四




 
 男は咳き込みながらも、四つん這いで歩き始めた。
 人形の着ていた着物に向かって。
 そこには塗料と思われる小さな破片が幾つも散らばっていた。二つのグラスアイが冷たく光を反射している。
 人形を破壊したことを男は怒鳴るか、襲いかかってくるだろうかと思っていた皓弥など視界にも入らないように。
 男は振り袖を胸に抱き締め、嗚咽を零し始めた。
 俯いた目からは大粒の涙が落ちていく。
「美和……」
 名前を大切そうに呼ぶ男を那智は見下ろしたが、すぐに背を向けた。
 刀を持っていた手を無造作に振る。すると刀は硬質の物体であったにも関わらず飴細工のようにぐにゃりと歪んでは幻にように消えた。
 部屋に入った時と同じように、那智は窓から出ていく。
「那智」
 皓弥が戸惑いながら呼んでも、立ち止まらない。「帰るよ〜、仕事すんだからね」とのんきな声は遠ざかっていく一方だった。
「いいのかよ」
 皓弥は急いで那智を追いかけるが「何が?」と問い返される。
「あのままで。不法侵入の上に器物破損、人形だから殺害じゃないだろうし。警察呼ばれるとやばくないか?指紋だって残ってるぞ」
 手入れのされていない庭を通り、二人は門をくぐった。
 数十分前、皓弥はここで後ろめたい思いを抱いたが今ほどではなかった。
「知らない男が二人して、恋人の死体で作った人形を壊してました。その上人形の髪が伸びて私の首を絞め、殺されそうになりましたって警察に話すと思うかー?俺だったら間違いなく医者に行けと言うな」
「まぁ……それはそうだろうが」
 男の家を後にしながら、一人も人間のいない道路を歩く。
 あの部屋は惨劇の場になってしまったというのに。門のこちら側は全く変化がない。静かなままだ。
「あのままでいいのか?」
「俺達に出来ることなんて何もないよ」
 那智はどうでもいい。と言うようだった。
 こんなことは茶飯事なのかも知れない。
 皓弥は割り切れないようなものを感じながらも、それ以上何を思っても無意味だとろう考えることを切り捨てた。
「なぁ、おまえって素手で髪切ったよな?」
「ん?ああ。切ったねぇ」
「なんで?」
 那智は鬼を斬る際、必ず掌から刀を生み出してそれを斬っていた。
 だから皓弥は刀でしか鬼を斬れないものなのだと思っていたのだ。
「この身体は鞘だって、言ったと思うけど。皓弥の持っているあの刀にとって俺は鞘だけど、元々は身体自体が刀そのものなんだよ。鬼に触れれば、触れた箇所から食い殺していく」
「手だけでなく、足で触れても?」
「蹴った所から斬っていく」
「全身凶器かよ」
「ま、そういうこと」
 説明を受けている間に、二人は車の元まで戻ってきた。
 だが那智は鍵を開けても、ドアに手を掛けない。
 まるで何かを待っているように、物言いだけに見つめてくる視線に、皓弥は顔を顰めた。
「おい」
「何でしょう」
「これ、なんとかしろよ」
 皓弥はぐいっと手に持っていた物を差しだす。
 銀白の光を帯びた、抜き身の刀だ。
 持ち歩くにはあまりに物騒なそれは、那智の体内に収められるべきものだった。
 ただ、収める方法が非常に納得がいかず、僅かな羞恥と気まずさがあるので皓弥はいつもぎりぎりまで渋るのだ。
 那智が一瞬かつ自然にそうしてくれることを切望しながら。
(最近はわざと言わせてるよな……性格悪っ)
 にやりと笑いながら「あー、そうだったね〜」と言いながら両手を広げる様が腹立たしい。
