壱




 
 大学に付属している高等学校に籍を置いているため、大学受験は内部受験になるはずだった。
 けれどそれを拒み、外部の大学を受験するのだと決めたのは冬の頃だった。
 受験の準備をするには遅く、教師をあきれかえらせた時期だった。
 我ながら馬鹿ではないかと思うのだが、付属している大学にはどうしても進学したくなかった。
 実家に戻り、その決意を口にすると母は「そうなの」と普段通りのおっとりとした口調で言った。
 普通の親ならば何を考えているのかと驚くところ、少なくとも理由くらいは訊くだろう。
 だが母はそれすらない。
 自分のことは自分で決める。そして自分で出来ることは自分でする。
 己の人生に責任を持て、と教育しているだけはある。
「嘉林塚って大学を目指してるんだけど」
 それまで微笑みを浮かべながら聞いていた母は、その大学名に瞬きをした。少しばかり面食らったような表情に、この母でも知っているような大学の名前なのだろうかと疑問に思う。
 ランクは決して低くない。有名どころには入るだろうが、それでも大学などに興味のない母が耳に入れるほどレベルが高い突出した大学かと聞かれれば首を傾げる。
 正直意外な反応だったのだ。
「学力は大丈夫なの?」
「そこそこ。たぶんいけるんじゃないかって」
 教師に相談すると、それほど危険な領域の大学ではない。充分狙えるだろうと言われた。
(本当は兄貴と同じところを狙ってるなんて。言えない)
 嘉林塚よりも高い、それこそ地元では特別有名だろうと大学に通っている兄と同じ大学に入りたいだなんて。口が裂けても言えない。
 そしてそこに入れるほど学力はないと自覚もしている。
 何よりあの兄を目指していると人に思われるのが嫌だった。それほどに気になるのかと指摘されたくないのだ。
 事実であっても人に意識されるのは耐えられなかった。
「そうなの。嘉林塚」
 何か思うところでもあるのか、母は呟く。
 嘉林塚に殊更思い入れでもあるのだろうかと思ったが、さすがに息子がこの時期にいきなり進路を変えるのは心配にもなるのだろうかと、やぶ蛇にならないように黙っていた。
(反対されても困る)
 所詮学生の身分、親に反対されて進学をし、援助金が得られないだなんて冗談にもならない。ここは大人しくしておく方が無難だろう。
 母は穏やかな見た目に反して、中身は激しい部分があるのだ。
「受かったらお引っ越しね。うちを挟んで正反対になるわね」
 実家を拠点とし、今通っている高校と真逆の方向に同じくらい離れた距離に大学がある。
 ここからいちいち通うのは時間がかかるので、向こうでも寮に入りたい。その話をこれからしようと思ったのだが、母は先を読んだらしい。
 そして自動的に、嘉林塚への進学を認めてくれたということだろう。駄目なら引っ越しの話などしない。
「……縁かしらね」
 母は笑みにやや苦いものを混ぜながら、そう口にした。
 真っ正面にいる息子ではなく、その向こう側に何かあるかのような口ぶりだ。
 母は変わった血筋の人で、その血のせいか普通の人間とは異なるところが多い。人間では感じられないものを感じ、出来ないことを成す。
 きっと今も何か感じたのだろう。
 母の血を受け継ぎながらも、鈍いとされている自分には何を感じたのか分からない。
「那岐、浪人だけは駄目よ?それだけはお母さん許さないから」
 違和感を覚えた那岐の口を閉ざしたのは、親らしい釘の差し方だった。
 しかも微笑んでいるのに、眼差しだけはどうも鋭い。
 脅迫に近いその視線に「はい……」とうなだれるように返事をしながら。滑り止めは幾つも受けようと心に決めた。



