参




 
 ぱん、と那智は軽く手を合わせた。
 離れた掌には柄の頭が生み出される。
 何度見ても不思議な光景だ。
 鐔が現れると、皓弥の背筋にぞくりとしたものが走る。
 もうすぐ刀身が見られるという期待と、そこに宿る色の鋭さに恐怖のようなものを覚えているからだ。
(出る……)
 皓弥は那智の掌から出される、自分のものと思われる刀を雪のような光を持った刀身だと感じていた。
 静かで、綺麗だ。しかし触れるとその色は汚れるどころか触れたものを斬り裂く。排他的で閉じされた空気を纏っているのだ。
 しかし那智の刀は氷だ。
 それも溶けることの決してない、極限の冷たさを宿した氷。
(触れた瞬間から、全て斬り捨てる)
 だからこそ美しい。
 皓弥の視線を奪い、那智の掌から生まれた刀は、月の光を浴びて艶やかに、そして物憂げに目を開けた。
「皓弥」
 右手に氷を握った男は剣呑な色を薄めて、名を呼んだ。
 皓弥は差しだされた掌に、そっと自分の手を乗せる。
 どくん、と触れた箇所から鼓動が伝わってきた。
 刀が生きているなんて聞いたことがない。
 苦笑しながらも皓弥は呼んだ。
 那智、と。声には出さずに。
 すると何か堅いものが掌を押した。
 そっと手を離すと、そこには自分を待ち望んでいたかのように柄が生えている。
「出番だ」
 握り、引き抜くと雪の光が清らかな色に輝いた。
 懐かしさが込み上げてくる。
 二週間ぶりの感触。身体が満たされるような気がした。
「開いてる」
「え?」
 那智は窓に手をかけ、スライドさせた。
 大きな硝子はからからと動き、部屋の中へと入れてくれるようだった。
「……不用心だな」
 外出する時には窓の点検くらいしろよ、と皓弥は呟く。
「もしくは誰かが入ってきても問題がない、むしろ都合がいいと思っているのか」
 那智は含みのありそうなことを言いながら、部屋へと足を踏み入れた。
「おい!土足かよ!」
「靴下でフローリング走り回れないでしょ」
「だからって人の家を土足かよ。うっわ…日本人を辞めたみたいだな」
 そう言いながら皓弥も靴を脱ぐことなく部屋へと上がり込んだ。
 昼間は日光が奥まで入りそうな部屋だが、今は蒼い月光に照らされている。
「……あぁ」
 皓弥は込み上げてくる不快感に、目の前で座っている人形が確かに鬼なのだと実感した。
 この血を喰らおうとする不躾な視線、殺気が漂い始めた。
「誰?」
 乾いた、高い女の声が部屋に響く。
 今更何処から聞こえてきたのだろうと思うほど二人は素直ではなかった。
「さぁ?」
 何だろう。と那智は口元を歪める。
 刀を握った不審な男二人を知覚したのだろう。
 衣が擦れる音がして立ち上がる気配がした。
 今まで微動だにせず、人形であり続けたそれは床に足を付けた。
「新しい腕?」
 唇は動かない、だが声は人形であったはずのそこから届いてきていた。
 瞳孔の収縮も呼吸による胸の上下もない。
 彼女は生きていないはずだった。
「腕になる気はない。喰われる気もない」
 人のようでありながら、人ではないものをまじまじを見つめながら皓弥は否定する。
「どうして?」
「……どうしてって聞かれてもな」
「食べて早く人間に戻りたいの。いつまでもこんな茶番を続ける気はないから」
「茶番?」
 ゆらりと人形は一歩足を踏み出した。
 履いている草履がかつんと鳴る。
 腕のない左の袖が違和感を生み出していた。
「人形なんてもう嫌なのよ。私は人間なのに」
「もう人間じゃないだろ」
 どう見てもと冷静な皓弥に、人形は首を振った。
「戻るの。戻れる。現にこうしてちゃんと人になっている」
「人を喰って」
「だから?」
 人形の声は微笑んでいた。妖艶な響きで。
「人は人を喰らって生きてるのよ?みんなそう、見ていないだけで。だって私はこうして」
 こんな姿にされたんだもの。
 動かない人形の顔が、僅かに笑みを浮かべたように見えた。
 錯覚だろう、だかもし本当に浮かんだとしたら。
 それは嘲笑だ。
「だったらそんな姿にした奴を喰えばいいだろ」