 今日もそんな馬鹿を晒すつもりだろうかと皓弥が溜息を押し殺すと、那智は何やら神妙な顔つきで距離を縮めてきた。
「んだよ」
 そんな真面目な顔でやるのだろうか。と皓弥が身構えると那智の指は頬ではなくその後ろへと伸ばされた。
「伸びたなぁ」
 マロンブラウンの髪は縛っていたゴムを失い、肩にかかっていた。適当にざくざくと切ったのではないかと思われる髪型だが跳ねることがない。細くしなやかな髪質のおかげだろう。
 那智の指はそっと髪を緩く掴んだ。
「……ゴムと一緒に髪も切れたんじゃないのか?」
 突然那智は髪を確かめるように撫で始めた。
 不機嫌そうに、眉を寄せながら。
「切れたかもな」
 結んでいたものが切れたのだから、髪も一緒に切れていても全くおかしくない。
 皓弥は髪などよりも刀をどうにかしたいと思い、頭を振った。
 髪をいじっていた手は離れていくが、那智は不満そうな表情を隠しもしない。
「んだよ。別にいいだろ男の髪くらい」
「嫌だ」
「はぁ?」
 まるで子どものような言い方だ。
 だだをこねるような、拗ねてみせるような那智に、皓弥は呆れて軽く頭をはたきたくなった。
(俺のことになると、どうもこいつは壊れるなぁ)
 普段からなかなかにおかしい人物ではあるが。
「んなことより」
「分かってる」
「だったら早くやれよ」
 とっとと落ち着きたい気持ちで、皓弥は苛立つ。
 どうも、いつされるか分からない状況というのは居心地が悪いのだ。
 逃げたいのだが、逃げても仕方ないと分かっている。それを必死に堪えているのは疲れる。
「はいはい」
 那智は苦笑しながら、それでも指は再び髪に埋められた。
「またか」
 いい加減にしろよ。とたしなめる皓弥の言葉を無視し、手は後頭部に当てられた。
(うーあー……このいかにもってのが嫌なんだよ)
 近寄ってくる唇に、皓弥の身体は強張る。
 ふわりと柔らかな感触に、呼吸が塞がれる。
(これさえなけりゃなぁ……この刀って最高なんだけど)
 握っている刀は手に馴染んだ、切れ味の鋭い、美しいものなのだが。
 いかんせん那智の体内から取り出し、収める時は唇から、というのだ。
(納得出来ねぇ……)
 那智にキスされるのが気持ち悪いわけじゃないのだが、皓弥は元々人と触れあうのが好きではない。
 那智に対してだけは不思議とそんなに抵抗もないのだが。
 だからとって、好きこのんで男としたいとは思わないのだ。
(つか……長いっ!だんだん長くなってねぇか!?)
 一番初めは一瞬だけのものだったが。次第に触れている時間が長くなっていく。
「っ!?」
 唇を割り込む熱を感じて、皓弥は身体を退こうとした。
 だが頭を包み込む掌に止められる。
(まさか、この手はそのつもりか!?)
 歯を食いしばって舌が入ってくるのを防ごうと思っても後の祭りだ。
 すでに差し込まれたそれは奥へと進入してくる。
「んっ……!」
 絡み付いてくる舌に、逃げようとする動きをさらわれる。
 身体を離そうと那智の胸を押すが、ろくに力が入っていないことは自覚出来た。
「は……ぁ」
 開かれた唇から、吐息が零れる。そのかすれた響きに、皓弥は耳を疑いたくなった。
 嫌悪が一切混じっていない。
 当然と言えば当然のことだった。気持ち悪くなどないのだから。
 けれど。
(求めるつもりもない!!)
 意志と関係なく指先が痺れる。背筋から腰にかけて、ぞわりと逆撫でされたかのような感覚に襲われた。
(っの野郎!!)
