予定通りとも言えるのだが、兄が通っている大学には落ちた。記念受験はまさに記念だけで終わった。
 受かるとは思っていなかったのだが、それでも不合格の文字を見た時は落胆した。
 憧れを持っているなんて思いたくないのだが、悔しさがあるということはその背中を追いたいとでも思っていたのだろうか。
 我ながら馬鹿だと思う。
 だが予定通りに事が進み、嘉林塚の寮に入って新しい生活が始まった。
 平凡な入学式に、平穏な新生活。
 新しいことばかりの毎日にあれこれ忙しいけれど、事件らしい事件もなくごく普通の大学生になれるようだった。
 高校までずっと剣道部に所属していたので、大学でも部に入るつもりだった。
 見学に行くと地区大会などで見たことのある人もおり、初めて行った部室だというのに「久しぶりだ」という感覚すらあった。
「蓮城君じゃない?」
「あ、本当だ」
 そんな声が聞こえて那岐は「あ」と目を見開いた。
 見学者として部室を覗き込んで来た男女はついこの前も見たような相手だった。
 剣道の大会で試合をした相手だ。他校の中では強い相手で、中学生の頃から何度か会っている相手なので顔と名前を覚えていた。
 それは向こうも同じだったようで、お互い数ヶ月ぶりの再会だった。
「嘉林塚に来たんだ?」
 女子の岸田はショートカットの髪を茶色に染めていた。高校生の時は黒だったのだが、校則に従っていただけなのだろう。それだけで印象が随分違って垢抜けていた。
 うっすらと化粧もしているようだ。女子はたった数ヶ月でがらりと変わるから驚かされる。
 男子の門戸は以前見た時と違いがない。そのことに少し安堵してしまう。大学生になったからといっていきなり変わる必要なんてないのだと、自分を納得させられる。
「エスカレータかと思った」
 痛いところをついてくれる。
 素朴な疑問なのだろうか、何とも答えづらい問いだ。
(そりゃその方が楽だし、剣道だって向こうの方が強いからな)
 嘉林塚より付属大学の方が剣道が有名で強いと言われていた。わざわざそこから外れるなんておかしいのだろう。
「ちょっとな。まさかここで二人に会うとは思わなかったけど」
「俺たちも。蓮城はこっちでも剣道やるんだろ?」
「一応そのつもり。ここもしっかり活動してるみたいだし」
 他の人に聞こえないように声量を落としてぼそぼそと話をする。
 ろくな活動をしていないのならば、大学での剣道は諦めようと思っていたのだが。二十人程の人数とやる気が感じられる雰囲気に入部しても良いという気持ちになっていた。
 ここに門戸も入るのならば、稽古の相手も出来る。
「他校なら脅威だけど、同じ学校ならいい戦力だよね!良かったね門戸!」
 岸田は嬉しそうに門戸の脇腹を肘で突いていた。
 そういえば門戸とは高校一年生の時に試合をして勝っていたような気がする。
「そうだな。こっちのもんだな」
「どっちのもんだよ」
 何かに勝ったつもりでいる二人に、那岐は苦笑した。戦力として認めてくれるのは嬉しいのだがまだ剣道部に入部してすらいないのだ。
 意識が先に進みすぎだろう。
 しかし知っている人がいるというのは心強い。
 サークル活動はきっとこれで問題なく楽しめるだろう。そして学業の方も興味のある講義が幾つかあり、高校までと違って自分の好きなものを選択して単位を取れるので自由度があってやりやすい。
 充実した生活を送れるはずだ。
 そう予感した。
 そして高校時代の息苦しさを忘れ、過去のものとして押し流して新しい道を行くのだと心に決めた。
 そのためにここに来たのだと、そう己にも告げた。