「一人じゃ足りないから。でも最後はあの男って決めているけど」
「あんたを作った人?」
「私をこんな形で自分のものにしようとした男よ」
 ああ。そう。
 皓弥は投げやりは言った。
 横目で那智を見ると同じことを言いかけていたようだ。
 話が繋がったなぁと思いながらも、事情なんてどうでもいい。そう思っていることがありありと感じられる態度だった。
 仕事に関しては鬼を始末することだけで、依頼人の事情も鬼の感情とやらもどうでもいいのだ。
(俺は話しかけられると返すから、自然とちょっとは知ることになるけど)
 那智は「何を言われても無言で斬り捨てる」と言っていた。
 それがある意味正しい仕事の姿勢かも知れない。始末する相手のことなど何一つ知らないほうが楽ではある。
「仲良かったのに、殺されたんだ」
「私は人形じゃないもの。都合のいい部分だけ見られも困るでしょ?そして都合が悪くなったから殺して、いいように作り替えるなんて、ねぇ」
 馬鹿げてると思わない?と人形は語る。
 どうも他人に話がしたかったらしい。怒りが滲み始めた口調で言葉が重ねられていく。
「だから、こんな馬鹿げたことからは早くさよならしたいの。やり直したいのよ」
 無理だろ。明らかなことを告げても、人形は収まらないだろう。
「もう一回死んでやり直せばいいと思うけど?」
「それは不公平だと思うわ」
 ふわりふわりと人形の髪が風もないのに揺れた。
「世の中は不条理だ」
「だから私も不条理を通そうと決めたの」
「わがままだ」
「たかがこれだけで!?」
 わがまま。と一言が癇に障ったらしい。
 人形の髪が浮き上がったかと思うと、矢のように飛んできた。
 ひゅん、と空気を切るそれを皓弥はとっさに避けた。
 だが真っ直ぐ伸びた髪は、するりと曲がった。
「はぁ!?」
 矢はしなやかに角度を変え、振り返った皓弥に突き刺さろうとする。
 その様はあるものを彷彿とさせた。
「祟り神!?」
「皓弥ってジブリ好きだっけ?」
「ナウシカ派!」
 緊張感に欠ける問い掛けをする那智を皓弥が視界の端で捕らえると、やはり鞭のように襲いかかってくる髪から逃れていた。
 踊るかのような足取り、その顔からは危機感というものはさっぱり感じられない。
「あー、ぽいなぁ。俺もそうだけど。あれは哲学的だねぇ」
「んな話は後にしろよ!」
 幾つかの房に分かれて放たれる髪の毛は、ぱしんと部屋のフローリングを叩いた。
 するとそこには浅い亀裂が走る。
(肌が切れるな……ってか四肢を切断したってこれか!)
 連続して発見された死体を切った正体が髪だと知り、皓弥は背筋に寒いものが走った。
(女の髪ってこわっ)
「っ」
 するっと髪が手首に絡みついた。きつく縛るそれに、骨がきしむ。
 すぐさま刀で切り落とすと髪は床に呆気なく落ちた。
(容易に切れるってのはいいが)
 縦横無尽にしなる髪のせいで、肝心の人形本体には近付けないのだ。
「うぜぇ」
 避け、払い、切り落としながらも髪は尽きることがない。
 那智はといえばたんたんと何やらリズムを取りながら逃げ回っている。
 鬼を斬るのは皓弥の役目だった。
 それは実習のようなもので、よほどの危険がない限り那智は手を出さないようだった。
「うっわ」
 皓弥は思わず「ばっかじゃねぇの」と言いかけた。
 足首を掴もうとした髪から逃れるために、くるりとバク転をしたのだ。
 宙で長身が綺麗な弧を描く。
 タンっと床に付いた片手を髪が縛る。
「那智!」
 縛られ自由を僅かに奪われた隙に、那智は刀を持っていた手も柄ごと拘束される。
 人形の頭と髪を通して那智が繋がった。
 それを切ろうとしても、皓弥にも同様に髪が突き刺さろうとして近寄れない。
「馬鹿が!」
 罵ると那智は「えー」と不満そうな声を上げる。全く慌てていない。
「てめぇどういう神経してんだ!少しは焦れ!」
 罵声を浴びせている間にも那智の首、腰、足にも髪が巻き付いていく。
「斬られるぞ!?」
「誰が?」
 くい、と那智は口角を上げた。
 意地の悪そうな、というよりもそれは嗜虐的な笑い方だった。