 那岐には兄が一人いる。
 物心ついた時には別居して、兄は祖父の家にいたので共に生活をしたことはない。
 正月に顔を合わせるくらいで、しかも会ったところで兄が那岐に声を掛けてくることはなかった。
 兄は弟などに興味はなかったのだ。弟だけではない、正月という行事ごとで集まってくる親戚たちにも関心がないようだった。
 他人に対して目を向けない。
 ただ祖父と母だけは別であるらしく。彼らだけには肉親らしい態度を示していた。それが一層那岐の心に傷を付けた。
 自分もまた家族であるのに、兄はこちらを一瞥することもない。
 しかし父もまた那岐と同じであり、兄は祖父の血、刀の血を示さない人間には興味がないのだと自然と思い知ることになった。
 那岐は自らの身体に刀の血を持っている。だがその力は兄には比べものにならぬほど弱い。刀を生み出すことが出来ない。突出した能力もない。
 ただ鬼を喰うことは出来る。しかしそれだけでは兄の気を引くことはなかったのだろう。
 路傍の石。
 兄は周りをそんな風に認識しているのだと、今ならば理解出来る。
 だが幼い頃はそれが分からなくて。兄が酷く遠く、自分がとても劣っている生き物だと思った。
 親戚はどうしても刀である兄を至上のものとして扱い。その弟である那岐は無言で比べられているような気持ちになっていたのだ。
 遺伝子はとても近いのに、どうしてこんなにも異なる生き物なのか。
 誰もそんなことは言わない。けれど兄の話を聞く度に、自分との違いに打ちのめされるようだった。
 だから中学生になる頃には、正月に祖父の家に行くことも止めた。行きたくないと言った那岐に、母は無理強いはしなかった。
 きっと那岐が兄に対してコンプレックスを持っていることを感じていたのだろう。
 祖父と兄が並んでいる光景は、まさに圧倒される雰囲気があるのだ。血が繋がっているせいか、刀である者の印象は強烈過ぎて目に痛い。そんな人々の所に、孫だの弟だのという顔で立っていられるほど、那岐の面の皮は厚くなかった。
 しかし兄の存在感は祖父の家だけでなく、小学校、中学校でも色濃く残されていた。
 あの兄を持つ弟。そんな目でずっと見られた。
 兄は目立つ存在なのだ。努力せずとも最良の結果を生み出す。学業でも、運動でも、兄は優秀で人の記憶に残り、存在感を刻みつける。
 弟というだけで人々はすでに兄を想像して那岐を見るのだ。おかげで何をやっても、たとえクラスで一番であっても「兄ほどではない」という評価になる。
 それが嫌で仕方なかった。
 一緒に暮らしたこともない、ろくに知らない者と比べられる。兄というだけで那岐の前に立ち塞がる。
 しかも兄自身は弟のことなど歯牙にも掛けていない。頭にないのだ。
 振り回されるのは那岐だけ。
 憎らしかった。いなければ良いのに思ったことは数え切れない。
 けれど兄のようになりたいと思ったことも、やはり数え切れないくらいにあった。
 力がある。腕がある。存在感がある。
 善悪関係なく、兄には何を成してもそれが最良であると人を納得させるだけの力業のような魅力があるのだ。
 そこにいるだけで絵になり、人を惹き付ける。
 生まれが違うのだ。生物学上からして、那岐とは格が違う。
 競おうと、比べられること自体が過ちなのだ。あれは別格として諦めなければいけない。
 そう自分を落ち着かせることが出来るようになったのは、地元から抜け出して兄とは異なる高校に進学した後だった。
 兄の影響のない高校に進むと、自分は周囲と比べてそう劣っている部分はなく。中学までは賞賛されることでもなかったことに、周りはどよめき声を上げた。
 色眼鏡のない環境で、那岐は自分は自分であり、兄とは関係のない者なのだとようやく認められたような気がした。
 だが同時に空しさもあった。
 兄のような存在を家族として持っているのに、自分は平凡である、所詮兄のいないところでしか人目を引くことのない者なのだと。そして兄はこんな自分を振り返ることは永遠にないのだ。
 他の誰でもない、あの兄に、鮮烈な生き物と目を合わせて向き合ってみたい。
 その欲求は気付は那岐の中で脈を打っていた。
 気が付いたから、意識したからそれを強く思うようになっただけで。きっと昔からその気持ちはあったのだ。
 兄の視線の先を探ってしまう、幼少期からきっと願っていた。
 そして叶わないことも、きっと知っていた。
『刀はね、主だけを求める生き物なの』
 母はそう語っていた。
 刀である兄はこの世で唯一、自分の主だけを捜し求め、その人のためだけに生まれ死んでいく者なのだと言う。
 他人に興味のない兄が、誰かのために何かをすること自体信じがたい。ましてその人のために生きているなんて、冗談にしても笑えないようなことだった。
 だがそんな風に思っていた那岐の耳に、兄が主を見付けたという情報が入ってきた。母がそれは嬉しそうに教えてくれたのだ。
 兄は毎日幸せそうに、主と共にいるのだと言う。
 想像が出来なかった。
 あの兄が幸せそうな顔をしていること自体嘘ではないかと思う。この世の全てがつまらない、そんな冷めた目をしていたのに。今は違うというのか。
 兄は変わったのだろうか。
 刀であるが故に、眼窩の奥に氷のような温度のない光だけを宿していた者は、それを溶かしているのだろうか。
 あの兄はどうしているのだろう。
 それまで一切気にしたことのなかった、どうせ兄は兄らしく淡々と冷ややかに生きているのだろうと思っていたのに、急激にそんな疑問が浮かんだ。
 そしてこんな疑問を思うのは自分だけだ。
 兄は決して自分相手にそんな疑問を抱くことはない。
 どこで何をしてしようが。那岐が死んでいようが、きっと兄は気にすることはない。
 兄を見てみたい。だが会いたいとは思わなかった。
 言葉を交わそうとすることすら無駄なのだと、これまでの経験で痛感していたからだ。
 その痛みを味わうのが嫌で、兄を避け続けている。だがそれがまさか唐突に崩壊するとは、思っていなかった。



 


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