「野々村さんが連絡取りたがってたよ?」
 今日も剣道部の見学に、むしろ入部前提の下見に行こうとしていた。すると丁度岸田に出会った。講義を受けていた教室が同じ階だったのだ。
 ついでなので一緒に歩いていたのだが、突然聞こえてきた名前に那岐は足を止めた。
(今、何て言ったんだ……?)
 ここで訊くはずのない名が聞こえたような気がした。
 絶対に耳にしたくないそれを、まさか岸田が口にしたというのか。
 瞠目している那岐には気付かず、岸田は階段を下りていく。
 カンカンとミュールの音が金属の階段に響き渡る。
「いきなり別の大学に行っちゃって、びっくりしたって言ってたよ?なんで嘉林塚なの?ってあたしに訊いてたし。大学言わなかったんだね」
「……なん、で。野々村のこと」
 背中に嫌な汗が滲んだ。
 どくんどくんと耳元で聞こえる心臓は恐れからくるものだ。あまりの不意打ちに頭がついて行けていない。
「携帯の番号交換してたから。剣道部って女の子少ないじゃない?だから地区大会とかで野々村さんとは話したりしてたし」
 岸田は上機嫌だ。那岐のことなど振り返りもしない。
 それが恐ろしさに拍車をかけた。
(どこまで話したんだ)
 那岐が嘉林塚にいることは、きっと話してしまったのだろう。ならば住所は、寮にいるなんて言ってしまっただろうか。
(でも俺高校時代も寮だったから、大学も寮じゃないかって予測してそうだ)
 野々村は今何を考えているのか。それを想像すると血が凍りそうだった。
「……もしかして、駄目だった?」
 黙り込んで動かなくなった那岐に、岸田は数秒過ぎてから気が付いたらしい。ようやく顔を向けたかと思うと不安そうに表情を陰らせた。
 だがここで何を言ったところでもう遅いのだ。
 情報が少しでも漏れてしまった以上野々村はきっとここに来るのだろう。
 思うだけで憂鬱だ。
「距離、取ってたんだ」
「えっ……マジ?」
 岸田は目を丸くして、それから気まずそうに上目遣いで那岐を窺ってくる。
 しかしそんな反応をするのも無理はないだろう。
 きっと野々村と岸田が会ったのは夏の大会が最後。その頃まではまだ野々村と那岐の間にはあからさまに亀裂などなかった。
(野々村がおかしくなったのはそれからだ)
 それまでも色々兆候はあったけれど、崩壊が始まったのは夏が終わってからだった。
 思い出したくもない。思わず顔を覆ってしまった。
「俺の携帯とか教えた?」
「訊かれたけど、本人に訊いてからじゃないとって思って……」
 何でもぺらぺら喋ってしまう、というわけではないようだ。岸田も一応那岐のことは気を遣ってくれたらしい。
(携帯まで握られてたら今頃着信ありまくりか)
「教えないでくれ」
 真剣にそう願うと、岸田は何かを知ったような顔で頷いた。
「分かった」
 そしてごめんね、と続けてくれた。
(何のためにここに来たのか分からなくなる)
 那岐は逃れたかったのだ。
 高校時代に築いた関係たちから、介抱されたかった。
 野々村は同じ剣道部で一年時はクラスメイトだった。
 よくポニーテイルをしている女子で、明るくて接しやすい人だった。しかし部員同士の枠を出る事はなく、良い関係をずっと続けていたと思う。
 だが那岐が三年に上がり、後輩の女子に告白をされた辺りから野々村は変わった。部活をしている時は那岐の近くにいることが多くなった。よく話しかけてきて、腕などに触れることが増えた。
 だがそれも付き合いの長さ、三年間剣道部で共に過ごしたからだと思っていた。
 けれど周囲はそうは取らず、付き合ってもいない内からまるで野々村が那岐の彼女であるかのような扱いをした。
 それが野々村の態度に拍車を掛けた。
 夏休みに部活で花火をしに行った際、とうとう野々村に告白をされた。予感が全くなかったといえば嘘になる。だがついさっきまで友達だった相手がいきなり恋人の顔をしたのは驚いた。
 そして更に驚いたのが、告白を断れるはずがないという様子だったことだ。自信溢れるその様に、那岐は驚きよりも怖さが先に立った。
 野々村のことは嫌いではない。だが恋人になれるかどうかは分からない。むしろ今の関係が心地良くてこの先に進む気などなかったのだ。
 恋人というものが欲しくなかったというのもある。
 高校生だというのに彼女が欲しくないなんて嘘だと、友達たちは言う。だが那岐にとっては本心だった。
 奇妙な血筋に生まれたせいだろうか。
 人々の中にいても微かな違和感が付きまとうのだ。自分はどこか浮いていると感じる。
 周りはそうは思わないようだったが、那岐はずっと疎外感のようなものを抱えていた。そして他人に壁を感じる。
 正直普通の人間と真っ正面から付き合っていくのは憂いのあることだった。だからといって恋人と中途半端な関係で付き合うのも、気が引けた。
 だからこれまで彼女を作らなかったのだ。どうせ最終的には「違い」を感じて落ち込むのが目に見えていた。
 だが野々村がそんなことを知っているはずがない。
 付き合おうという一言だけを信じている人に、断りの台詞を告げるのは酷く後ろめたかった。
 だが那岐にはその答えしかなかったのだ。
 口にすると野々村は顔色を失った。そしてそれを認めなかった。
 頑なに嘘だと思い込んだ。そして那岐が自分の気持ちを受け入れないのは何か理由があるせいだと決めつけた。でなければ付き合えないのはおかしい。そう主張した。
 何が邪魔をしているのか。
 野々村はあれから、そんな有りもしない障害に取り憑かれた。
 日に日に執着してくる野々村が恐ろしかった。
 まさに人が変わったように那岐の行動を逐一知りたがり、管理したがった。
 最初は「付き合ってやれよ」と那岐をからかったり、説得しようとしていた部活の男子たちも、その異常さに眉を寄せるほどだった。
 けれど女子たちはそれすらも「一途な思い」と思い、那岐を責めた。
 それはクラスメイトたちにも伝染したようで、那岐は部活以外の時間も「どうして付き合ってあげないの?」「酷いよ」という言葉に晒された。
 不条理だと言いたかった。だが言ったところで通じないことも、何度目かの説得で理解した。「彼女がいない=告白されたら付き合わなければいけない」女子たちの間ではそんな図式が成立しているようだった。
 迫られれば迫られるだけ、息苦しくて逃げたかった。
 おかげでエスカレーター式の大学に進学することは出来なくなった。このまま進学すれば野々村と、そして野々村と付き合えと訴える女子たちと同じ空間で過ごすことになる。
 高校三年生、最後の五ヶ月くらいで精神的にかなり追い詰められたというのに。この先四年間も続くなんて冗談ではない。
 だから黙って嘉林塚に進学した。
 ごく親しい友達、野々村のことを分かってくれた相手にだけは大学のことも、携帯を変えたことも教えた。その他の人間には黙ってここに来ていた。
 もう野々村に会いたくなかったのだ。
(盲点だった……)
 努力してここに来たのだが。まさかここに来て岸田に情報を漏らされるとは思っていなかった。
(でも大学の名前だけだし)
 嘉林塚にどれだけの人数の学生がいることか。その内の一人である那岐に、携帯電話も行動スケジュールも知らずに会うことは困難だろう。
 一抹の不安を残しながらも、高校時代に比べると天と地ほどの差がある、と自分を慰めた。



 


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