 見ている者を凍らせようとする、捕食者の笑み。
(っ……やばい奴…)
 身体の芯が震え、皓弥は唇を噛んだ。
「俺が?まさか」
 髪にぎりぎりと引き寄せられているはずの片手をゆっくりと手前に引き戻し、那智は柄を握っている側の手に触れた。
 そっと撫でた、それだけの動作で。
 はさりと髪が房ごと落下した。
 拘束を解かれた手で刀を振り、両手の自由を取り戻し那智は鬱陶しそうに首をさすった。
 黒い糸が力無く次々に床へと落ちる。
「……なんで」
 呆然としたのは皓弥だけではなかったようだった。
 人形の髪は戸惑ったようにうねる。
 そして那智の腰を縛っていた髪は恐れるかのように離れていった。
「質量保存の法則を完全に無視してるな」
 那智は服にかかっていた髪の毛を払い落とす。
 質量保存の法則って何だっけ?と文学部の頭を動かしているとがしゃんとドアが開かれた。
「美和!」
 振り返ると男がコンビニの袋を片手に立っている。
 髪と那智にばかり注意を向けていたため、物音に気が付かなかったのだ。
「貴方たちは何をやっているんですか!」
 細身の男、信宏と言われている男だろう、は力の限り怒鳴っているようだった。
「僕の美和に何を!」
 美和と呼ばれた人形はぶるりと震えた。
 刀を構えたまま、皓弥は那智と目を合わせた。
 まずいんじゃないのか。そう訴えると那智は肩をすくめる。
「傷付けないで下さい!!美和は僕の大切な恋人なんです!そんな物騒な物を持って」
 一体何を、と男が喋り続けていると人形は俯いた。
 そして。
「っ!!」
 今までしなりながら飛んできた髪が、一直線に皓弥へと放たれた。
 男に視線を配りながら立っていため反応が僅かに遅れる。
 反射的に顔背けると、シュンと空気を切りながら髪が耳のすぐ側を通った。
 ぷつんと髪をくくっていたゴムが切れ、首筋に細い髪がかかる。
 すぐに髪は曲がり、背後から突き刺さってくるだろう。
 そうなる前に、皓弥は走り出した。
 長く伸びた髪の合間をすり抜け、一歩も動かない人形の首に刀を滑らせる。
「茶番よ」
 刀身が首を真横に斬る寸前、人形はそう呟いた。
 堅い感触が掌に伝わってくる。
 首と胴は、あっさりと斬り離された。
「もしくは、悪夢ね」
 頭部は床に落ちながら言葉を紡いだ。
 女の声は皮肉を滲ませて、すぐに黙った。
 ごとり。と鈍い落下音。
 ほっと皓弥は息を吐き、力を抜いた。
「髪……」
 首を斬り落としたというのに、髪は真っ直ぐ伸びたままだった。
 先を辿り、皓弥は絶句した。
 黒く艶やかな黒髪は、男の首に巻き付いていた。
「っぐ……う…」
 男は首を縛るそれを両手で必死に緩めようとしている。だがそれは深く、強く食い込んでいく。
「殺すのか…?」
 あんたを愛して、人間に戻してくれようとしていた人じゃないのか?
 皓弥の問いに、頭部は答えない。無表情な人形は感情を現すことを捨てたかのようだった。
「はぁ」と気怠げに溜息が聞こえる。
 那智が男の首を絞めている髪を無造作に掴んだ。
 それだけでやはり髪は一本残らず切られた。
「一応、依頼人の希望なんでね」
 げほげほと咳をしながら、男はその場で膝を折った。
 驚愕が顔に張り付いている。
「皓弥」
 名を呼ばれ、皓弥は頭部に切っ先を振り下ろした。
 鬼は始末すると灰になる。それがまだ形を残しているということ潰えていないということだ。
 頭を貫く衝撃に手が痺れる。
 妙に堅い感触があり、皓弥は首を傾げた。
 人形の素材はこんなにも強度があるのだろうか。とよく見ると。
「…骨…?」
 ひび割れた塗装から、骨が現れた。グラスアイが零れるとそこには眼窩があった。
「…行方不明か」
 美和という女性の身体はずっと男の手元にあったというわけだ。
 人形になりながら。
 灰になりながら消えていく骨を見下ろして、皓弥は鉛を飲んだかのような憂鬱さを味わった。



 


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