 力は抜けていくが、皓弥の怒りのボルテージは上がる。
 舌先に軽く歯を立てられ、喉がひくんと動いた。
 ぎゅと押し返すはずだった手で、那智の服を握った。
 すると唇がそっと離された。
「皓弥」
 低く、柔らかな声音で名を呼ばれ、皓弥は目を伏せると。
「っのボケがぁぁ!!」
 拳を握り、那智の鳩尾へと打ち込んだ。
「っぐあ……」
 無惨な呻きを上げ、しゃがみ込む那智の後頭部を踏んでやろうか悩みつつ、皓弥は右手を見た。
 握っていた刀の柄がなくなっている。
 ちゃんと収められたということだろう。
「なに舌入れてんだ、調子こいてんじゃねぇぞ」
 冷ややかな口調に怒りを込めながら、皓弥は悶絶する男を見下ろす。
「誰がそこまでしていいって言った?なぁ?俺がキスすんの好きだとでも思ってた?んなわけねぇよなぁ?」
 こんだけやるの渋ってんだからな。毎回毎回。と口元には自棄気味の笑いが浮かんでいる。
「てめぇの大切にしてる車ボコって廃車にすんぞ。それともペンキで落書きしてマンション前に放置してやろうか」
「く、車は買い換えようと…」
「んじゃおまえの部屋にペンキぶちまける。パソコンとか本やらを全部駄目にしてやるよ」
「うあぁ……ごめんなさい」
 苦しげに那智は謝罪する。
 この攻撃が相当、泣くほど辛いことを皓弥は容易に想像出来た。
 自分が同じ事ことをされれば、廃人になってもおかしくないからだ。
「反省したらとっとと立ち上がって、エンジン入れろ。帰る」
 横暴ですね。とすがるような目で見上げてくる那智に「早くしろ」とだけ告げ、皓弥は助手席に回った。
 ご機嫌ななめで俺様爆発だった。


 頭からタオルをかけ、皓弥は冷蔵庫へと向かった。
 風呂上がりには水分補給だ。
 ぽつんぽつんと水滴が前髪の端から落ちていく。
「ああ……それはないだろう。死体もないんだからな。……そのあたりは俺達の仕事じゃない」
 那智がリビングの椅子に座りながら、気怠そうに携帯を耳に押し当てている。
 内容から察するに、相手は荻野目だろう。
 今日こなした仕事の報告だ。
「そっちで判断してくれ。ああ」
 皓弥はスポーツドリンクをグラスにそそぎながら耳を傾けていた。
 ああ、そうだ。などの言葉を二言三言告げ、那智は電源を切った。
「なんだって?」
「金の振り込みは来週だって」
「あっそ」
 別に振り込まれる日付に興味などなかった。
 しばらく貧乏を気にせずにいられるだけの金額がすでに口座にあるからだ。
「ちゃんと拭きなさい。皓弥」
 那智は椅子から腰を上げ、皓弥の頭をタオルで拭き始めた。
「自分でやる」
「いいから」
 子どもじゃないんだから。と言う皓弥に、那智は笑いながら世話を焼く。
 止めろと言ってもきかないことは、この一ヶ月半の同居で実証済みだ。
 ぐらぐらと頭は揺れるが、痛くない。力を随分加減しているのだろう。
「あー、このあたりがちょっと短いな」
 水気を取ると那智は皓弥の髪を手で梳いた。
 指に絡むことなく、すっと流れていく。
「ふぅん」
 皓弥はグラスを傾けながら、聞き流す。
 まじまじと眺める那智の指が触れた髪の一房を摘んだ。
「手入れ、してないだろうなぁ……皓弥だもんな」
「してるわけねぇだろ」
 そんなめんどくさい。と素直に言う皓弥に那智が苦笑した。
「それでもこんだけ綺麗ってなぁ。女なら悔しがるだろうな」
「俺は女じゃないから何とも思わん」
 皓弥は自分の髪より、それを摘んでいる指のほうが気になった。
 所々骨張った、長い指。爪の形が少し平べったい。
「……切れないんだな」
「何が?」
「髪」
 人間なんだから当たり前だが、皓弥はその指にしなやかな黒髪を思い出していた。
 人形の艶やかな髪はいともあっさり切れてしまっていたというのに。この細い髪は優しく指に寄り添っている。
「そりゃそうだよ。俺が皓弥を傷付けることはないからなぁ」
 皓弥は人間だから。そう言えばいいものを。那智は微笑みながら言う。
(こいつは……)
 脱力しながら、皓弥は呆れを飲み込んだ。
 気に入った女にでも言ってやればいいのに。
「あっそ」
 ただの同居人は素っ気ない一言で終わらせた。
 やっぱりおかしな男。と思いながら。
 


 


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